私自身、人見知りをするというか、対人関係において、慣れていない人と話すことがとても苦手です。
見ず知らずの人とすれ違うときにさえ、緊張感が走るときもあります。
たとえば、私が最近ハマっているサウナでも、多くの人たちが社交的な会話をしていますが、私は、そこで、話しかけてくるな、話しかけてくるな、と下を向きながら、緊張しています。
人見知り、常に壁を作っている感じ…。
社交の場でリラックスしていることは少なく、いつもグッと圧迫感を感じている。
このように他人との関係においてリラックスできることが少ないのはなぜなのか?
この私自身の体験を解き明かしてみることは、人見知り、対人緊張で悩んでいる方に、少しのインスピレーションを与えるかもしれないと思い、今回記事を書いてみました。
多くの人には当てはまらない体験だとは思いますが、興味のある人は読んでみてください。
https://kanjoutantei.com/gyaku_empath_counselor
【人見知り考察―緊張の壁】私の対人感覚
いきなりですが、私は、相手と波長が合っていないと、リラックスして会話ができないという感覚を持っています。
ですから、ごくまれに出会える、最初からやたら話しやすい人、以外の人と話すときには、ほとんど緊張しているのです。
こんな感覚を持っていますので、たとえば、ある環境に適応するため、安定した人間関係を構築する必要があるときは、こちらから特定の人に、積極的に波長を合わせに行きます。
例)学校で友人を作ったり、職場における最低限の人間関係を確保したりするときなど。
私は、波長が合っていない相手とはリラックスして会話できません。
そして、他人と波長を合わせるのには、エネルギーと時間をそれなりに使うことになります。
だからいつも特定の誰かとばかり仲良くしたがり、結果依存的になってしまう傾向があるのです。
社交、上辺(うわべ)トークを極端に嫌う
私は心にもないことを言いたくありません。
自分のエネルギーの薄い言葉を言いたくありません。
人に合わせるために、自分が薄くなりたくありません。
ですが、波長の合っていっていない人とは、上辺トーク、薄いやりとりしかできません。
その薄い上辺トークは、私にとってストレスでしかないため、できればやりたくないのです。
極端なことを言えば、今、仲良くなりたいと思えている相手、仲良くなる必要がある相手意外とは、基本的にはコミュニケーションを取りたくないのです。
今後、関係性がつながっていく見込みのないやりとり。
その場限りのやりとり。
お互い建設性のないやりとり。
そして、それ故に、本音、真意を隠したままのやりとり。
それを無意味に感じてしまうのです。
どうも私は、波長が合わない人と話をしなくてすむようにと緊張しているようなのです。
【人見知り考察―緊張の壁】緊張の壁は拒絶のオーラ
その緊張の壁は基本的には、「私に話しかけないで欲しい」という態度です。
私にとって対人緊張は拒絶のオーラの体感であるようです。
私は波長を合わせる必要もない、表面的で社交的なやりとりを好まず、拒絶してしまいます。
そこにストレスを感じてしまうのです。
また、私の経験から言って、波長があっていない相手との間で純粋性を保とうとすると、自分か相手のどちらかが傷ついてしまう結果になりやすいのです。
だから、波長を合わせようともしないで、簡単に話しかけてこないでほしい!
そのような感じで身体は緊張しているのだと思います。
薄さの拒絶
私は、純粋性の薄いエネルギーの言葉のやりとりを拒絶してしまいます。
たとえばTwitterなどで、私からすると純粋性の薄い応援、純粋性の薄い啓発のつぶやきに、多くの人の共感の反応が集まっているのを見るときに、私は世界に居場所がなくなるような気持ちになります。
そんな純粋度で満足できる人達と、響きあえる気がしない。
孤独を感じます。
そして、同時にそれが申し訳ないことのようにも感じるのです。
できれば、私も共感したい。感動したい。
しかし、純粋性の薄いやりとりを良しとすることは、私の純粋性が許してくれません。
もうそれは受け入れるしかないようなのです。
それは私の変えようのない反応なんだ、と。
【人見知り考察―緊張の壁】波長を合わせるには
私は、波長が合っている相手とのやり取りはすごくリラックスできます。
しかし、波長は最初からピッタリと合うことはほとんどありません。
他人と波長を合わせるにはエネルギーと時間を使います。
だから、そのやりとりは、基本的には今後も仲良くしていきたい人とのみ行いたいのです。
自分に合いそうな人と、多くの時間を過ごし、多くの言葉をかけあい、ゆっくりと波長を合わせていく。
ちょっとギョッとするかもしれませんが、私の感覚でいうと、こちらのエネルギーをたくさん相手に送り込み、こちらに合うような相手になってもらうような感じなのです。
それができる関係であれば、相手の純粋度がさほど高くなくても、波長が合っていき、その関係の中では私の純粋度を保つことができます。
私はこれまでの人生において、波長を合わせる人を複数人同時に持つことが難しかったです。
しかし、その対象が1人しかいないと、依存的になりすぎて、良好な関係を継続していくのは、ほとんど不可能であるということを学びました。
同時に2、3人は、波長を合わせてもらえる人がいるほうが生きやすいのでしょう。
なかなか難しいことですが、心地よく生きていくためには、それぐらいの器用さは身につけなければならないようです。
【人見知り考察―緊張の壁】純粋なコミュニケーションって?
