これは、前回の記事に続く、冥王的バウンダリー(他人と境界性を引く)宣言である。
この宣言により、私は、過去のスケープゴート体験を克服する。
スケープゴートとは大体、生贄という意味だ。
まぁ、いじめや搾取の対象になってしまった経験と解釈していただいてよろしい。
「バウンダリー!」
高らかに宣言して、相手の頭の中の私を切る。
それができれば、今の私が過去のスケープゴート体験に苦しむことはできなくなる。
世界は少々静かになりすぎてしまうかもしれんが、そうなったら、そうで、自分の本当にやりたいことを見つければいい。
それでは、これから具体的に、クドクドと話していく。
過去のスケープゴート体験は心と身体に刻まれている

夢を見た。
少年たちがいる。
その中の一人がいじめられている。
そして、いじめっ子に対して、対等に文句を言う大人がいる。
それが私だ。
いじめっ子は、巧妙に脅しをかけてくるが、私はドキドキしながら、大人の知力で脅し返す。
「ここで引けるか!」って感じで一生懸命言い返した。
いじめられていた子も私だったのだろう、と思えたのは起きてからの話。
夢はまだ続いていく。
いきなりパッと場面が変わって食堂、雰囲気は学校。
私が食事の席を取ろうと食堂内をうろつくと、その床には複数の箇所に嘔吐物がまき散らされていた。
たまにそんな夢を見るが、今回は箇所数がやけに多かった。
私は顔をしかめて、綺麗な場所を探していた。
そして目が覚める。
時計を見ると、まだ朝の4時だった。
私は、トイレを済ませてから再び布団へと入っていったが、その時、今日は過去のトラウマが私に与えている影響力についてちょっと考えてみよう・・・と思えていた。
スケープゴート体験はトラウマになる

私にはいくつかのトラウマがある。
それは、端的に言えば、過去のスケープゴート体験である。
それらはこれまでのカウンセリングの学習では解決しきれなかった。
これから簡単に紹介する2つの過去のスケープゴート体験は、私のトラウマとも言える。
私にとっては、夢にでも見なければ、放っておきたい過去の思い出ということだ。
過去のスケープゴート体験①他人の搾取対象となること

小学生6年生の頃。
近所のデパートの地下にあったゲームセンターに、私はよく友達と遊びに行っていた。
ある日、そこで私たちは見知らぬ3人組の少年に絡まれた。
「お前ら俺らのこと見てたろ?ちょっとこい。」
私達は、見知らぬ3人組に連れられて、デパートを出て、すぐそばの人目がつきにくい雑木林に連れていかれた。
そして脅しや、隠蔽の言葉を浴びせられながら、持っていたお金を取られた。
そのときの私は、蛇に睨まれた蛙のように、震えながら頭の中が真っ白になっていた。
「こいつら殴る?」
相手グループのイケイケの1人が、同じく相手グループの他の2人に、これ見よがしに尋ねた。
「かわいそうだからやめておこうぜ。」
相手のうちの1人がそれを止める。
どこまでパフォーマンスだったのかわらかない。
私たちは、彼らの気分次第では殴られていたのだろうか。
反抗すればもっとひどい目にあったのだろうか。
30分程度のやりとりで私たちは解放された。
その後、私は友達と、この日の出来事を振り返ったことはなかったし、大人に相談することもなかった。
私はそれから、元気に外を出歩くのがこわくなった。
この不良少年の搾取対象(スケープゴート)になったという事件は、私が、他人の頭の中の私にばかり関心がいくようになってしまった大きなきっかけの1つとなっている。
怒りのエネルギーでスケープゴート体験を克服?

この事件以降、私は、外を歩くのがこわくてこわくてしょうがなくなった。
ところで、私は先ごろ、怒りの感情も解放されたばかりなので、
あらためて怒りを纏いながら、この事件を振り返ってみようと思った。
しかし。
うーん。
あんまり怒りがこないのだ。
あの事件は、
- 出会う人出会う人、友達になれるものだと信じて疑わなかった、頭の中お花畑だったあの頃の私への世界からの洗礼である。
- 抗えない理不尽(スケープゴートにされるということ)をつきつけられた貴重な体験である。
と、わりと納得できてしまう。
たとえば、相手の頭の中に、搾取対象としての私をイメージし続ければ、(自分たちより弱く、取るに足らないものと判断して絡んできやがったな!とか)いろいろと怒りや悲しみも湧いてきそうなものだが・・・、
「バウンダリー!」
そう唱え、相手の頭の中の私のイメージを切ることにしている今の私には、その過去の事件そのものが、結構どうでもよいことになってしまった。
私がこわかったもの

私がもっともこわかったのは、私が相手の頭の中で搾取対象になってしまっているという感覚だった。
だから、その後も、いろんな人の頭の中の私が搾取対象にならないようにと、日々努力した。
だけど、私はもう、相手の頭の中の私が搾取対象にならないようにするためにエネルギーを使うのはやめたんだ。
相手の頭の中の私など相手にせずに、ただ、目の前の相手の具現化した行動にのみ対処するようにする。
そうやって、線を引いてしまったんだ。
私がこの事件のことに、怒れないのは、きっと、もう、終わったことだとわかっているからなんだ。
過去のスケープゴート体験②集団の中でのスケープゴート

