逆エンパスという言葉にたどり着く人の多くが抱えている悩みのひとつが、「なぜ、私はこんなにも人に嫌われてしまうのだろう?」という疑問、嘆きである。
私はこれまで、この議題の検討を何度となくトライしているが、今回もまた違った角度から、検討してみようと思う。
これから、つらつらと書かれる文章は、逆エンパス冥王、黒田明彦による、逆エンパスが嫌われる理由、その考え方と対処の方向性、2023年度版である。
人が人に嫌われてしまう理由
人に嫌われるのは、逆エンパスであるかどうかに関わらず、自分が単純に相手の嫌がることをやっているからである。
人に嫌われてしまう理由がわからないということは、自分の何が人を嫌がらせているかがわからないということである。
逆エンパスに関わらず、人に嫌われやすい人は、基本的に自分の発言や行動を客観的に捉えることが苦手なことが多い。
端から見れば「そんなことやっていたら誰だって嫌われるでしょ・・・。」と一目でわかるようなことをやっているのかもしれない。
自分がやられたら嫌なことは他人にもしない。
使い古された道徳観かもしれないが、やはりこれはどんな人間関係においても、大事な価値観であると言わざるを得ない。
逆エンパスの前に
さて、この自分の発言や行動を客観的に捉えるということだが、それがどうしても苦手な特性を持っている人もいる。
たとえば、心・精神の病を抱えていたり、発達障害と呼ばれる区分に該当する特徴を持っていたりすると、(特にその症状が強く出ているときほど)自分の発言や行動だけでなく、全てのことがらを客観的に捉えることが難しくなる。
そういう場合は「なぜ私は人に嫌われるのだろう?」と悩むよりも、自分の疾病や障害についてフォーカスをあてていくほうが、解決に向かいやすかったりする。
「なぜ私は人に嫌われやすいのだろう?」
たとえばそれが、単純に病理的な被害妄想からきている場合もあるのだ。
そういう症状が特に強いときは、薬を飲んだり、生活習慣を改善する方が合理的なのだろう。
さて、逆エンパスの場合はどうだろうか?
逆エンパスの中には、「私は日頃から、人に嫌われないように気を付けているのに!!なんで!?どうして!?」と叫びたい人もいるだろう。
逆エンパスは自分の発言や行動を客観的に捉えることが苦手な特性なのだろうか?
気を付けているつもりでも、実は全然出来ていないだけなのだろうか?
自分が嫌われる理由が、今はちっともわからないのであれば、やはりそれは今はyesなのだろう。
しかし、あえて少し角度を変えて言うのであれば、
逆エンパスが健やかに生きていきたいのであれば、自分の発言や行動のみならず、全ての事象をより客観的に捉える力がどうしても必要である、という言い方ができる。
人間は何を嫌がるか?
さて、少し人間のことについて深く考えてみる。
人間の自己構造、自我、すなわちエゴ。
まぁ、今回はそのあたりをフワッと「心」という言葉を使って説明してみる。
人間の「心」の一番メインのはたらきは何か?
それは、「他(た)」と「自分」を分けることである。
というか、「他(た)」と「自分」を分けるはたらきそのものを「心」と呼んでもいい。
そして、心は、心自身を守る為に「自分」ではないものを嫌がり、拒否する傾向がある。
つまり基本的に人間は、自分ではないものが嫌いなのである。
逆エンパスは自分が強く、濃く、鋭い
まず逆エンパスは、この「自分」というものが発するエネルギーが、自覚なく強く、濃く、鋭いのである。
この自覚なくというところが、とても苦しいところである。
それは色もなく、形もなく、見えない。
その「自分」というものが発するエネルギーの強さ、濃さ、鋭さは、目で見るのではなく、相手の反応や、全ての事象を客観的に捉えることで、「描く」しかないのだ。
他(た)は自分の邪魔になる
人間の心は自分でないものが嫌いである。
その人間の心のはたらきを意識の上で自覚できる人はほとんどいない。
だから「他(た)」として、いつもはっきり、くっきりしている逆エンパスのエネルギーは、なんとなく、相手の心を嫌な気分にしてしまうのだ。
それは、その人にも、逆エンパス自身にも意識できないところで起きている現象。
だからいつもいつも「なんとなく嫌われる」になってしまうわけだ。
嫌ってる方も、嫌われてる方も、わけが分からない。
目に見えないんだから仕方がないね。
逆エンパスに必要な性悪説的理解
逆エンパスだけが人間に嫌わるわけではない。
「自分ではないものが嫌い。」
この人間の心のはたらきは、逆エンパスだけに向けられるものではない。
逆エンパスじゃない人同士だって、相手が自分ではないというだけで、嫌い合っている。
それが人間の本質だ。
人間が仲良くできるのは表面上だけだ。
そして、表面上仲良くできるのは、単純にその人間同士の「自分」が発するエネルギーが弱く、薄く、鈍いときだけだ。
ひとたび、「自分」が発するエネルギーが強く、濃く、鋭くなりだしたら、「自分」を「自分」として、「他(た)」を「他(た)」として強く認識しだす。
そうなったら人間は、表面上ですら仲良くできなくなる。自然と嫌いあう。
これまでの人生、自分以外の人が仲良くしていると感じることに寂しさを感じたことは多いだろう。
しかし、その仲良くの実際は、必ず薄っぺらであったのだ。
多くの人はその薄っぺらに、不満も不信も疑問すら感じていないというだけなのだ。
性悪説を生きる逆エンパスが嫌われないようにするための方向性
さて、人間は「自分」ではないものが嫌いである。
しかも、誰しもそれを意識の上ではほとんど自覚できない。
困ったものである。
こんな人間ばかりの世界をどうやって、嫌われずに生きることができようか?
