私流「禅」

安心と不安は常にセット!どちらかがなくなれば、どちらもなくなる―座禅から安息の学び

どうも、黒田明彦です。

今回は、安心について考えてみたいと思います。

安心と不安というのは常にセットです。

安心だけがある人生、不安だけがある人生とは存在しません。

じゃあ、どうすればできるだけ安心でいられるの?という話になります。

結論から言うと、常に安定が当たり前であると、不安に出会いやすくなり、常に不安定が当たり前であれば、安心に出会いやすくなるということです。

まぁ、どっちが幸せでしょうね。

まずはこちらの動画をご覧ください

安心は、不安定がつくるもの【座禅から安息の学び】

それでは、補足解説をどうぞ。

不安が増える毎日に

どうもこんにちは、黒田明彦です。

今日も「禅」体験について語っていこうと思います。

今回はですね、安心っていうところでちょっと語ってみようと思います。

私こと黒田明彦は、10代、20代、30代と、若いうちは、学校、人間関係、仕事…、それぞれに、一生懸命、なんというか真面目に、生きてきたなぁとしみじみ思うわけです。

だけど、30代後半から40代にかけて、どこかに雇われて仕事をやってないっていうのもあって、不安な気持ちになることがとても増えたんですよね。

日々の収入も安定しないし、社会の一員として機能している感じが全然しない毎日・・・。

それはなかなかに不安なものです。

生老病死の不安

それに加えて、40代に突入したことにより、忍び寄る老いを感じ、これから大きな病気になる可能性が上がることに怯え、そして、人生も折り返し地点を迎えたところで、よりリアルに近づいてくる死に不安を感じる毎日です。

いわゆる仏教の「生老病死」の不安がどんどん強くなってきているという状況ですね。

こんな状況で、安心ってのはどこにあるんだろう?みたいな感じなわけですよ。

何を手に入れても安心できない

たとえば、お金持ちになれば、なんでも叶ってしまいそうな今の世の中ですが、お金さえいっぱいになれば、それだけで安心に包まれるかといったら、どうもそうではないらしいですよね。

人間は、何かを手に入れたら、今度はそれを失うわけにはいかないみたいな感じで、また強く不安になる、というのはよく聞く話です。

たとえ、どんなにお金持ちになったり、素晴らしい人間関係に恵まれて、日々ハッピーだったとしても、それらは必ず失うことになる。

人間、死ぬときには、この世のものは何一つもっていけないですからね。

死後の世界があるのかどうかはわかりませんが、この世のものは、全て死によって失われると考えるのは自然かなと思うわけです。

どうやって安心していけばいいのだろう?

今頑張って手に入れたものは、いずれ、必ず失うものであると。

そういうことを考えると、今、一生懸命頑張って、何かを集めたとしても、それによって絶対の安心は得られないんですよね。

お金であれ、人間関係であれ、名誉であれ。

しかし、そうすると、いよいよどうやって安心していけばいいんだろうっていうような気持になってきます。

私は最近、「禅」にはまっていて、結構時間をかけて座禅をやっています。

そうすると、やっぱり、いろいろ気づくことがあるんですよね。

座禅から安息の学び

私は今、両親と一緒に住んでいます。

私の父は結構な認知症で、日々いろんなものを失いながら生きているって感じなのです。

だから日々何が起こるかわからない。

1つ季節が過ぎるごとに、1つ何か大きく失っていくみたいな迫力ですね。

そばで見ている私としては、この人は、いつまでいわゆる普通の人間としての生活ができるんだろうか?という不安を感じながらの毎日です。

他人事だけど自分事

本当に、いつ何が起こるかわからないんですよね。

それこそ、明日のこともわからない。

明日、今日と同じことができるかどうかがわからないんです。

家族とはいえ、他人です。

だから、放っておけるところは放っておけばいいと思っているし、実際意識してそうしているんですが、やっぱり何かが起こるごとに、私の胸がグッと苦しくなったり、ソワソワ心配になったり、不安になったりするわけですよ。

他人事だけど、自分事なんですね。

何が起こるかわからない

毎日毎日何が起こるかわからない。

今日の父は、昨日と同じ時間に起きて、昨日と同じ時間に朝の役割をこなせるのだろうか?今日こそは、こなせないのではないだろうか?

朝早く起きて、座禅をしながら、家族が起きるのを待っていると、自然にそんな考えが頭をよぎります。

しかし、そんな毎日を繰り返していると、やはり気持ちに変化が起きてくるんですよね。

安心であることは当たり前だろうか?

