どうも、黒田明彦です。
私流「禅」。
悟りについての学習もある程度一区切りかなという感じがしております。
今回は、これまで私が語ってきたところを振り返って、安心を得るために必要な3つの関門をあげてみました。
語って語ってたどり着いたのは、答えではなく問いだった。
まぁ、そんな感じです。
まずはこちらの動画をどうぞ
本当の安心を得るための3つの関門【私流禅の学び】
それでは補足解説をどうぞ
悟りを求める私
黒田明彦です
今日も「禅」体験について
語っていこうと思います。
前回の動画で、「壁になってみたらちょっと悟れた」
みたいなところを語りましたが、それで若干一区切りみたいなところまで来たかなという感じがしております。
そこであらためてこれまでを振り返ってというところで語ってみようと思います。
救われたいということ
そもそも私がなぜ、「悟りたい!」と禅を学んだり、親鸞について学んで、語ったりしているかというと、それはやっぱり、自分が救われたいからなのです。
とにかく、とにかく、今のままじゃ辛い。
苦しい思いばかりで、何のために生きているのかわからない。
死ぬのはこわい。
だけど死にたい。
死ねばこの苦しみから逃れることができる・・・気がするから。
楽しいこともあるかもしれない。
だけど世の中は、結局何をやっていても、辛いことが尽きないではないか。
何をやっても勝てない、一番になれない、気持ちよくない。
自分よりすごい人なんかいっぱいいる。
自分はそういう人に比べて、何と情けないことだろう。
こんな自分じゃダメだ。
こんな自分じゃ嫌だ。
だけど自分以外の人にはなれないし、こんな自分で何とかしていきたい。
でも、器用にはできない。
不自由だ、不自由だ。
なんとかして、こういうところから抜け出せないだろうか?
この辺りの渇望を救われたいという言葉で表現している感じですね。
生きながらの輪廻
いろいろと苦しい思いをして、その度になんかしらの原因を特定する。
「わかった、きっと私はこれのせいで苦しいんだ!」
「だから、こうすれば解決だ!」
いろいろ本を読みながら、新しい考え方に出会い、感銘を受け、影響を受ける。
その時はわかった気になって、何かを手に入れた気にもなって、実際数日は良い気分も続く。
だけど、やっぱり数日経つと以前と同じように、嫌な気分に襲われてしまう。
だから、またいろいろ本を読んだりなんだりして、また、「そうだったのか!」と救われていく。
結局、地獄、天国、地獄、天国みたいにずっと繰り返している。
仏教には生まれては死ぬを繰り返すという、輪廻転生の言葉がありますが、私にしてみればもう、生きながらにして、すでに輪廻転生を繰り返しているみたいなものです。
この一回の生命の中だけで、何回苦しみと安心の輪廻をするんだよって。
「この繰り返しをなんとか、やめられないものだろうか?」
どうすればこの繰り返しが止まって、安心に振り切ることができるのか。
そんなふうに考えているわけです。
仏教は性に合う
仏教はそもそも、人生は苦しいものであるというところから出発しています。
私にはそれがやっぱり、なんか性に合うんですよね。
仏教の全部が自分に合ってるとは言えません。
ただ私は、この世界をそうそうポジティブには捉えられなかった、感性豊かな先輩達の思想から、なにか自分を救ってくれるものを見つけられないだろうかと探している感じなのです。
安心を得るための3つの関門
これまでそうやって仏教の「禅」とか、他力とかを学んできて振り返ってみると、私が求めるような安心の境地にいくためには、今のところ、3つの関門があるように思います。
この3つの関門を突破できると、安心できる。
この世に絶対的な安心があるのかどうはわかりませんが、少なくとも今とは違うところにいけるだろうなぁと思えるわけです。
第1の関門「思い通りを突破する」
まず1つめの関門が、自分は自分の思い通りになるという根本的な考え方から抜け出すということです。
今の世にあるいろいろなアドバイスとか、サポートは、この自分を上手に使いこなせるようになるための方法論。
自分や他人や物事を最大限に活用するための方法を教えてくれるようなものばかりですよね。
つまり人間は、自分で自分を思い通りに動かせることが前提になっている。
