安心と霊性

【自力門】般若の智慧、仏教安心の奥義

今回は、安心のための智慧。

仏教、「禅」の奥義、般若の智慧です。

般若とはすなわち、死んだまんまで生き返るということだ。

世界が生まれる前の世界が、君にも見えるか。

まずはこちらの動画をどうぞ

【仏教・禅の安心奥義】般若の智慧、なにも分からないに還る – YouTube

それでは、こちらは文字で語っていきます。

般若の智慧とは?

こんにちは黒田明彦です。

今日も安心について語っていこうと思います。

今のところ私が学んでいる安心の道には、自力門と他力門という二つの門があるという話を前回しました。

今日は自力門「禅」の話です。

「禅」もそうなんですが、仏教全体に関わる大事な考え方に、般若というものがあるんですよね。

般若とは、仏教の言葉で「智慧」っていう意味らしいのですが、鈴木大拙が、「般若の智慧」と言葉を重ねて言うので、私も真似しています。

安心への道には、この般若の智慧というものが非常に大事になってきます。

人間の苦しみの原因とは?

人間の苦しみの原因は何なのか?

いろいろ考えて突き詰めていくと、それは人間の知識の元、分別識にぶち当たります。

なんでもかんでも分別してしまう人間の働き。

あらゆるものを分別せざるを得ない人間の働き。

これが苦しみの原因があると。

分別(ふんべつ)とは?

ここで言う、分別っていうのは、人間が、いろいろな意味を考えたり、理屈を考えたり、名前をつけたりして、物事を理解するということです。

私は私であるっていうのも、分別による理解です。

これはなんだろう?これはなんだろう?

分かった、これはあれだ、あれはこれだと。

人間はとにかくこういうふうにいろいろと分けて、解っていきます。

人間っていうのは分けていきたがる生き物であり、それでこそ人間であると言えます。

分別に苦しむのが人間

しかし、そういうふうに、いろんなことを分けて分けて分けていってしまうことによって、苦しみも生まれてくる。

人間というのは苦しむためのものである・・・なんて言いたくなってしまうところもあります。

いろんなものを分別していく。

どんどん分けていってしまう。

そしてそれこそが人間の苦しみの元である。

般若の智慧は、その分別の苦しみから人間を救う知恵です。

ものが二つにある前の世界を見る目

物事を二つに分けない。

というよりも、二つに分かれる前のものを見るのが般若です。

悟りの世界、「禅」で言うところの見性の世界っていうのは、物が二つに分かれる前の世界を見るということです。

それはつまり自分が生まれる前の世界。

そこでは、自分に執着しようもない。

自分というものがないわけですから。

分別の世界は対立の世界

私は私、あなたはあなたというふうに分かれていることで機能するこの世界は、分別の世界です。

そこでは、対立と苦しみが尽きない。

楽しいとか嬉しいということもありますが、自分というものが立つということと、何かと対立するということは、ほとんど同じ意味です。

だからその自分を立てる働き、物事を二つに分けるという分別識の働きを超越しない限り、本当の安心を得るということはできません。

分別の自覚は難しい

物事を二つに分けるという分別識。

これを自覚すること自体がまずは難しい。

それは、簡単に言うと何かを「分かる」というあの経験のことだと言ってもよいと思います。

何かが分かったということは、分別がついたっていうことです。

だから、分別がなくなるってことは、分かったってことが、ことごとくなくなっていくということです。

分別を超える

分別を超える。

無分別の世界にふれる。

何も分かったことがなくなってしまう世界、そして、同時に何もかもが分かってしまう世界。

そういう世界はある。

そして、そここそ安心の世界なんです。

分かってしまうから苦しくなる

分別をしないとなると、まず、感覚の世界というのが曖昧になってきます。

般若の智慧以前の人間は、やっぱり身体の感覚、感情などが絶対的なものなんですよね。

そして、感覚や感情を絶対的なものとしているうちは、自己中心からは離れられない。

自分を守るという発想が非常に強くなってしまう。

痛い

悲しい

辛い

そういう感情・感覚。

非情に分かりやすい原始的な感覚の世界が最後の世界だと思っていると、自分というものから一歩も外に出られなくなってしまう。

これでは苦しいですね。

そういう感覚とか感情の世界を超越している世界というのがある。

感情も感覚も全て分別ですからね。

刺激に対する反応に名前をつけて分かったような気になったままでいる。

そして、分別が最後のものだと思っていると、苦しみから逃れられない。

否定が始まり

全ての言葉を

全ての言葉の意味を

否定できるかどうか。

分別をしない、無分別な世界。

私たちは、「これは苦しみだ」「これは痛みだ」って、分かっちゃってる。

そうじゃない。

分からないんだ。

何も分からない。

分からないも分からない。

ものが分かれていかない。

そういう世界がある。

そこが安心の世界。

絶対「無」の世界であり、絶対「有」の世界であり、悟りの世界。

それは虚無の世界ではない

分別のない世界は、無為というか虚無の世界ではない。

全て分からない世界になってしまうと、もう何もできないじゃないか!と。

病気みたいなもんじゃないか。

もっと強く言うなら、死んだようなもんじゃないかと。

何も分からずに、何も理解できずにいたら、何も動かないじゃないか!

なんの分別もないように生きるなんて、ありえない!

