今回の記事は浄土真宗の親鸞についての記事です。
私がずっとお世話になっているカウンセリングの先生は、カール・ロジャーズと親鸞が大好きでして、その思想に強い影響を受けています。
したがって、先生が大好きな私も、この両者の思想に大きな影響を受けています。
私は親鸞を長年研究しているわけではなく、あくまで親鸞が大好きな先生の人生観に影響を受けていることと、歎異抄をちょっと読んだ程度です。
親鸞を長年研究している人にしてみれば、浅はかな内容になるかと思いますが、親鸞のいち、にわかファンが書いた記事であると理解し、ご容赦ください。
私が先生の語る親鸞や、歎異抄を読んで強く感じるのは、親鸞の強い純粋性です。
親鸞ほど純粋な人間は、どの時代にもなかなかいません。
現在私は、強い純粋性を持つ人は、逆エンパス体質であるかもしれないという仮説を持っています。
というわけで、これから親鸞は、逆エンパス体質だったのではないか?という考察をしていきます。
興味のある方は読んでみてください。
※この記事で紹介しているエピソードは、ほとんど歎異抄に書かれていることです。
浄土真宗の親鸞は逆エンパスか!?―親鸞はすべての人を救いたかった
親鸞が信じていた仏様は、すべての人を救う仏様です。
どんな悪人であっても救うという仏様。
すべての人を救いたい。
親鸞のそんな強烈な願いを感じます。
私は、このあたりの感覚に親鸞の逆エンパス性を感じます。
逆エンパス体質の人は、非常に純粋なエネルギーを身体に宿した、エネルギー放出体質の人です。
自分から放出されている純粋エネルギーは、周囲一帯を包み込み、それら一帯のすべてを自分のことのように感じてしまいます。
あの人も、この人も、その人も、すべて私、かのように感じて、気になってしまうのです。
だから、あの人も、この人も、その人も救われなければ、私が救われない。
きっと親鸞は、当たり前のようにそんな感覚を持っていたのではないでしょうか。
難しい仏教の教えを理解できない人々。
日々の生活でいっぱいいっぱいで、救われるための修行をする暇なんてない人々。
厳しい修行を乗り越えなければ悟れない、救われないという教えでは、まったく役に立たない人たちが世の中には溢れていました。
そんな人たちをみんな救えるような教えでなれけば親鸞自身が救われなかったようなのです。
親鸞の浄土真宗は、簡単に言うと、南無阿弥陀仏と唱えれば、どんな人でも必ず浄土にいける(死後に必ず救われる)という教え。
浄土真宗の親鸞は逆エンパスか!?ー親鸞の純粋性
親鸞は、その時代の常識、支配的な価値観だった、「厳しい修行を乗り越えれば煩悩を克服し、悟れる」という教えよりも、自分の身体の感覚を信じられる人だったようです。
単純に厳しい修行を繰り返しても親鸞は救われなかったのです。親鸞は、その救われなさを全く偽らなかった。嘘がつけなかったのです。
まさに純粋。周りの人々の動向や、自分の身にふりかかる権威・権力、潤沢な理論よりも、自分の身体の声の方が大きく聞こえ、それに従わざるを得なかったのでしょう。
周りの人や、環境に抵抗なく染まることができる人のほうが、苦難は少ないかもしれない。
多数派の意見に何の疑問も持てないほうが生きやすいかもしれない。
しかし、親鸞はそうでなかったようなのです。
10人中9人の人が疑おうともしないものを、たった1人で疑える人、それが親鸞だったのです。
しかも親鸞は、そんな自分を愚かな人間だと言ってます。
社会や常識が間違っているというような言い方は全くしなかったのです。
それは、謙虚というよりも、ただただ、自分の抱えている欲望の自覚に厳しかったのだと思います。
罪業深重の凡夫
親鸞は、人間の悪行の種である煩悩(欲望)は修行によって克服できるものではないと悟ったようなのです。
そもそも煩悩をなくそうということ自体が、煩悩そのもののはたらきです。
だから自分を、煩悩具足、罪業深重の凡夫、悪人であると認めたのです。
そして、その悪人こそが救われていく教えを求め、出会い、学び、信じ、広めたのです。
結局自分の欲望は無くならないんだ!