①勝ち続けること
逆エンパスが嫌われないために生きる方法その1は、勝ち続けることである。
それはつまり、どんな相手に対しても自分を認めさせてしまうということ。
もう少し逆エンパス的に深く言うと、相手を自分のエネルギーで塗りつぶしてしまうということである。
強さ、優位、覇気を常に見せ続け、相手に「逆エンパスを嫌うとすごく損だ」と、ことごとく思わせることである。
そうしていくと、無意識下で、相手の心は、逆エンパスを嫌わなくてすむように、逆エンパスを「他(た)」ではなく、「自分」と認識するようになる。
心のはたらきとはなんとも都合のよいものである。
しかし当然、この方法だと、逆エンパスが負けだすと、また嫌われるようになる。
再び嫌われたくなければ、逆エンパスは勝ち続けなければならない。難儀なものだ。
②「自分」を薄くすること
人間は自分ではないものをどうしても嫌う。
それをまず理解し、受け入れる。
ここがまず、人生の一大事である。
その上でどうしたらよいか。
上記のように相手に勝ち続け、相手を自分色にしてしまえばいい。
そんなことができるだろうか?
それができていたら今、苦しんでいないのではないだろうか?
だったらどうする?
相手にとって、この私の「自分」が嫌われるのであれば、この私の「自分」を薄めてしまえばいい。
無意識的に「自分」が発するエネルギーの強い逆エンパスが、人に嫌われなくなるためには、意識的に「自分」を薄くする必要があるわけだ。
それは、大まかな方向性としては、いわゆる無我、無心、無私の境地を目指すということだ。
それは仏教で言うところの「サトリ」を目指す方向性というわけだ。
逆エンパスよ、自己(宇宙)洞察を極めよ
逆エンパスのエネルギーを自己洞察に全振りする。
それはもう、人生をかけた、一大プロジェクト。
自分を薄くするというと、なんだか寂しい感じがするだろう。
でも実はね。
自分が薄くなっても、エネルギーそのものが薄くなるわけではない。
なんというかな・・・。
自分が薄くなると、その分、宇宙そのものが濃くなるんだよ。
「他人に嫌われなくなるということ。」
実はそれは、自分と宇宙が一体化するような、壮大な迫力のプロジェクトなんだ。
勝ち続ける人生を目指す以上にやりがいのある人生になるかもしれないよ。
逆エンパス的性悪説的と愛
人間は「自分」ではないものが嫌いである。
この性悪説的考えを受け入れること。
そうすれば、少なくとも「なんで私だけ嫌われるの?」という感情は和らぐだろう。
むしろ嫌われるということは自然なことであると、納得できる。
むしろ、嫌われるということは、私が「在る」という証明、「あかし」のようなものだ。
心は、他の心と違うことで(否定することで)存在できる。
心が他の心と仲が良いなんてことは、実は不自然である。
この辺りをどこまで厳しく自覚できるか。
こんな考えを聞くと寂しくなるだろうか?
この世に愛はないのかい?と、ソワソワしてしまうだろうか?
でも君は、偽りの愛に首を傾げることが出来てしまう人だからこそ、これまで人に嫌われることができてきたのではないかい?
逆エンパス的性悪説。
そこに立つことができて、初めて、今度は薄っぺらではない真実の「愛」の学習が始まるのではなかろうかと、今の私は思うのだ。