今回の記事は、自分の中に他者とは大きな差のある特徴を持ってしまっている人が、どのようにその特徴と付き合っていけばいいかということのアイデアを書いてみます。
これから紹介するアイデアは、私が基本的に積極的傾聴の学習で学んできたことです。
積極的傾聴の学習で学んだアイデアといっても、心理学的な考え方ではなく、どちらかというと東洋的な思想にもとづいています。私の尊敬する先生が仏教的思想を好んでいるということも大きく影響しています。
興味のある方は読んでみてください。
ギフテッド・グランディングーギフテッドとは?
ギフテッドとは神から与えられた(生まれつきの)才能、特質というニュアンスの言葉ですが、基本的には知的に突出した能力を指すことが一般的です。所謂、とても勉強のできる天才児のことですね。
この記事ではギフテッドという言葉をもう少し広くとらえ、生まれつきの才能として考えていきます。
勉強や、運動神経の生まれつきの才能というのはわかりやすいと思うのですが、もうひとつ、感覚にも生まれつきの才能があると私は思っています。
ギフテッド・グランディングー感覚的才能を持つ人は発見されにくい
現代社会では知的才能や運動神経を測定・評価し、区分していくことは標準的に行われていますが、感覚的才能を測定・評価し、それによって区分していくということは行われていません。
したがって、知的な天才やスポーツの天才はすぐに見つけることはできますが、感覚的な天才は埋もれたままです。
ですから、自分が感覚的才能を持っているにもかかわらず、それを自覚し、それを体系的に伸ばし、それに自信をもって暮らすことができる人はほとんどいないというのが現状です。
他者とは著しく違う感覚的な才能を持っているにもかかわらず、それが客観的に評価される指標が整っていないため、ただ、ただ、厄介なもの、迷惑な特徴、苦しみの種、社会で生きていくための障害にしかなっていない人もいることでしょう。
ギフテッド・グランディングー感覚的才能を持つ人ってどんな人?
著しく敏感な感覚器を持っている人や、感受性の強い人、そしてエンパス、逆エンパス体質のような極端なエネルギーの流れを持っている人、強烈なイマジネーションと感性で霊や、宇宙と交信したような記憶を持っている人などです。
ギフテッド・グランディングー感覚的才能を持つ人への評価
感覚的才能を持つ人への現代社会からの関心は低く、評価も低いです。
その理由のひとつは、現代社会を支配している、科学という思想と、感覚的才能の相性が悪いということがあるでしょう。
ギフテッド・グランディングー物理的文明と感覚的才能
物理的な文明が発展する前の社会は、目にみえないもの、霊的なものが社会の関心の中心だったのではないでしょうか。
そういう時代では、感覚的才能の持ち主は評価され、ある程度のポジションを与えられたことでしょう。逆にそういう時代では、知的才能を持つ人たちは満足な評価はされなかったでしょうね。
ギフテッド・グランディングー感覚的才能は、物理的豊かさに貢献できない
感覚的才能とは、受信機能の才能であることが多く、たとえその才能を効果的に発揮できるような社会環境が揃っていたとしても、それにより物質的な豊かさに貢献できるわけではありません。
感覚的才能がもたらす豊かさはあくまで精神的な豊かさであり、現代人の多くが、物理的豊かさ以上に精神的豊かさを欲しがらない限りは、状況が変わることはないでしょう。
感覚的才能は、それだけでは現代社会的においては価値が低く、積極的な保護もされないので、社会に適応し、折り合いをつけながら、自分で自分の暮らしを支え、ユニークに人生を潤わしていく必要があるということです。
ギフテッド・グランディングー感覚的才能を現代社会で評価してもらう方法
簡単に言えば、感受したものを表現し、他者を喜ばせるということです。
感覚的才能を活かし、表現物を生み出す。芸術という形で表出された物なら現代社会でもある程度評価されます。
または、感覚的才能を活かし、多くの人に喜んでもらえるような芸を生み出すということです。
ギフテッド・グランディングー地に足をつけるための思考
たとえば、すでに社会から評価されている知的才能や運動神経を持つ人でも、その才能におぼれ、驕り高ぶり、傍若無人にふるまってしまうと、結局は周りの人ともうまくいかず、その才能を活かし、社会と上手くやっていくことは難しくなってしまいます。