この気づき、叫び、苦しみ、学びは、強い純粋性がなければ到達できないように思います。
欲望があるから苦しい。
これは誰しもなんとなくわかります。だから、それをなんとか無くしたい。だけど、全然無くせない。
厳しい統制的な生活をおくれば、自分の欲望を正しく抑えていけるかもしれない。
そうすれば、いずれはその欲望はなくなり、楽になれる。救われる。
しかし、親鸞はいくら厳しい修行をしても、そうはならなかった。
そして、今後もそうなれないことを身体全体で実感してしまったのでしょう。
親鸞は己の欲望の強さがはっきりと自覚できたのです。
自覚できて、自覚できて、隠しようがなかったのです。
抑えようもなかったし、それを、抑えきろうとすることに、自然(じねん)を感じられなかったのではないでしょうか。
煩悩、欲望とは、エネルギーである
欲望とはすなわちエネルギーです。
親鸞はきっと、常日頃から、あふれんばかりに自分のエネルギーを感じていたのでしょう。
あふれんばかりのエネルギーと、強烈な純粋性、この辺りが、私が親鸞は逆エンパス体質だったのではないかと考えた大きな理由です。
浄土真宗の親鸞は逆エンパスか!?ー親鸞は嘘をつけなかった
「念仏を唱えても、躍り上がるような喜びがわいてきません」という後輩(実質的には弟子にあたる)の告白に対して、親鸞は、「私もそうだ」と応えたという有名なエピソードがあります。
この告白は、当時としては完全なる異端の表明であり、背信行為となるような発言なのです。時代的に、立場的に、この告白がどれほど重いものだったか、計り知れません。
この人は、相手が親鸞だったからこそ、信じて告白することができたのでしょう。
そして、親鸞は、その信頼に応え、その告白を咎めるどころか、正面から受け止め、さらに、自分もそうであると認めたのです。
これって、相当すごいというか、相当ヤバいできごとなんだと思います。
このエピソードがあらわしているのは、親鸞の常軌を逸する純粋性なのです。
浄土真宗の親鸞は逆エンパスか!?ー親鸞は、真っすぐ「わからない」と、言えた人
念仏を唱えれば、誰一人としてこぼさずに、救われるということが信じきれず、命がけで遠方から親鸞を訪ねてきた人に対して、親鸞は「わからない」と真っすぐ言える人でした。
そして、ただ、自分は師の教えを信じているだけだと言える人でした。
たとえ、その師の教えが嘘で、地獄に落ちたとしても、私は後悔はしない。
どんな修行をしても救われなかった自分なのだ。
どちらにしても地獄にしか行き場がない自分なのだ。
だから私は信じられる。
ただ師の教えを信じられる。
ここでも親鸞は、ひとつも嘘をついてないんです。
そして、自分が信じている信じ方を、正直に、隠すことなく、ありのままに伝えている。
命がけの旅をしてきて、親鸞に教えを聞きにきた人々に対する、これ以上誠実な応えはないでしょう。
浄土真宗の親鸞は逆エンパスか!?ー他力本願の教え
他力本願の教えとは、自力によって救われようとする人よりも、自力の限界を純粋に自覚し、他力(誰一人としてこぼさず救うという仏)を信じよ、という教えです。
親鸞は、厳しい修行を乗り越えることで、煩悩を捨てることができると信じる人を善人と呼びました。
そして、自分は何をどうやっても煩悩を捨てることができない、煩悩具足の身であると受け止めることができる人を悪人と呼びました。
そして、悪人は善人よりも早く救われるという教えを信じました。
この自分の力ではどうすることもできないのだ、他力を信じるより他ないのだという感性が、私にはとても純粋であるように感じられるのです。
結局、純粋性とは、煩悩(欲望エネルギー)の、どうにもならなさをどれほどリアルに強く感じられているかということなのかもしれません。
浄土真宗の親鸞は逆エンパスか!?ー仏の教えはただ親鸞のためだった
阿弥陀如来が五劫という長い時間をかけて思案を尽くして建てられたお誓いをよくよく考えてみると、つくづくそれはこのわたし(親鸞)ただ一人に向けての救いの御心であった。
この親鸞の言葉は、私の先生にも何度か聞かせてもらった、親鸞の感覚をリアルに教えてくれる言葉です。
この言葉は、自分のこれまでの行いは、すべて、親鸞自身が救われていくための行為だったという気づきを表しているように思います。
親鸞は、自分が信じることのできた教えを多くの人に伝えるために、長い距離を歩き回りました。
それは、仏の教えを伝えることで、一人でも多くの人を救うためだったのですが、一番救われたかったのは、親鸞自身だったと気づいたのです。
それは自分の欲望への強烈な自戒であり、自覚であると私には思えます。
親鸞は、すべての苦しみから、欲望から、猛り狂う自分自身のエネルギーから救われたかった。
そして、そのためには、どうしても、目の前の苦しんでいる人が救われていく必要があったのです。
それは、どの人も、まるで自分かのように感じられてしまうから。
彼が逆エンパス的な感性を持っていたから。
私にはそう思えるのです。
浄土真宗の親鸞は逆エンパスか!?ーおわりに
いかがだったでしょうか。
今回の記事では、浄土真宗の親鸞について紹介してみました。
簡単な記事でしたが、少しでも親鸞の純粋性を感じられたでしょうか。
私は、親鸞から凄まじい純粋性を感じたこと、そして、親鸞が真に救われるには、どうしても自分以外の人もことごとく救われていく必要があったという自覚に至ったこと。
この二つの理由から親鸞は逆エンパス体質だったのではないかと仮説を立ててみました。
きっと、親鸞は意図せずにも、周りの人の無意識に強烈な影響を与えていたのではないでしょうか。
エネルギーにあふれ、おのれの欲望に嘘が付けず、自分のために周りの人を救おうとせざるを得なかった親鸞。
こんな親鸞が教えてくれる浄土真宗なら、私も信じられただろうなぁと本当に思うのです。
親鸞さん。一度、会ってみたかったなぁ。
多感な凡人 黒田明彦
歎異抄に関してはいろいろと本が出ていますが、こちらが私の先生に勧められた本です。