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承認欲求とは・承認欲求を否定することはできるのか?人間よ安寧のために解離せよ

やぁ、冥王だ。

今回は承認欲求について書いてみた。

承認欲求とは何ぞや?ってことと、承認欲求は否定できるのか?ってことでダーッと書いてみた。

承認欲求とは、他者に認められたいという気持ちと、自分の価値を認めたいという気持ちでなりたっている。

この2つについて少し深めた結果、結論として人間が現代社会で承認欲求を満たすには、解離が必要だという結論に至った。

なかなかファンタスティックで興味深いだろ?

ちょっとでもそう思った君は、是非読んでみてくれ。

それでは、始める。

さあ、今日も言葉と一緒に遊ぼうぜ。

承認欲求とは?

承認欲求は否定できるのか_承認欲求とは

承認欲求(しょうにんよっきゅう)とは、「他者から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」という欲求であり、「尊敬・自尊の欲求」とも呼ばれる。

そして、承認欲求は、以下5つの欲求と結びつきながら、行動や態度として具現化するそうな。

  1. 優越欲求 他人よりも優れていたい
  2. 自己顕示欲求 自分の存在をアピールして注目を浴びたい
  3. 対立欲求 他人と違ったユニークな存在でありたい
  4. 同化欲求 他人と同調して感情移入したい
  5. 救護欲求 愛されたい、慰められたい

同化欲求は、ちょっとややこしいが、大体、承認欲求とは、自分自身の存在を安定させたい欲求と言えるな。

承認欲求とは自我の欲求そのもの

承認欲求は否定できるのか_承認欲求と自我

私は自我について考えるのがとても好きでね。

承認欲求について考えるにも、自我のはたらきを無視できない。

自我は「私」というよくわからない何かを存在させるために、ものごとを分離し続けるはたらきのことだ。

私は、君とも☞君とも☝君とも☟違うからこそ、存在できる。

自我ってのは、そういうふうに他との違いを徹底的に見つけていく機能なのだ。

違いを見つけることが自我の存在意義だし、比べることが自我のはたらきそのもの。

自分と他人を比べるな!ってよく聞くけど、そもそも自分と他人を比べることで、自分って生まれているんですよ、って話なんだよ。

自我と愛と承認欲求・自我は苦悩のもと

承認欲求は否定できるのか_自我は苦悩の元

自我は苦悩と苦しみのもとである。

多くの場合、苦悩と苦しみこそが、よくわからん「私」という存在を安定させる。

そして、この自我のはたらきを緩和させてくれるもの、分離機能から生まれる、苦悩や苦しみを和らげてくれるものが、だ。

人間は、分離の苦しみによる存在の維持から逃れたくて、愛を求める。

愛ってのは、あれだ。

別にお前、何者でもいいぞ。

別にお前、理由なく存在していいぞ。

別にお前、理由なく安心していいぞ。

ってやつだ。

これが、誰かの言葉や態度のおかげで、身体全体で信じ込めるようになるやつのことだ。

愛ってやつが、身体全体で信じ込めていると、別に自我が頑張らなくても、「私」というよくわからない何かの存在が揺らがなくなる。

苦しまなくても、がんばらなくても、成功しなくても存在できるようになるんだぜ?

そりゃ、愛ほしいだろ。

安らかに存在するために、愛を求める心。

それが承認欲求の正体だと思う。

愛くれよ、愛。

愛とお金は少し近い

承認欲求は否定できるのか_愛とお金

そう考えると愛とお金は少し近い。

資本主義社会は、お金があれば、とにかく生きていくことは許される社会だからな。

実際は、どんなにお金あっても、自我の分離のはたらきは、おさまらず、苦しみは終わらないのだけどな。

でも、愛よりも、お金のほうが目に見えるし、わかりやすいから、お金が大人気なのは納得。

私も大好きだ。

お金くれよ、お金。

承認欲求と、アドラー

承認欲求は否定できるのか_アドラー

承認欲求の否定の話は、有名なアドラーさんの主張が有名だ。

他者から承認されなくても、自分に価値があると思えると、心が安らぐ。

そして、共同体に貢献していると感じられるときに、自分に価値があると思える。

ふむ。

特定の誰かに承認されるために何かをやるんじゃなくて、共同体に貢献するためにやると良いってことか。

なるほど、少し、思考の抽象度をあげればいいわけだな。

確かに、確かに。

例えば、商売で言えば、ひとりひとりのお客様に承認されるかどうか、ということより、組織への貢献を考えていたほうが楽そうだ。

いろんなお客さんいすぎるからな。

ただ、フリーランスみたいに、どこの組織にも属していない場合はどうしたらいいんだ?

もっと大きな共同体を考えると・・・、日本、世界、宇宙に貢献するという発想になるな。

うん、大分マシな気がしてきた。

人間のための貢献、っていうのも良いな。

ひとりひとりお客さんに承認されるかどうか?という視点ではなく、人間に貢献できているか?という視点で、考える。

そうすれば、その生業において、自分に安定した価値を見いだせる。

ふむ。

貢献度ってどうやって調べればいいですか?

承認欲求は否定できるのか_貢献度

あれ?

しかし、人間に貢献できているかどうかをどう確かめればいいんだ?

貢献度ってどうやって調べるのよ?

結局、自分の貢献度って、他者の承認具合で確認するしかないんじゃないの?

