「善人だって救われるのだから、悪人が救われないわけがない」という言葉は親鸞の有名な言葉ですが、私を含めた多くの人間は、自分が悪人であることを認められないということが実際のようです。
親鸞は自分自身を悪人であると信じて疑わなかった。
これって、本当にすごいことだと思うわけです。
「正しい私は救われて当然。」これが善人の根底だと今私は理解しています。
私はまぎれもない善人です。
あなたはどうですか?
まずはこちらの動画をどうぞ
聖者になった愚者と、愚者にもなれない愚者【親鸞に会いに行く道vol.8】
それでは、以下補足解説をどうぞ
救われなかった親鸞
それでは、また親鸞に会いに行く道ということで語っていきたいと思います。
今回は愚かな自分になれない私ということで語っていきたいと思います。
親鸞は自分自身のことを本当に罪深い、本当にもう地獄にしか行き場がない、そんなどうしようもない人間だという自己認識を深く深くもっていました。
「どんな修行をしても自分は救われなかった。」
「本当に自分は罪深い人間なんだ。」
そんな自分は、仏様の力を頼って、仏様の力によってのみ救われる。
自分のはからいではなく、ただ仏様のはからいによって救われていくんだ。
どんなに頑張っても、自分の力では絶対に救われないということに、親鸞は打ちひしがれることができたわけです。
この純粋性がまず、すごいんですよね。
親鸞の自己否定と私の自己否定
なんとも罪深く、愚かで、地獄にしか行き場がないような自分だぁっていう、そういう自分をド真ん中に置けた親鸞。
これって、強烈な自己否定ともとれますよね。
地獄にしか行き場がない自分だなんて、そうそう言えるようなものではありません。
ちなみに私自身、これまでの人生の中で、自己否定がなかなかにすごいという自覚があるわけです。
ダメな人間、愚かな人間、みっともない人間、どうしようもない人間、そんな言葉が日々たくさん、たくさん、どこからか私に届いてきます(湧いてきます)。
根っこでは自己否定していない私
しかし、どんなに私に否定的な言葉が届いても、その強い衝動というか、その波の根っこにあるのは…、
- 自分は愚かな人間ではない
- 自分はみっともない人間ではない
- 自分はどうしようもない人間じゃない
というところなんですよね。
否定的な言葉がどれだけ自分に湧いてきても、根っこでは自己否定を否定している。
これだと、親鸞と逆なんですよね。
親鸞はもう、心の底から、
- 自分は愚かで、救いようがない
- どんな修行をしても救われない
- 地獄こそ私の一定の住処である
- 私は悪人である
自分をとことんそういうふうに受け止めていった。
これって、自分は悪人であるということを深く深く受け止め、肯定しているわけです。
私は、この辺りの親鸞の感覚を、
「親鸞は、自分自身から始まる全ての人間(宇宙)をそのまま肯定的に受け止めている。」
と感じています。
善人のプライド、驕り、執着がひっくり返る
私の場合は、自分を否定するような攻撃的な言葉がどんなに自分に向かってやってきて(湧いてきて)も、
- 自分は愚かではない
- 自分はみっともない人間ではない
それどころか、自分は他の人とは違う素晴らしい人間であるみたいな感覚があります。
それは、プライドというか、驕りというか、執着というか。
私の自己否定の言葉は、そのプライドや驕りや執着が満たされないことが、ひっくり返って聞こえてきているような感じなんですよね。
自分は愚かではない、自分はみっともなくなんてない。
自分は正しい。
それが根っこにあった上での自己否定。
本当は他を否定したい私
つまりそれは、本当は他を否定したいのに、他を否定すると善人でいられないから、しょうがなく自己を否定しているような感じになってる。
自分は認められるべき。
誰よりも救われるべき存在であるっていうところに居座った上で、外に向けたいけど向けられない否定感情が自分に向かってきてしまう。
これが私の自己否定の実体であり、親鸞の自己否定とは天と地ほどの差があります。
親鸞の自己否定は、自己を否定することで、宇宙を肯定していて、
私の自己否定は、宇宙を否定することで自己を正当化していることの裏返し。
そんな感じです。
善行に頼り、善人でありたい私
それと、あらためて私は、自分の力で良いことをすることで救われようとするって思考が強いですね。
正しいことをすれば救われる。
自分で正しいことをやれていると思えているときは、なにか許されているような気がして、落ち着きます。
ですが、実際は、どんなに正しいことをやり続けても、救われることはありません。
ふとした瞬間に襲われる不思議な不安、虚無感、孤独感、それはいつまで経ってもなくなりません。
自分が、正しいことをしても、しても、しても、救われないものですから、私から見て、正しくない人を見つけては、イライラして、その人を攻撃したくなってしまったりもします。
まったく難儀なものです。
善人こそが苦しみの種
私は、自己を否定するような言葉に日々まみれながらも、自分は正しい存在であると、救われるべき存在であると、心の奥底では硬く信じている。
そして、正しいことさえやっていけば、救われると心の底で信じている。
だけど、親鸞の言葉を味わっていると、この2つは、どうも私の苦しみの種になっているような気がするんですよ。
これを何とか突破しないと、私はどこで何をやっていても結局は苦しいだろうなと思うんです。
たとえ、今より正しいことができる人生をこれから始めたとしても、それだけでは救われきれないだろう。
私には、そんな予感があるのです。
安心出来ない私
私の価値観で正しいと思えることをやり続ければ、表面的な安心は得られるだろうとは思うのです。
- 人に喜ばれるようなことをして
- みんながやっていることと同じようなことをして
- 人に後ろ指を指されないように
- とにかく頑張って生きる
そうすれば表面的な安心は得ることができる。
だけどそれだけじゃ、ぬぐい切れないものがある
- 自分は愚かではない
- 自分は救われるべき存在である
- 自分は人と比べて特別である
それがどうしても満たされないから救われない。
こんな感覚ですね。
地獄に落ちるなんて思えない私
私は、自分が地獄に落ちて当然だなんて、まったくもって思えないんですよ。
だから、誰かにちょっと馬鹿にされただけで、烈火のごとく怒ります。
そして、自分にはもっとふさわしい場所があるんじゃないかっていつも迷ってしまいます。
私は、自分がもっとふさわしい場所に行けるようにとか、救われるべき自分をより正当化できるようにと、正しいことを積み上げよう、積み上げようと思うわけです。
そうすることで安心しようとするんですけど、実際は全然安心できない。
なんというか、結局1歩もその場を動けていない。
そんな感覚すらあります。
地獄を住処になんてできない
本当にもう自分は、罪深き、愚かな人間で、本当にもう地獄にしか行き場がない人間である。
そんなところにはなかなか行けないんですよ。
無理ですよ。
だって、自分は特別で、救われるべきで尊重されるべきなんですから!
