自分をわかりたい。
自分の苦しさ、生きづらさの理由を知りたい。
自分が何者でどこから来て、どこへ行くのかを知りたい。
この欲求はある程度、人の本能的な欲求であると言っていいのではないでしょうか。
人は自分のことをどうしてもわかりたい。
そのわかりたさは、真実の自分になりたがっている動きそのものであると言えます。
今回の記事は、私が真実の自分になるために、どうしても逆エンパス体質という言葉が必要だったいきさつをあらためて書いてみようと思います。
興味のある方は読んでみてください。
【逆エンパスアイデンティティ】苦しみを生きる人
真実の自分、ありのままの自分、そのままの自分、それになっていないから、今の私は苦しい。
自分になる、自己実現、それらが未完だから苦しい。
そういう発想になるのは無理がないところだと思います。
確かに、今より自分がはっきりすれば、間違いなく今よりは、生きやすくなるでしょう。
しかし、それによって苦しみから完全に解放されることはないのです。
何かがクリアになれば、次の何かが必ず押し寄せてきます。
人は苦しみを生きるのが常であります。
そして、いつだって、その苦しみから抜け出すために、エネルギーを生み出している。
生きるエネルギーを生んでいるのは、生きる苦しみそのものである。
そう言ってしまっても過言ではないかもしれません。
【逆エンパスアイデンティティ】私は逆エンパスなのでしょうか?
私は逆エンパスなのか教えて欲しい。
こんな言葉に出会う機会が少しずつ増えてきました。
私がその言葉に向かう時、いつも感じるものは、
それを誰かに決めてもらう必要があるだろうか?
という疑問です。
自分で記憶しているユニークな体験が確かにあり、ある一般化された体験談のカテゴリーがある。
それが自分の体験に当てはまれば、自分はそのカテゴリーに属す、のかもしれないし、それが当てはまらないのであれば、自分はそのカテゴリーに属さない、のかもしれない。
ただ、それだけではないかと思うのです。
誰かに「あなたはそのカテゴリーに当てはまりますよ」というお墨付きをもらえさえすれば、その特徴からの生きづらさ、苦しみから解放してもらえるというわけではありません。
大事なのは、自分の生きづらさにつながっている体験の秘密が、逆エンパス体質の理解を深めることで、自分にとって明らかになっていくか、どうかなのです。
【逆エンパスアイデンティティ】誰かに認めてもらうとホッとする
一方で、私が精神保健福祉の業界に属していたとき、自分の状態、症状に障害名や病名をもらうことでホッとできた人たちがいたことは確かです。
その人たちは、これまでの自分の苦しみ、違和感、人と同じことができないという自分の特徴が、正当化され、安心感が得られていたようでした。
自分は、おかしいわけじゃなく、○○という病気だったんだ。
これまでの自分の苦しみは、正しい苦しみだったんだ。
誰かに病名、障害を認定してもらうことで、このように安心できるところがあるのは確かなようです。
そういう意味では、自分はおかしいわけではなく、逆エンパスという体質だったんだと、認めてもらうことで安心したいという気持ちは、私にもとても理解できます。
【逆エンパスアイデンティティ】私の場合の正直なところ
私が逆エンパスという捉え方に出会い、それにここまでこだわることができたのは、職業選択の自由に迷う時、もし、私がカウンセラーとして独立したいなら、自分の特徴を売り出さなくてはならないと考えたところから始まります。
他の多くのカウンセラーと差別化するためにも、私は自分のユニークさをどうやって説明しようかと悩んだのです。
私には、人とは違う、何かユニークな感性があるという自覚はずっとありました。
しかしそれまでは、自分自身、それを一般化できる気も、説明できる気も全然しなかったのです。
というよりも、そもそも自分自身のユニークな感性、体験を明確化しようとする意志がそれまでなかったんです。
自分にしか感じられず、ほとんど一般化できないような体験は、他人にとっても、自分にとっても、ないものとほとんど一緒だったんです。
私がずっとお世話になっている、私以上に私の独自性を大事にしてくれている、カウンセリングの先生の前でさえ、私のユニークな体験を語ろうとすることはありませんでした。
それは、その先生とすら、私の体験が共有できそうな気がしていなかったから、かもしれません。
私は、その先生の理解を超えてしまうような自分の感性には、ブレーキをかけているような感じだったのかもしれません。
正直、その先生に理解してもらえない自分など、私にとって必要なかったのでしょう。
私にとって一番コアでユニークな感性の部分が、ないものと同じになっていた。
自立のとき
私は、先生にとっては、カウンセリングで生計を立てていくということは、あまり関心がないことのように感じられていて、その点については、先生を頼れる感じが全くしていませんでした。
だからこそ私には、自分自身で、自分を売り出していくために、自分の特徴を明らかにしなくてはならない!という意思が生まれたのだと思います。
そこで初めて、私は、先生とは共有できないであろう自分のコアな部分に関心が向いたのです。
これも、自立の一つの具体的で大事なプロセスだと言えそうですね。
【逆エンパスアイデンティティ】私の逆エンパス体験が蘇るまで
この自分のあきれるほどの敏感さ。
他者の一般的な反応、発言と比べてみても、自分が異質であることは否定しようがありませんでした。
しかし、その異質な特徴は、都合よく自分の欲望を満たせるような類のものではなく、基本的には、ただ重たい何かを抱えている感覚でしかありませんでした。
しかし、カウンセリング学習に出会い、先生に出会い、その特徴の一部は、対人支援においては、人の心を支え、人の率直な、本来的な動きを支えることに活かすことができることを知りました。
カウンセリングの学習の基本は、徹底的な個別化、独自化です。