こりゃ、ロジャーズだけじゃなく、もっとアドラーをしっかり読まないとだめだな。

 一緒に読もうぜ!

承認欲求、自分を価値ある存在として認めたいということ

承認欲求は否定できるのか_自分を認めたい

承認欲求には、自分を価値ある存在と認めたいという意味もある。

自分の価値・・・、価値ねぇ。

社会においては、人間の評価が数量化されることが当たり前になっている。

受験もそうだし、就活だってそう。SNSだってそう。イイね

数量化できる能力の評価によって戦うことが当たり前になっている。

この他人の数量的評価によって、自分の居場所が決まるという現実を前にして、承認欲求は否定できるものなのだろうか?

承認欲求と、数量的な価値基準からの脱却

承認欲求は否定できるのか_数量的価値基準

承認欲求に関係なく、私たちは人生の節目で、わりとガッツリと数量的評価を受けてきている。

そして、それを受け入れることで自分の居場所が決まってきた。

少なくとも私の現実はそうだった。

君の現実もそうだっただろう?

今の君の居場所は、他人からの数量的評価の結果だろう?

承認欲求、自分の価値を認めるということ

承認欲求は否定できるのか_自分の価値を認める

承認欲求を満たす。

そのために自分の価値を認める。

自分で、自分の価値が認められれば、承認欲求は満たされる。

だけどね・・・。

自分の価値を認めるってさ、自分なりの採点で、自分で自分を満足させるように、自由に自分を数量評価しようぜ!って話じゃないと思うんだよ。

よく言う、ありのままの自分とか、無条件の肯定とか、自己受容とかは、自分を数量的に評価することから脱却しようぜ!ってことだと思うんだ。

さっきのアドラーの他者貢献でいうなら、他者貢献を数量で表すのやめようぜ!ってことかな。

うーん、でも、相当難しいんだよ、これ。

承認欲求と社会のシステム

承認欲求は否定できるのか_社会のシステム

まずね、社会は合理的に人間を数量評価して区分けすることでなりたつシステムで、できているわけだ。

そんで、私も君も、それに適応し、その恩恵も受けている。

それなのに、自分の頭の中だけは、人間を数量的評価するのをやめる!っていうのは、もはや現実体験と思考の解離だと思うんだよ。

それほどに、現代社会で生きていくためには、自分を数量的価値で表す価値観から離れるのは厳しいと思う。

だって、それって、ほとんど「科学的思考から離れようぜ!」ってことだもの。

こんなに毎日スマホの画面見て、便利に暮らしているのに。

数量評価こそが、苦しみの種、人間よ、解離せよ

承認欲求は否定できるのか_解離せよ

自分を数量的価値観で計っていく環境にあると苦しい。

まぁ、でも科学が支配している世界、勝負の世界って大体どこもそうだよね。

そして、生きていりゃ、避けられない勝負は何度も来る。

だから、承認欲求を満たすには、現実的には勝負をしながら、心の奥底では「実は勝負をしてないぜ!」っていう器用さが大事なんだろうな。

受け入れるということは、変えることを諦めることで適応すること。

結局、現実が変えられないなら、心の中を変えろってことだ。

外が変えられないなら、中で遊ぼうぜ!ってこと。

現実体験と思考の解離を受け入れろ!

いいんだ、現実の身体の動きと頭の中が分離していても。

ていうか、それができなければ、現代社会においては、勝ち続けない限り、心の安寧はない。

自己一致と自己解離

承認欲求は否定できるのか_自己一致と自己解離

どうなんだろう。

これまでの人生、自己一致こそが心の安定って信じて、結構走ってきちゃったけど。

まぁ、「解離している私こそ、私」でも自己一致できるんじゃね?ってことだな。

OK!OK!

矛盾していこう。

解離していこう。

科学の恩恵にどっぷりつかりながら、科学をがっつり否定していこう!

自分も他人も数量評価しながら生活し、苦しくなったら、都合よく数量評価をスパっとやめて、「人間は数量評価できるもんじゃない」とか言って、楽になろう。

人間は、もっと楽に矛盾していいんだ。

それが現実(科学)を包み込む形で、承認欲求を満たすこと。

多分そういうことだな。

承認欲求とは?まとめ、承認欲求を否定して生きていくことは可能なのか?

承認欲求は否定できるのか_可能なのか_まとめ

社会の中で、承認されなくても人間は大丈夫だよってことはないよ。

承認欲求の否定って、結局、上手に承認されるための工夫なんだよ。

貢献せずに、他人に認められようとして生きるだけだと、なかなか承認してもらえないよ、ってことだね。

そんで、自分の価値を認めるってことで言うと、もう、科学から頭を離さないと多分無理。

科学的思考で自分をとらえているうちは、自己肯定なんて無理なんだよ。

でも、科学に支配されている世界から、身体も心も科学から離れるのも無理。

今日だって、明日だって、スマホを見るし、テレビも見るし、電車も乗る。

無理と無理。

だから、矛盾していい。

解離してていいんだ。

都合よく頭の奥底だけで科学とおさらばするんだ。

解離を許せ。

解離を許すことこそ、自己一致の極み。

解離人間として、一致している人間こそ、自在人間なんだよ。

唯一無二の硬い、ひと塊の何かである必要はない。

君は、もっと自由に君じゃなくなっても、消えて無くなったりはしないんだよ。

変幻自在、ステキだろ?

冥王 黒田明彦でした。

私のエネルギー、もらってね。