愚かな私になどなれない
みっともない自分なんてものは受け入れられません。
- 自分はみっともなくない
- 愚かじゃない
- 罪深くない
- 自分は正しい
- 正しくありたい
- 正義でありたい
私には、もうそんな思いがずっとずっとあります。
そしてそれをより強化するために、いろんな行動したり、正しくある為に生きてる。
これがとっても苦しいんです。
しかし、これが苦しいのは、やはり自分は愚かで、罪深く、地獄こそが住処であるというのが、嘘偽りない、本来の人間の姿だから、なのでしょうか。
他力に任せるしかない自分になるということ
本当に愚かな自分。
もう救いようのない、本当に地獄行き決定の自分。
そこまで、自分の、人間の業(ごう)を直視できないと、本当の意味では他力(仏様の力)を頼ることができないんだろうと思います。
そして、結局人間は、他力(仏様の力)に頼ることができなければ、本当の意味では救われない。
親鸞はそんな境地にたどり着いたのではないでしょうか。
信じることでしか救われない
いろんな環境やら、縁(えん)の影響によって、自分の中で何が正しいかっていうこと自体は、より柔軟に変わっていく可能性はあるだろうと思います。
しかし、自分の根っこにあるのが、自分は正しいから救われるということであるうちは、結局は、いつまでもいつまでも苦しいままであると思うんです。
人間はいつもいつも正しいことができるわけではないです。
そして、自分が正しいと信じていることが本当に正しいかどうかなんてことも、結局はわからない。
信じるしかないんですね。
人間は、根っこのところでは、何かを信じることでしか救われないのだと思います。
自分は善人だから救われる、では不安定
善行(正しい行い)に頼ることで救われようとするということ。
それは自分の力で救われようとすること。
これだと実は、人生は相当不安定なんですよ。
自分は正しい行いをしているから、当たり前のように救われていく、地獄になんか落ちないと思いたい。
地獄なんて自分の住処であるわけがない。
これだと、いつまでも自分を正当化し続けないとならなくなる。
自分が正しくないと救われないわけですからね。
これは苦しいですよ。
自分の正しさを疑うものを、烈火のごとき意思でやっつけなくてはならなくなる。
それは、それで地獄のようなものですよね。
悪人になれたからこそ救われた親鸞
親鸞はもう、本当にもう、自分は愚かで罪深くて、地獄にしか住めない人間だと信じて疑わなかった。
その上で救われることができた。
親鸞の信じている仏様は、生きとし生けるものを、必ず救うと言っているんです。
親鸞はそれを信じ、どうにもならないほど愚かな人間のまま、救われることができたんです。
これが、どれほど絶対的な救いであることか。
親鸞はとことん自分の愚かさに打ちのめされたからこそ、絶対的な救いに出会うことができた。
どうにもならない愚かな人間であるからこそ、そんな愚かな人間であっても救ってくれるという、仏様に出会い、信じることができたわけです。
自分の愚かさをどこまでもどこまでも受けれていった先に待っている救いこそ、絶対の救いというわけです。
愚か者になれない愚か者、まとめ
だけどですね、
そうそう自分は愚かだなんて、
自分は罪深くて地獄行き決定の人間だなんて、
心の底の底から思うことなんてできないんですよね。
自分は特別で、自分は救われるべき存在で、それが当たり前っていう感覚、どうしても手放せないですよ。
正しくありたい、正しい行動をすることで救われたい。
いや、私の根底は、もっとおこがましい。
「いつも正しい私は救われて当然である。」
そう思い込んでいる。
そこから抜けられないですよ。
そんな迷いの道からはそうそう抜けられない。
「愚者になんてなれないよ!」
そんな私だなぁと思うばっかりです。
だけど、こんな愚か者にすらなれない愚か者の私ですら、親鸞が信じた仏様は救ってくださるようです。
さて、さて、私は、いつまで、無限の光(仏)に背を向けたまま、走って走って、走っていくのでしょうか。
空淡 黒田明彦