逆エンパス

逆エンパスの嘘

今回の記事は私の逆エンパス体験について、私自身が感じている迷いを書いてみました。

テーマは「私にとっての嘘」そして、「自分の体験を受容していくこと」です。

興味のある方は読んでみてください。

逆エンパスの嘘―体験と現実

私は逆エンパス関係の記事を書いているとき、常識外れの記事を書いているなという自覚があります。

私は逆エンパス関係の記事を書いているとき、他者が嘘っぽいと感じてもしょうがないだろうな、ということを書いている自覚があります。

記事を書くたびに、自分の体験が正確に書けたという満足感を感じ、記事を投稿するたびに、誰かに、冷たく、それは嘘だと言われることをおそれています。

自分のユニークな体験を、見えないエネルギーの放出をイメージして説明するということ。

それが他者に与えている影響に仮説を立てていくこと。

これらは先にイメージがあったわけではないのです。

先にあったのは体験なのです。

不可解で、説明ができないが、確かにある体験。

理解できず、説明もできず、言葉にしようのなかった体験は、それが自分にとってどれだけ影響があるものでも、忘れるしかありません。

私には、そういった忘れることしかできないような体験が数多くあったのです。

それらは、現代科学によって証明されないような個人的な体験であり、一般的にはフィクションや、エンターテイメントの範疇でしか認められないのが当たり前のことであると理解しています。

しかし、それらは、私にとっては生々しい体験であり、現実だったのです。

自分の性格、生き方、疲れ方、発現の仕方に、とてつもなく大きな影響を与えているにも関わらず、忘れることしかできないような体験が在る。

忘れることしかできない体験は、徐々に意識することができなくなり、だんだん見つけられなくなる。感じなくなる。無かったことになる。

人間は、在るものを無いものとすることにも、無いものを在るものとすることにも、とても大きなエネルギーを使います。

人間は、他者から認めてもらいたいという渇望のためなら、エネルギーを大量に消費しながら、自分の体験を捻じ曲げることができるのです。

逆エンパスの嘘―私は嘘に敏感である

私は嘘にとても敏感です。

感覚的にいうと、その人の身体の動きと発言から不自然を感じ取れるのです。

それは、本来の身体の動き、自然な動きとはギャップのある動きとして認識されます。

カウンセリングの神様、カール・ロジャーズのいう一致性の観点からいうのでれば、私は、不一致に敏感であるということです。

身体の感覚だけでいうと、不一致を感じるとソワソワと落ち着かなくなり、一致を感じるとホッと落ち着くのです。

もう少し正確に言うと、私が自分や相手の言動にソワソワしてしまうときは、不一致状態なのだと仮説が立ち、私が自分や相手の発言にホッとできるときは、一致している状態なのだと仮説が立つのです。

これは、私の身体の自然な反応を基準に考えていることです。

そして、私には、私のこの身体の自然な反応を自分で操作することはできません。

たとえば、幽霊が日常的に見えるということを語る人がいたとします。

私自身は幽霊が日常的に見えるという体験をもっていません。

しかし、私の体験に無いものを言う人が、私にとって嘘をついている人というわけではないのです。

私がそれを嘘だと認識する基準は、その人が自分の体験を正確に話すことができているかどうかなのです。

逆エンパスの嘘―2種類の嘘

人間は、諸々の事情により、自分の体験と異なることをあたかも自分が体験しているかのように語ることができてしまいます。

私は、自分(その人)が体験していないことを、自分(その人)が体験しているように語ること、そして、自分(その人)が体験していることを、自分(その人が)体験していないように語ることを嘘だと言いたいのです。

嘘には2種類あります。

それは自分の都合によって意図的についている嘘と、自分の身体や心の動きが追えず、それに添うようなことが言えないという状態です。

当然、後者の嘘は、自分が嘘をついているという自覚はありません。

逆エンパスの嘘―後者の嘘の問題点

嘘も方便という言葉があります。

意識的に自分の都合でついている嘘は、人を騙し、人からもろもろの物を奪う卑怯な行為ともなりえますが、人間関係を下手にこじらせないための世渡り術になることもあります。

「嘘がつけない」と、公言しがちな私ですが、私も意図的に自分にとって都合の悪いことを相手に、あえて伝えないことを選択することは何度もあります。(これもあえて書かないことを選択することもできたのですが・・・。)

後者の嘘は何が問題なのか?