もうひとつのスケープゴート体験はさらにきつい。
これは、私の中学生時代の話だ。
私の辛い体験は大体、少年期に凝縮されている。
私は、とある醜態を晒してしまったことによって、長期にわたって、クラスの半分くらいの人に嫌われ者を見る目で見られるようになってしまったという経験がある。
ありがたいことに、悪口を言われるとか、嫌がらせをされるとか、直接的なことはなく、また完全に孤立無援になってしまうような徹底したものでもなく、学校のクラスという集団の中の、半スケープゴート状態となったというようなものだった。
完全なスケープゴート状態ではないとはいえ、当時の私が感じていた絶望感は酷いものだった。
あの時期の少年少女は、皆それぞれ、いじめの対象を押し付け合うようにスケープゴートを必死に探している。
完全とは言えなくても、そのエネルギーの対象に私がなってしまったことはとてつもない脅威だった。
結果的に中学時代のこの私の経験は、その後の私の人間関係に大分影を落とすこととなってしまった。
バウンダリーできると、スケープゴート化はしなくなくなる

しかし、私を本当に長い間苦しめた、この中学生時代の半スケープゴート体験も、相手の頭の中の私を切ってしまえば、どうでもいいことになってしまう。
「バウンダリー!」
そう唱え、相手の頭の中の私のイメージを切ってしまう。
これは言い換えれば
「相手の頭の中にいる私には、この私は従わない。」
と、宣言することだ。
やっと実感をもって言えるが、相手の頭の中の私に従ってしまうと、私の全ての動きが、相手本位の動きにならざるを得ない。
相手の頭の中の自分(私)に影響力をもたせてしまう(責任を感じてしまう)と、自分本位になることが難しく、スケープゴートになりやすいのだ。
人間関係の中でよくある、なんとも不自由で、頼りなく、相手の顔色を伺うような動きになってしまっているときは、相手の頭の中の私に従わなくてはならないと思っているとき、と言うことができそうだ。
相手のスケープゴート(生贄)にされないように、相手の頭の中の私のスケープゴート(生贄)になってしまっているのだ。
相手の頭の中にいる私をうまくとらえ、どんなに先回りの対処をしようとしても、結局は目の前に実際に起こった現象に対処するしかないんだ。
腹を括り、相手の頭の中の私をどうにかしようとしなければ、現実に対処する力に余裕が生まれる。
過去の自分のどのような汚点も、相手の頭の中の自分を切ることさえできれば、全て今の自分次第、自分がどうとらえるか、だけの問題となるということだ。
相手の頭の中の自分をどうにかしようとするのは大変

相手の頭の中の自分をなんとかしようとするのはとても大変だ。
世界中の搾取者の搾取対象にならないようにと、ズーッと緊張していなくてはならないし、これまで私が醜態をさらしてしまった全ての相手の頭の中の私を挽回し続けなければならない。
私は、それにエネルギーを使うことをやめることを決心したんだ。
「相手の頭の中の私のことなど知らん!」
それがどんなにみっともなくて、危なっかしくて、ダサくて、カッコ悪くて、虐められて当然のやつで、嫌われものであったとしても。
「そいつの責任など、とってやらん。」
ただ、私は目の前に起こった出来事に対処する、それだけだ。
おそらくこのマインドが場面場面における、自分にとっての最善手を生む。
スケープゴート(他人軸)で生きずに、自分軸を生きるということは、きっとそういうことだ。
相手の頭の中の私をどうにかしようと頑張っていると、他人軸になって、対処も後手後手になる。
自ら相手の術中にはまってしまい、自らスケープゴートな私になってしまうわけだ。
私は世界のスケープゴートだったのかもしれない

私は世界のスケープゴートだったのかもしれない。
他人の頭の中の私を切るようにしてから、私の世界はとても静かになった。
不安や心配事の半分はなくなってしまったかのようだ。
私は、相手に対して操作欲求が強い方だと自覚があるが、私がこれまで操作したかったのは、相手そのものではなく、相手の頭の中にいる私のことだったんだなと、つくづく思う。
そこを切ってしまった今は、操作したい対象がなくなってしまった感すらあるのである。
静かな頭になって考えることは・・。
結構暇だな、ってこと。
世界中の人の頭の中の私を良いやつ、すごいやつ、立派なやつ、にする必要も、
世界中の人の頭の中の私を悪いやつ、みっともないやつ、取るにたらないやつ、攻撃していいやつ、じゃなくする必要も、なくなってしまったら、
私のやることは、ほとんどなくなってしまった感がある。
多分、これからなんだろう。
私が本当に私のためにやるべきことを見つけていくのは。
今、そんな気がしている。
バウンダリーで過去のスケープゴート体験を克服せよ!おわりに

しかし、面白いもので、相手の頭の中の私を切っても、切っても、まだ苦しい夜はやってくるようだ。
私が昨夜感じたのは、今日の私の行動に許しが欲しい、という感覚だった。
世界に救いの神や、絶対の愛が求められるのもなんだかちょっとわかる気がする。
絶対的なゆるし。
安心。
愛。
今後は、そんなテーマで少し探索してみても面白いかもな、と思った。
それでは、また。
君の私は、私には無意味だ。
もっと私に、君自身のエネルギーを見せてくれ。
冥王、黒田明彦でした。