安心であることが当たり前。

そうあるべきであるし、そうなってないのは、おかしい。

これは私にとっては、わりと当たり前の考えだったのですが、それが見事にひっくり返ったんですよね。

平穏無事で、刺激の少ない毎日が、当たり前。

そうでなくてはならない。

そんな毎日こそが、安心である。

私は意識するまでもなく、それこそが毎日のあるべき姿だと、当たり前のように感じて生きてきました。

だけど今は、いつ何が起こるかわからない毎日。

明日、明後日は、今と同じ生活ができるとは限らないのが当たり前。

不安定なのが当たり前。

常に不安定がやって来る毎日になっています。

本当はいつ生命が終わるともわからない毎日では?

私の生活は、日々サバイバル!みたいな激しいものではありませんが、気持ちとしては、本当に明日どうなるかわからないというものがあるわけです。

不安定が常。

今、父を通して、そんな生活を感じさせてもらっています。

「不安定が常」を体験させてもらっていると、ひるがえって、それは私自身だって、明日いきなり自分の生命が終わるということもあるのだ、と思えてきます。

日常は、それをただ疑っていないだけに過ぎないのだと。

そうなってくると、これまでの、当たり前の安全、当たり前の安心が、有り難い安全、有り難い安心に変わっていきます

そして、逆説的ですが、「不安定が常」となったときに、安全や安心は、よりはっきりと感じられるようになってくるようなのです。

地獄は地獄じゃない

これは鈴木大拙の言っていた言葉だと思うのですが…、

もし地獄というところがあるとして、地獄、地獄、地獄、地獄って…、ただ地獄が続くのであれば、それが当たり前になるのだから、それは地獄じゃなくなるんだ。

だから、地獄は地獄じゃないから大丈夫だよ。

安心がなければ、また不安な辛い現実も存在しません。

どんな人生にも、ちゃんと合間合間に安心、安息があるからこそ、辛いという現実もまたあるっていうことですね。

安心と不安はセットなんです。

安心があるから不安があって、不安があるから安心がある。

だから大きな不安があれば、大きな安心がある。

小さな不安があれば、小さな安心がある。

どちらかがなくなるときには、両方なくなります。

不安がなくなれば、安心もなくなる。

心の動きそのものがなくなります。

さて、人間はそれを幸せと呼べるのでしょうか。

座禅、安息に出会う

私は今、急激に不安になったり、すごく嫌な気持ちになったときにも、座禅をやるようにしています。

なんというか、そんな気分の時でも、座禅の時間だけは私を大切にできる感じがあるんですよね。

静かに座りながら、呼吸を数える。

ただ、それだけで自動的に私が大切になっていくんですよね。

それは本当に、誰にも邪魔されない自由な時間。

時々なにか用事が発生して、座禅が中断することもありますが、基本的にはその時間は私だけの時間です。

どれだけ忙しかったり、不安な日々をおくっていても、その座禅の時間だけは、時間いっぱい呼吸の心地良さを感じることができる。

それは、束の間の生きる心地良さ、そのものを感じていると言えるのかもしれません。

まさに安息。

苦しみや不安が安息を強める

どんなに苦しいとき、どんなに不幸なときでも、静かに座って呼吸に集中していれば、安息になり得る。

そして、ありがたいことに、常日頃の苦しみや不安が強ければ強いほど、自分の時間として大切にされる安息の時間もまた、強くなります。

私はそんな体験をしています。

不安定で、心の拠り所がないような日々だとしても、そういうときほど、強い安息は生じ得る。

この表裏一体を知っていることは、すごく大事な気がしますね。

不安定こそ常

不安定こそ常。

だからこそ、安息の瞬間がはっきりする感じがあります。

私は、生きているのが当たり前から、死ぬのが当たり前に変わりつつあり、

安心・安定が当たり前なのが、不安・不安定が当たり前に変わりつつあります。

実はそっちの方が、幸せになりやすいのかもしれないと、ふと思うわけです。

なにせ一瞬の安息というものに、気づきやすくなりますからね。

いつも不安が少ない状態だと、幸福感は感じにくくなっていくだろうなと思うんですよ。

不安定が常になったときに、死ぬのが当たり前になったときに、一瞬の安息と出会うことができるようになる。

なんかそういうのって、幸福だなと思いますね。

しんどい時ほど、自分の呼吸に出会っていける。

今、生きている自分に出会っていける。

そんなところがあるような気がしますね。

空淡、黒田明彦