嘘の必要のないコミュニケーション。
取り繕う必要もなく、とてもリラックスしている。
エネルギーの濃さそのままの、濃いやりとり。
それは、相手の世界をそのまま聞こうとするもの。
そしてこちらの世界をそのまま聞いてもらおうとするもの。
そして、あたかも世界を共有しているかのように感じること。
これは、不特定多数の人とできるようなコミュニケーションではないかもしれません。
じっくりと波長を合わせた人とだからこそ、できるコミュニケーションなのでしょう。
【人見知り考察―緊張の壁】世界の純度と本音の関係
本音が言える関係。
本音にブレーキがかからない関係。
それは存在します。
本音以外を語るとき、苦しくなってしまう私は、本音が言えない、まだ波長の合っていない相手との会話は常に緊張します。
私にとって今の世の中は、緊張しっぱなし、拒絶しっぱなしの世界なのです。
波長が合わないというのは、純粋度が合わないとも言い換えられる
おそらく私の純粋度が低くなれば、その分、緊張度も低くなるだろうと思います。
私の純粋度が低くなれば、拒絶すべき上辺や薄いエネルギー、そういう感覚そのものが薄まってくれることでしょう。
それでは自分の純粋度を下げずに、緊張度を下げる方法はあるだろうか?
それは、世界全体の純粋度が上がるより他ないと思います。
世界の純粋度が上がれば、私にとって興味深いことも、話したいことも、そこかしこに増える。
つまり、言いたい本音がどんどん増えていくでしょう。
私は薄いものには興味はないんです。
だけど、それは多くの人にとって、失礼なことになってしまうとわかっているから、それを隠さなきゃいけないと思っている。
だから緊張してしまうのです。
純度の低い環境では私は常に緊張する。
それは仕方のないことなんだ。
それでいいんだよ。
私はそう理解できるようになるまで、長い時間がかかりました。
【人見知り考察―緊張の壁】世界(その場)の純粋度を上げるには?
私のように、純粋性の高い逆エンパス体質の人は、自分中心にやりとりをすることで、その場の純粋度は高まります。
それはただ、自分を偽らず、率直に自分のところを声にし続ければいいのです。
それができれば、その場の純粋度は高まります。
遠慮して、何も言わなければ、変えることを怖がれば、その場は苦しい不純な場のままです。
私の率直な発言を聞いて、純粋度の低い人はそこから逃げるかもしれない。
それはそれでいいのです。
ちゃんと私の純粋度についてきてくれる人もいます。
そして、もし、強く反発されるようなら、私の方がその場から逃げればいい。
逆エンパス体質の人(極めて純粋度が高い人)の場合は、自分の純粋度を現実化すると、場の純粋度も上がるのです。
それはつまり、そこが自分の場になっているときは、その場の純粋度が高くなるということです。
極端に言えば、その場を拒絶したくなければ、その場を自分の場にしなくてはならない。
これが、逆エンパスの命題とも言えるのです。
【人見知り考察―緊張の壁】おわりに
いかがだったでしょうか。
今回の記事は、私の人見知り、対人緊張の正体は、波長の合わないままのコミュニケーションへの拒絶であり、その緊張は、まさに拒絶のオーラの体感であると仮説を立ててみました。
対人における緊張感は不快なものなので、取り除きたいのは山々ですが、身体がそのような反応をしてしまうのには自然な理由があるようです。
私の身体が何を嫌がっているのかが、少しでも明確化すると、その拒絶のオーラを少し受け入れ、少し便利に利用できる可能性もできてきます。
変えられるものは何で、変えられないものは何なのかということを理解することが大事ですね。
波長がぴったり合う人間というのは、世の中にそうそう存在するものではないと思います。
そして、現実的には、自分たちの波長に気づかない人の方が多いでしょう。
私の緊張はこれからも、なかなか、なくなることはなさそうです。
もしあなたが、強い対人緊張、人見知りをお持ちなら、それは、あなたの身体が、何かを拒絶しているのかもしれません。
その拒絶の対象は、私のように波長の合っていないことが自覚されないままに行われるコミュニケーションなのか、それとも全く別の何かなのか。
あらためて、じっくり考えてみても面白いかもしれませんね。
多感な凡人 黒田明彦