単純に自分の体験に一致していないことを、自分の体験として語るということは、不自然であり、不健康なのです。

自分の体験とは、主に自分の身体の感覚です。自分の体験していないことを語っているということは、自分の身体の感覚にとても鈍くなっているということです。

そういう状態では、自分の身体の変化にきづきにくくなっています。

自分の疲れ、痛み、感情にきづかず、それに対して適切な処理ができなければ、自分や他者が壊れてしまうまで不適切な行為を繰り返してしまうことだってありえます。

また、自分の体験を無視していると、漠然とした不安におそわれてしまうことが多いようです。

人間は自分が体験していることを言語化し、自覚できなければ、安心を得ることは難しいようなのです。

このように、後者の嘘が身についてしまうと、自然、調和、安心から遠ざかるような、無自覚な行為がどんどん増えてしまうのです。

逆エンパスの嘘―自分の経験に純粋である難しさ

たとえば私の逆エンパス体験は、科学的に立証されている概念ではありません。

また歴史的にも常識的にも、例の少ないユニークな体験談であると自覚しています。

そういうユニークな体験を私の体験、私の現実、私の本当として、誰かに語ることはなかなかに根性がいることです。

すでに歴史的に認められている人、また社会的に成功している人が語り、認めている体験をなぞるようにして、自分の体験を受け入れることは難しくありません。

実際、私は、先人の言語化している体験が、私の体験をなぞってくれ、ホッとさせてもらえた、ありがたい体験を何度もしています。

また逆に、先人が言語化している体験をまだ自分は体験していないのに、あたかも自分が体験しているかのように語ることもさほど難しいことではありません。

ただ、これは私にとっては嘘です。

偉い人がいうのだから、そうに違いない、偉い人がいうのだから、そうしなければならない、というやつですね。

実際、私も先生が言うのだからそうなのだろうと、自分が体験していない先生の言語化した体験に納得してしまうことはあります。

これは、どんなに否定してみても、悔しいけど、結局、先生の言った通りになってしまうなという体験を繰り返したからです。

ユニークな体験を認めるこわさ

今の私は、ロジャーズが、親鸞が、科学が、先生が、認めていない私独自のユニークな体験を認めるのがこわいのです。

言い換えると、今の私は、私の純粋な体験の言語化をロジャーズや、親鸞や、科学や、先生など、私が価値を置いている人に認めてもらいたがっているようです。

そうすれば、他の誰に否定されても、自分の体験を無いこととしないですむ、そう思えるのです。

声にして誰かに伝え、受容してもらうこと

これはカウンセリングの学習により、私が体験的に学んできことですが、自分の体験は、声にして、語り、誰かに純粋に受容してもらえたと感じることで、自分自身もそれを深く受容することができるようになります。

私の逆エンパス体験は、このようにブログの記事としては大分自由に書くことができるようになりましたが、誰かに直接話すことにはまだ強い抵抗があります。

それは、私自身、逆エンパス体験の受容度が低いからなのでしょう。

日に日に高まっていく逆エンパスイメージがあるにもかかわらず、そして、それによって、自分の体験が以前よりも正確に言語化できている実感があるにもかかわらず、それを、他の人の前で語ることに強い抵抗があるのです。

先日も参加したエンカウンターグループで、機会があったにもかかわらず、こわくなってしまって逆エンパス体験を語ることができませんでした。

これは私にしてみれば懐かしい体験です。

カウンセリングの学習を始めたころ、母との関係の私を受容できず、話すことがこわく、強烈にエネルギーが滞ってしまっていたことを思い出します。

逆エンパスの嘘ー終わりに

いかがだったでしょうか。

私の逆エンパス体験は、私にとっては嘘ではなく、自分の身体や心の動きを丁寧に追って、言語化していくために、どうしても必要なイメージなのです。

しかし、最近あらためて、感じているところですが、自分の体験を現実化するには、それがユニークであれば、ユニークであるほど、他者の純粋な受容がどうしても必要なようです。

私は、誰の前でも自然に逆エンパス体験を語れるようになるのでしょうか。

それにはどこかで最初の一歩を踏み出す必要があります。

それは今の私には、とてもこわいことです。

明日のことはわかりません。

しかし、いつだって、私は私の体験に嘘をつかなくてすむように、突き動かされていくのです。

身体に宿る純粋エネルギーのままに。

私が私の体験をまた自然に語れるようになったら、今度は是非、あなたのユニークな経験を聞かせてください。

多感な凡人 黒田明彦