逆エンパス

逆エンパスと純粋性~純粋であるということ~

逆エンパスの体質を言語化するとき、私は純粋性という言葉を使うことがあります。

今回の記事は、あらためてその純粋性という言葉で、私がどういうところを言い表そうとしているのか、そして、純粋であるということはどういうことか、ということを明確化してみようと思います。

興味のある人は読んでみてください。

note:大好評記事!「本当のことを言うと嫌われる」

【逆エンパスと純粋性】純粋性とは何であるか

純粋性とは何であるかを明確にする前に、まずは、逆エンパスの共感力の高さについての、現時点の考察を書いてみます。

私は、逆エンパスの共感力の高さには純粋性が大きく関わっていると思えるからです。

逆エンパスの共感力の高さの秘密

逆エンパスの共感力の高さの秘密は、次の2つの特徴の合わせ技。

  1. 逆エンパスは、自分の高エネルギーを常にソナーのように飛ばしているため(イメージ)他人のエネルギー・波動・振動を非常に敏感に感じ取る。
  2. 逆エンパスは、高エネルギー体であるため、いろんな場面で「私はこうだ!」という感覚がすぐにうるさく聞こえてくる。

逆エンパスは、①ソナーが勝手にひろってくる他人からのエネルギー・波動・振動から、感じ取ったものと、②「私はこうだ!」という溢れんばかりの感覚との比較、照合によって、常日頃から他人の感覚を自分事のように想像・創造している。

だから共感力が高いのだと思います。

「私はこうだ!」という感覚のうるささこそ純粋性の高さである

ここで出てきた、「私はこうだ!」という溢れんばかりのエネルギーの感覚。

この感覚の鋭さというか、うるささが、純粋性だと私は言いたいのです。

「私はこうだ!」になる前のエネルギーのすがた

しかし厄介なのは、この「私はこうだ!」という溢れんばかりのエネルギーが、その一歩手前では、「私はそうじゃない!」と、ただ相手(世界)を否定するような響きで聞こえることが多いということです。

いろんな人と過ごす、いろんな場面で、「私はそうじゃない!」とうるさく聞こえてしまう。

しかし、「私はそうじゃない!」という言葉のすがたのまま、相手を否定する形でそのエネルギーを表出してしまうと、すぐに自分が否定されるような反応が返ってくるような結果を生むことが多い。

だから、「私はそうじゃない!」を言えなくなっていく。

だけど、「私はそうじゃない!」と感じたところ(生まれたエネルギー)はなくならない。

そのエネルギーは隠すしかない。

エネルギーを隠すのに緊張し、疲れる。

このように、素晴らしい共感力を生むことさえある、「私はこうだ!」のエネルギーが一歩手前のすがたの「私はそうじゃない!」のまま、大きく滞ってしまっていた。

それが私でした。

【逆エンパスと純粋性】純粋な人間は浸食的である

「私はそうじゃない!」が生まれやすい。

何を見ても、何を聞いても、私はそうじゃない!私はそうじゃない!と、すぐにうるさく聞こえてくる。

それは、エネルギーの湧いてくる音。

そのうるささこそ純粋性だと私は言いたい。

私はそうじゃない!には浸食性がある

私は、広く浅くの関係が極端に苦手です。

私の「私はそうじゃない!」の生まれやすさはずっと変わらない。

だけど、私は誰にでも「私はそうじゃない!」と自由に言えるわけではない。

「私はそうじゃない!」という言葉には強い純粋なエネルギーが含まれている。強いエネルギーには、基本的には浸食性がある。

自分の純粋性に苦しむ

浅い関係において、強いエネルギーは多くの人に抵抗される。

抵抗されることに、痛みを感じ、「私はそうじゃない!」を抑えようとするようになる。

浅い関係においては、いつでもどんどん生まれる「私はそうじゃない!」が、どんどん滞る。

私は、どんどん苦しくなる。

「私はそうじゃない!」というエネルギーが生まれやすいこと自体に苦しむ。

これが、自分の純粋性に苦しむということである。

「私はそうじゃない!」が生まれる機会をコントロールする

「私はそうじゃない!」というエネルギーは、多くの場合、生まれてすぐに滞ってしまう。

だから、「私はそうじゃない!」というエネルギーが生まれてしまわないようにと、人との接触を避ける。

少しでも、「私はそうじゃない!」と、言えない私が生まれないようにと、人との接触を避ける。

「私はそうじゃない!」が、生まれることはコントロールできないから、「私はそうじゃない!」が、生まれる機会を必死にコントロールしようとしているのである。

【逆エンパスと純粋性】それでも私は純粋な人間になりたい

純粋であるということは、「私はそうじゃない!」をいつだってそのままに言えることだと思う。

考えるより先に「私はそうじゃない!」と言ってしまう。

相手に抵抗を受けても、

それが、ときには痛みになっても、

私に生まれ続けるエネルギーの音のままに、

声になっていける、純粋な人間。

私は、そんな人間になりたい。

純粋な人間になるために

無限に聞こえる「私はそうじゃない!」というエネルギーの生まれる音。

この音のうるささこそ純粋性。

私は、私に生まれたエネルギーの音のまま、声にできるような、そんな純粋な人間になりたい。

しかし、「私はそうじゃない!」という言葉が否定的な関係を生みやすいのは事実である。

私の中で、「私はそうじゃない!」と聞こえる音の先にあるのは、「私はこうだ!」というエネルギーである。

それは、間違いない。

だから、純粋エネルギーが生まれるときの音が、「私はそうじゃない!」から「私はこうだ!」に変わることを願おう。

エネルギーが生まれるときの音を「私はそうじゃない!」から、「私はこうだ!」に書き替える。

普段から、「私はこうだ!」と意識的に声にしていくことで、エネルギーが生まれるときの音をこちらから呼び込む

「私はこうだ!」なら相手を否定する形ではないので、まだ言いやすいはずだ。

そして、「私はこうだ!」という表明は、相手の「私はこうだ!」を触発する結果になりやすい。

「私はこうだ!」同士のやりとりは、責任の所在が分かりやすく、たとえ聞き合いではなく、言い合いになったとしても、傷つけ合いになることは少ないように思うのだ。

【逆エンパスと純粋性】おわりに

たくさんの「私はそうじゃない!」が生まれる私。

組織の中ではそれを抑えることが当たり前になっていた。

「私はそうじゃない!」と言うと、相手を傷つけてしまう。相手を否定してしまう。相手を浸食してしまう。

その結果、相手から手痛い反撃を食らってこちらもボロボロになる。

だから飲み込む。空気をよむ。

「私はそうじゃない!」を飲み込むたびに壁は増え、

「私はそうじゃない!」を飲み込むたびに緊張が増す。

それが当たり前で、それでもなんとかやってきた。

そんな私が、ここで、より、純粋になりたがっているのは、私の純粋性をもっと活かし、より共感力を活かす機会を持ちたいと思っているから。

そして、もっと多くの人と、気楽にお喋りしたいと思っているから、何だろうと思います。

「私はこうだ!」

「私はこうだ!」

そんな、私の声が聞こえているとき、「あぁ、黒田さんは、純粋になろうとしているんだな」と、微笑ましく思っていただければ幸いです。

きっと、どこかでお会いしましょう。

母思うゆえに我あり 黒田明彦