冥王の唄

他人を本当に愛するのに必要なこと~たった独りの人間観~

愛しています。

愛しています。

愛しています。

自分に向かって愛を贈るのは、思い立つことさえできれば、難しくなかった。

だけど、他人に対して愛を贈るとなると、どうも一筋縄ではいかないかもしれないみたいなんだ。

自分を愛せる人間になる

他人を愛してみたくなったんだ

他人を愛するためには

言葉によって、私に愛が少しずつ満ちてきたのだろうか。

自分に対して愛している、愛している、愛している、という言葉を繰り返し繰り返し贈っていたら、どうにかして他人を愛せないだろうかという気持ちになってきたんだ。

私は、今度は、他の人に向けて愛の言葉を贈ってみたくなった。

というわけで、一番身近な他人である、父や母に向かって愛の言葉を祈り、念じてみた。

とにかく繰り返し、繰り返し、愛の言葉を書き綴ってみた。

とにかくやってみた結果

最初はとても抵抗があった。

なんで、私を愛で満たしてくれていない人に、愛を贈らなきゃいけないの?

私は足りないのに。

私は愛が足りなくて苦労しているのに。

なんで、私の方から一方的に・・・って。

涙が出るほど悔しかった。

だけど、それでもなんか、やり続けたくて、嘘でもいいから、とにかく愛しています、愛していますと祈ってみたんだ。

そしたら、なんか物足りなかったんだ。

なんだか、愛をカタチにしなくてはならない。

行動化しなくては意味がないのでは?という思いが湧いてきた。

相手に届かなくては意味がないのでは?