これがいわゆる分別だけで無分別の世界を分かった人の感想なんですよね。

一度覗いてみれば分かる。

分別をしなくても、働きはあるんですよ。

無分別は働いている

こちらで分かろう、理解しよう、分かってからやろうとかね。

そんなもの関係なしに、動く、動いているんだよ。

身体、心、意志っていうのはね。

自分の分別に関わらず、意志は動く。

働いていく。

それが無分別の働き。

それはある。

無分別の分別っていうのがある。

分別は無分別に包まれている

他力門のところで、カウンセリングの先生に、

「自力は他力に包まれている」

っていうのを教えてもらったって書きました。

同じように、

「分別は無分別に包まれている」

無分別から分別は生まれている。

そしてまた、分別から無分別も生まれている。

分別がなければ無分別もない。

そして、無分別がなければ分別もない。

この辺の感覚は大事ですね。

何も分からないままに生きている世界

分別の無分別と、無分別の分別っていうのがある。

両方あるのが般若のミソです。

だから自分の分別っていうのがなかったとしても、生きていく。

生きるも何も分からないいままに生きていく。

そういう世界がある。

私がこう考えたから私はこう行動する、のではない。

意志は、私とは関係なしに既に動いているんだ。

この世界は無分別で動いていける世界。

いや、無分別で既に、既に、動いてる世界なんだよ。

・・・という視点が一つある、ということですね。

大きな力に動かされている

この世界は、全て人間の分別が作った意味の世界です。

それによって全てが支配されているかのように感じている時は、本当に絶望しがちです。

でも、そうじゃないんだ。

もっと大きな力に働かされている。

動かされているっていうのが事実。

そこにふれない限りは、なかなか安心感というのは得られない。

この分別は、無分別に動かされている分別だったんだというところに、気づけるかどうか。

そしてそれを、折にふれて思い出せるかどうか。

般若の智慧を身に着ける練習

般若の智慧。

それは、

「般若は般若に非ず、故に般若である。」

という言葉が端的に表している。

全てのものを一度完全に否定してみる。

その上で肯定する。

私は私ではない、故に私である。

私は私であるって、分かっちゃってるでしょ?

その分かっちゃってるところで、苦しむことができるんだ。

だから、その分かっちゃってる私っていうものを否定してみる。

完全に否定してみる。

今まで分かりきっていた私っていうものを殺してみる。

言葉の意味。

分かりきってしまっていた意味を殺してみる

私は私ではない。

そしてその後に故に私であるって肯定する。

生き返すんだ。

ここがミソなんだ。

死んだまんまではない。

いや、死んだまんまで生き返る。

そんな感じ。

現実は夢幻

現実ってのは存在する。

社会ってのは存在する。

でもそれは実は、夢幻のごとくのものである。

私たちが現実だと思っているものは、私たちが勝手に意味付けた、人間の分別で作られた世界である。

だからそれを一度、完全に否定してみる。

私は私ではないという理由で、私は私である。

意味が分かんないでしょ?

この意味が分かんないところがポイントなんです。

私たちは、普段、分かりすぎている。

分かれないものを分かっちゃってる。

そこをいかに崩していけるかっていうところなんだ。

分からないに還る

分かることなんてね、一つもないんだよ。

分かってないのに、既に動いてるんだよって。

で、その分かってないに還れば安心になれる。

論理が通っていれば、私たちは分かってしまう。

それは正しい、それは事実であるっていうふうに、二度と疑うことができなくなってしまう。

論理が崩れてわかるもの

論理が崩れて、やっと味わえる感覚っていうのがある。

感覚を否定した感覚。

ロジックを否定したロジック。

今ある当たり前の現実を否定した上で、今ある当たり前の現実を肯定する。

それはあるし、ないんだ。

その両方を味わうことができるようになる。

自由自在。

どっちでもいいんだよ。

どっちにもいけるんだよ。

鈴木大拙の即非の論理

鈴木大拙は、この辺りのところを即非の論理と言っている。

君もちょっと練習してみてはどうだろう?

頭に思い浮かんだ全ての言葉をまず否定してみる。

そしてその後、肯定する。

これを常日頃からやっていれば、新しい世界が開けるかもしれない。

何か嫌なことがあった時に、

「今ちょっと嫌な気分だなぁ」

ってなった、その瞬間に、

嫌な気分は、嫌な気分ではない、故に嫌な気分である。

即非の論理にしてみる。

誰かが大きな声を出して怒鳴った。

ビックリしてお腹の辺りがキューって緊張したその瞬間。

お腹が緊張したは、お腹が緊張したではない、故にお腹が緊張したである。

即非の論理にしてみる。

全てが全く分からないと分かれば安心

全ての言葉の意味が一度壊れる。

そしてその上で肯定される。

そこでやっと感覚、論理の世界を超えた霊性的世界に、少しだけふれることができるようになる。

般若の智慧

即非の論理

AはAではない故にAである

否定して即肯定する

両方あって

両方ない

どっちにもいける

自由自在

絶対安心の世界というのは

全てが全く分からない世界なんだ

全てが全く分からないということが分かれば

安心できる

というか、安心するより他ない

分かるものと分からないもの

二つあるから不安になるんだよ

一つしかないんだよ

分からないしかない

そうなったところで安心できるんだ

安心は安心に非ず、故に安心である。

不安は不安に非ず、故に不安である。

黒田明彦