それがうまくできない人の為に、それが上手くできるような方法を教えるということが、スーパーバイズであり、コンサルティングであり、カウンセリングである。
この自分をコントロールしていくことは、社会適応に必須である。
この思想が主流ですよね。
抜けるのが非常に難しい思想
それは西洋的な考え、人間が自然を支配できることを前提とした、科学的手法とも言えるかもしれません。
この思想を突破できない限りは、安心はやってこない。
いかにしてこの自分をうまく操作するか。
いかにしてこの世界を自分の力で生き抜いていくかっていう発想。
この発想を抜けきる。
これは、相当抜けにくいというか、自覚することすら難しいだろうなと思うんですよね。
自分をコントロールすることは、社会から当たり前のように要請されているような感がある。
そこには如何ともしがたいパワーを感じます。
少なくとも私の世代ではそうでした。
小さなときから当たり前
自分で自分をコントロールするっていうのが当たり前なんですよ。
自分で自分をコントロールできない人は病気、障害、問題だ、みたいなものです。
そんな思想が、もう幼稚園の頃から始まっていたような気がします。
集団生活の基本はセルフコントロールであり、それは出来て当たり前である。
とにかく社会とコンタクトが始まったその時から、そういう思想が常識的でした。
しかし、実はこれこそが安心を阻害する大きな要因なんです。
第2の関門「感覚を突破する」
安心になるための、2つめの関門が感覚です。
目耳鼻口、体の感覚、推理する能力、それを統括することで生まれる自我、さらには人間がこれまで紡いできている集団的無意識みたいなもの。
そのように奥深いところまで伸びている、人間の感覚識。
それを超えたところにあるものに飛び込んでいく。
自分の感覚・自分が認識できているものが全てである。
そこにいては安心は得られません。
そこから先を欲しがれるかどうか。
熱い、寒い、痛い、こわい、むかつく、等など、生々しい実感は存在します。
それは、もうあるとしか言えないし、逆にないものはないとしか言えない。
嘘偽りない、自分の感覚の世界。
その世界こそ、飛び出せるかどうか。
感覚は智慧でしか飛び越せない
そこから飛び出せなければ、安心はできない。
ちなみに、感覚を超えたところというのは、知識というか智慧でしか行けません。
それは、感覚と認識が同一化している状態から、智慧と認識が同一化するような状態に変わる感じでしょうか。
目に見えないもの、耳に聞こえないもの、思いもよらないもの。
その存在を確信するには、感覚を超えなくてはならない。
人間は、不思議なもの、説明できないようなもの、そういうものに触れていかなくては、本当の意味で安心はできない。
第3の関門「論理を突破する」
最後、3つめの関門です。
いわゆる論理・ロジックってやつを突破できないと安心はできない。
今ある当たり前のロジック。
AはBでないからAである。
私とあなたは別人である。
私は私であって、壁ではない。
こういう当たり前のロジックを越えていかないと安心はできない。
矛盾こそ真実である。
この世界に矛盾してないものなど1つもない。
そんなところに行けないと安心はない。
今常識とされているもの、論理的に整っているものを丁寧に壊していく。
どうも、安心にはそんな境地が必要なようです。
不安でないことが安心なのではない
この3つの関門が突破できれば安心になる。
だけど、この3つの関門を突破できても、スーパーマンになれるわけではありません。
もう二度と不安にはなりません、いつもニコニコ楽しく明るく、イケイケで行けますよって話ではない。
それはただ、ありのままの現実が不幸ではなくなるということ。
不安も安心も含め、そのままで安心。
不安だから安心じゃないっていう理屈がこわれる。
不安でも安心になる。
そういう心境に生きられるようになる。
私はそういうところを目指して学習してるというか、
最初からそういうところに自分がいたんだっていうことを疑えなくなるように学習してるという感じですね。
そして最終的には、この私の歩みというか学習が、どこかの誰かのためになることを願って。
空淡、黒田明彦