自分への祈りがそうだったから。

愛の言葉は繰り返し、繰り返し、贈ってこそ意味がある。

愛の言葉は信じられてこそ力をもつ。

だから、他の人に愛を贈りたいのであれば、その愛が何らかのカタチで本人に届いていなければ意味がない。

しかも、何度も何度もだ。

だから、ただ私が頭の中で祈るだけじゃだめな気がしたんだ。

バラバラになってしまった

どんなに自分の頭の中だけで、父や母に向けて愛の言葉を祈っても、実際の私は父や母に対して、愛の溢れる関わり方ができていない。

頭の中では、そして本人達を前にしないところでは、愛の言葉を祈っているのに、本人達を前にすると、自分が被害に遭わないようにと、必死でそっけない態度をとっている。

バラバラじゃないか。

身体の反応と、祈りがバラバラ。

そうして、なんだか、だんだん意味を感じなくなってしまって、私は父や母に愛の祈りをすることができなくなってしまったんだ。

愛のカタチ

他人を愛するためには_本当の愛のカタチを考える

他人に愛を贈りたいのであれば、しっかりとした愛のカタチを贈り続けなければならない。

相手がそれを信じられるようになるまで。

愛のカタチとはなんなのか。

ずっと考えていた。

繰り返し繰り返し、愛しているよという言葉を伝えるのが一番簡単だろうが、今の私には言えない。

それどころか、彼らと顔を合わすたびに、愛とは真逆の言葉が頭をよぎってしまうことばかりだ。

身体の反応

考えたんだ。

自分の身体の反応を。

どうしても、嫌われると、嫌ってしまう。

どうしても、否定されると、否定してしまう。

どうしても、愛されないと、愛せない。

これだと、今の私のままでは、私を愛してくれる人にしか、愛を贈れない。

私を愛してくれない人、私を嫌いな人、私を否定する人を愛することができない。

私はそんな私を変えていきたいんだ。

私のやりたいこと

私を私の思い通りに愛してくれる人が現れない。

だから、私も他人が愛せない。

ではなくて、

私は、私を愛してくれない人、嫌いな人、否定する人でも関係なく愛せるようになりたい。

それなんだよ。

だけど、今のままの私の身体の反応では、それは無理なんだ。

たった独りの人間観

他人を愛するためには-たった独りの人間観

なんかね、そこで思い立ったんだよね。

たった独りの人間って、人間観が。

これは、先生が出会ったころから、ずっと私に見せてくれている人間観。

先生の背骨にぶっ刺さっている、先生を支えている太い信念。

先生は「たった独りの人間」を事実だと何度も言った。

私はこの人間観に一度救われた

このたった独りの人間観は、哲学的には独我論ってやつに近い。

人間はたった独りで生きている。

自分と同じ人間は一人もいない。

この感覚を徹底して、本当に詰めていく人間観。

私は先生のこの一貫した態度を初めて見せてもらったとき、

「私は母とは違う人間なんだ。」

「私は母とは同じにはならない。」

と、自然に信じられて、とても救われたことを覚えている。

私は母から、自分の意思で離れることができる、という感覚を先生の一貫した人間観からもらえたんだ。

その後は、この人間観に否定的だった私

しかし、私はこの「たった独りの人間」という人間観を部分的にしか、いただけてなかった。

母の件が落ち着いてしまってからは、実は、結構この人間観に否定的だったのである。

だって、他人のことは絶対にわからないと言ったって、同じ人間は一人もいないって言ったって、身体に感じてしまうものがあるでしょ。

相手の姿を見て、音を聞いて、言葉を聞いて、エネルギーを感じて、どうしても感じてしまうところがあるでしょ?って。

それは、相手から感じたところだよ。

私が、相手を指さして反応してしまうのはしょうがないでしょ。

それが自然な身体の反応だよ。

私は、私の身体の反応に逆らうことはできない。

それが、自然だよって。

だから、先生が厳かに、私の発言や反応に対して、たった独りの人間観で応答してくるたびに、私は不満だった。

そんなこと言ったって、身体が反応しちゃんだから無理だよって。

自己否定が強すぎて生きづらい

変わりたいんだ

他人を愛するには_本当の愛_変わりたい

でも、このままの私じゃ身体の反応のままに、私を嫌う人を嫌い、私を愛さない人を愛せず、私を否定する人を否定してしまう。

それじゃ嫌なんだ。

「今のままじゃ、この世界がこわくてこわくて仕方がないんだよ!」

だから、私は、もう一度たった独りの人間観について考えてみようと思ったんだ。

すべてを、振り出しに戻すように、このたった独りの人間観を練り直してみようと思ったんだ。

取り組んでみようと思うんだ

「たった独りの人間観」が、私を救ってくれないのは、私の中で、「たった独りの人間観」が感性として、信念として弱いからだ。

感性は、それについて取り組めば取り組むほど、深まる。

信念は、念じれば念じるほど、力を持つ。

だから、私はこのたった独りの人間観に、どこまでもどこまでも取り組んでみようと思った。

私の反応が変わるほどに、何度も何度も思考し、身体に馴染ませる。

時間はかかるだろうが、すでに私の先生がずっと実践してくれている在り方だ。

生涯かけて取り組むものとして申し分ない。

たった独りの人間観について深めるワーク

他人を愛するためには_本当の愛を深めるワーク

これから私は、たった独りの人間観について深めるワークを始める。

少しずつ、少しずつ、確実に身につけていきたい。

今までの自分におさらばするのは少し寂しいが、新しい自分になっていけるかと思うとワクワクする。

だけど、続けることができないと結局は何も身に着かない。

繰り返し、繰り返し、たった独りの人間観を念じ、伸ばす。

ありがたいことに我が家は、たった独りの人間観を培う実践の場としてはもってこいだ。

たった独りの人間観のとば口

昨日からたった独りの人間観のワークを始めてみた。

そこで、私にやってきた言葉は、

「他人は、名前と、身体と、音で出来ている」ということだ。

そして、「言葉は、私だけのもの」

「私だけにはたらいているもの」

この感覚だ。

言葉の語る言葉のことを、言葉のはたらきと呼んでみようと思う。

私と他人の間では、言葉はただの記号としてしか機能していない。

だから、他人の言葉というものは、実は存在しない。

あるのは、音と、文字と、私の言葉だけ。

言葉のはたらきは、ただ私にだけ起きている。

これが、たった独りの人間観のとば口だ。

続けることが大事

こういうことを毎日毎日ずっとつめていくことで、私の身体の反応を変えていく。

少しずつ、少しずつ。

変わるだろうか。

自分に愛を贈るワークと同じくらい自分に馴染んでくれればいいなと思うばかり。

とりあえず、1ヵ月、2ヵ月と継続してみよう!

もし、なにかものになりそうだったら、また皆さんにも紹介しますね。

冥王、黒田明彦でした。

愛しています。

愛しています。

愛しています。

私の愛、もらってね。