私はそんな学習に出会ったことで心底救われました。
しかし、あらためて自分を世界に向かって打ち出していくには、この自分の特徴をもっと深く理解した上で、ある程度一般化できなくてはならないような気がしていました。
そこで私はインターネットで検索し、私の特徴に合うような一般的な見解を探し出したのです。
まずは、HSPという言葉との出会い
私が最初に目を付けたのは、HSPという言葉です。
こういう繊細な概念の社会的な信頼性が少しずつ上がってきているのは、私にとって喜ばしいことなのですが、HSPの説明を読む限り、自分の体験にぴったりしない部分がいっぱいありました。
感受性が強く、疲れやすいというところには大きく頷けました。
しかし、私の感覚器は、他人に比べて、多くの情報を拾ってしまうという自覚はあるのですが、まぶしすぎる、うるさすぎる、においすぎるなど、鋭く拾っているという自覚はないのです。
また、脆弱性を認めながらも、それは病気や障害ではなく、特徴として前向きに捉えましょうという、HSPの一般的な説明のニュアンスが、自分のことを説明してくれているようには思えませんでした。
エンパスという言葉との出会い
それでも、HSPが一番自分の体験を一般化してくれていると考えるしかないかなと思っていたとき、エンパスという言葉を初めて見つけました。
このエンパスという捉え方は、HSPよりさらに一歩、私の感性に踏み込んでくるような感じがありました。
超共感体質。人とは異質な特徴。ギフト。
そんな言葉のポジティブな感覚が、私がエンパスという言葉を自分に同化することを促進しました。
エンパスという捉え方の説明で、一番私に当てはまったのは、相手の感情が伝わってくる、わかりすぎるというところです。
私には昔からそのような自覚が強くあったのです。
ちなみに、エンパスに関することが書いてあるインターネットの記事をむさぼるように読んでいたとき、逆エンパスという言葉も見つけていました。
一応少し読んでみたのですが…。
自分からエネルギーが溢れだす?
人間パワースポット?
なんかおこがましいな。
というか、自分は常にエネルギーが枯渇している感じすらあるっていうのに…。
と、そのときは、特に引っ掛かりなく流すだけでした。
エンパスをバッサリ否定される
私は、夢中になってエンパスの記事を読みあさり、自分がエンパスであると思い込んでいきました。
極まった私は、その当時、一番エネルギッシュに交流していた、とても敏感な感性を持つ友人に、「自分はエンパスなんだと思う」と、初めて伝えてみたのです。
すると、その友人は、
「黒田さんは、共感力は高いと思いますけど、エンパスではないと思います。」
とズバッと言ったのです。
「なん…だと…?」
私は正直少し腹が立ちました。
しかし、率直で正直な返事を友人がしてくれたことが、少し嬉しくもあったのです。
そして、すぐにズバッと言い切る友人の根拠に興味がわきました。
よく話を聞いてみると、どうも通常の共感と、エンパス特有のエンパシー状態は次元が違うようです。
そして、その友人が以前、実際エンパスだと確信を持っている人と一緒にいたとき、気味が悪くなるほどの安心感を感じたというのです。
そして、黒田さんにはそれは感じなかった、と…。
まぁ、なんというかショックでした。
掴みかけていた自分のユニークな特徴の尻尾がスルッと逃げてしまった感じです。
上記で、自分のことを他人に決めてもらう必要があるだろうか?と疑問を投げておいて、恐縮ですが…。
当時、私とあれほどエネルギーを共有していた友人が…、そして、あの敏感な友人がそう言うのなら…。
「そうなんだろうなぁ。」と私は納得してしまったのです。
蘇る逆エンパス体験
私は、エンパスにはそれ以上こだわりませんでした。
ショックでしたが、違うというのならしょうがない、という感じです。
しかし、自分に説明しがたいユニークな体験があることは間違いないのです。
そこで、私は、自分はエンパスではないという前提で、逆エンパスの記事をあらためて読んでみたのです。
今もそうですが、逆エンパス関係の記事は、エンパス関係の記事に比べて、量が少なく、バリエーションもほとんどありません。
しかし・・・
あれ…?
自分をエンパスだと思い込んでいたときには、目に入らなかった言葉がどんどん入ってきました。
あれ…?あれ…?
あれよあれよと私の、昔のなかったことにしていた記憶、逆エンパスエピソードが蘇ってきたのです。
誰とも共有できず、現実化できず、ないものとされてきたいくつもの不可解で、不思議な体験が、思い出されたのです。
そこからの私は、自分の特徴を売り出すために説明するというよりも、もっともっと自分の体験を明らかにしたくて、自分で自分をわかりたくて、逆エンパスの記事を書き続けました。
それは、単純に楽しかった。
逆エンパス的エネルギーロジックは、今まで現実化できなかった私の体験を鮮やかに言葉の相(すがた)にしてくれました。
物事が見えるかのようにはっきり理解できると、本当に落ち着き、安心するものです。
落ち着き、安心すると、今度は、それらの物事に対処する余裕も生まれてきます。
私にはエネルギーという目に見えないものを表現していかないと説明できない体験がたくさん、たくさんあったのだ!
それは、大きな発見でした。
【逆エンパスアイデンティティ】おわりに
今回の記事で私が言いたかったことは、
自分が逆エンパス体質なのかどうかを人に決めてもらおうとすることよりも、
逆エンパスという言葉や、その体験談に、
触発され、生まれた、
自分のところをどんどん明らかにして、自分で見つけていこうよ!
ってことです。
その触発のための材料を、私はこれからも書き続けます。
繊細、敏感、そして、滞らせているエネルギーのままに、
あなたのままに、あなたのために、あなた自身になっていくために、
あなたよ、人間よ、語れ、書け、叫べ!
今、手に入れたい私は、きっとその先に見えてくる。
私は、それを本当に応援したいのです。
多感な凡人 黒田明彦