感覚的才能を持つ人たちは、現代には基本的にはその才能を発揮する場所はなく、それを伸ばしていくための環境もありません。
また、妥当な評価尺度も存在しないので、自分の才能を自分でどんどん誇大化させてしまって、驕り高ぶってしまったり、現実的な感覚からどんどん遠ざかり、イメージの世界で暴走してしまったりすることもあるかもしれません。
このような状態を予防するための考え方として、グランディングという考え方があります。これはスピリチュアル的な考え方ですが、簡単に言うと、地に足をつけましょうということです。
人間はひとりでは生きていけない
現代社会からの高評価の影響力や、感覚的世界への没頭からくる満足感で、我(ガ)におぼれてしまうと、社会の中で適応していくことはできません。
社会は個人の能力が支えているのではなく、ひとりひとりの人間の関係性が支えているのです。
また、人間社会の暮らしは身体が中心ですので、眠る必要もあるし、食事をする必要もあるし、トイレに行く必要もあります。
その、身体中心の暮らしを維持していくためには、社会の中で必要なことを他者と同じようにこなしていく必要があるのです。
ギフテッド・グランディング―他力本願という考え方
仏教の中の一つの哲学に他力本願というものがあります。一般的にこの表現は、自分のことを他人任せにするという気楽な責任放棄のニュアンスでとらえられていることが多いようですが、それは誤解です。
他力本願でいうところの「他力」とは、私のまわりのすべてのできごとは自分の力でどうにもできるものではないという考え方です。
すべてのできごとは、人間の「自力」で起きているわけではないという哲学ですね。
ギフテッドでいえば、まず才能そのものですが、これはギフテッドとよばれるくらいですから自力で手に入れたわけではありません。
テストで100点をとることも、スポーツで世界一位になることも、才能以上に、大変な努力が必要なことでしょう。
しかし、その「努力心」すら自力で手に入れたわけではないと理解することです。
すべては自力ではなく、他力によって、はこばれたもの。
このように身体の芯から納得して理解することができれば、「我執」から離れ、より自由に、建設的に、効果的に才能を活かさせてもらう人生がおくれるようになります。
ギフテッド・グランディングー私というとらえかたの神髄
この「他力」は感覚的な才能にも言えることです。
不思議なものを感受する。
たくさんの言葉が浮かぶ。
ステキなメロディーが浮かぶ。
美しい構図が浮かぶ。
どれも感覚的に自分の身におきる出来事ですが、これも自力で行っているものではありません。
不思議なものを自力で感受したわけではありません。
たくさんの言葉を自力で浮かべたわけではありません。
ステキなメロディー自力で浮かべたわけではありません。
美しい構図を自力で浮かべたわけではありません。
それらは自力で私(我)が生み出したものではなく、
どこからか私(我)に向かって届けられたものです。
どこからか届けられてくるものを、ただ聞かせてもらい、見させてもらい、感じさえてもらっているだけの感覚的存在。
それを私(我)と言いたいのです。
この他力感が測定可能な異常に突出した能力や、測定不能な異常に多感な感性と社会生活の地面をつなぐ綱のようなものになるのです。
ギフテッド・グランディング―終わりに
今回は生まれつきの才能・特質をギフテッドととらえ、その才能を抱えながら社会に地に足をつけて生活していくための哲学的思考を紹介してみました。
冒頭にも書きましたが、これらは私がカウンセリングの先生に繰り返し聞かせてもらい、そして実際の態度で証明してもらってきたものです。
「他力感」を身近に感じるコツは自分の声にしている言葉について、ちょっと考えてみることですね。
カウンセリング学習に携わり、ありのままに自分のところを語ることを積み重ねていくと、
「あれ、この言葉自分で考えた言葉だっけ?」
「思ったこともない言葉が今、言えてスッキリした。」
こんな体験をすることがたくさんあります。
こんな体験を繰り返ししていると、別にスピリチュアルなことが大好きじゃなくても、言葉はどこからか私に向かって届けられてくるものなんだと、疑いようもなく体感・実感することができます。
人間本来の感覚は、科学的な枠にはおさまりきっていないのだという発見。
それは私にしてみれば、とても静かで確かな革命のようなものでした。
あなたの身にもそんな革命が起こること、密かに期待しています。
月の逆エンパス 黒田明彦