親鸞に会いに行く道

私という1人の中に、時間と空間を超えた全ての人間が詰まっている【親鸞に会いに行く道vol.9】の補足解説

なぜ、こんなにも私は救われないのか?

その答えは、人間は、時間と空間を超えて、全ての人間が救われない限り救われないから、なのかもしれません。

難儀ですな。

今回は、だいぶ私の感覚を親鸞に投影した結果になりました。

あらためて、親鸞に会いに行こうとすることで、救われたがってる私です。

どうぞご覧ください。

まずはこちらの動画をご覧ください

私という1人の中に、時間と空間を超えた全ての人間が詰まっている【親鸞に会いに行く道vol.9】

それでは、今回も補足解説していきます。

仏教や親鸞によって救われたい私

今回も親鸞に出会う道ということで、語っていこうと思います。

今日は親鸞が信じた仏様のことについて、ちょっと私が感じたところを自由に話していこうと思います。

私はお坊さんや学者ではありません。

これから語ることは、あくまで、親鸞や仏教によって救われたがっている独りの人間の語ることとして、受け止めていただきたいと思います。

それではよろしくお願いいたします。

親鸞が仏に出会うまで

親鸞は、小さな頃にお父さんとお母さんを亡くされました。

そしてすごく若いとき、もう9歳ぐらいのときには仏教の修行に入りました。

9歳のときの修行に入る直前の親鸞が、その時すでに立派な問答をしたと残っていますから、親鸞は幼い頃から相当聡明で仏縁のある人だったみたいですね。

このように親鸞は10代になる前から、その当時の正統派仏教の修行を始めました。

そして、20年ぐらい比叡山という山の中で、多くのお坊さんたちと一緒に修行を続けました。

救われなかった親鸞

しかし、親鸞はどんなに修行をしても、救われなかったんですね。

全く救われない。

どんなに修行しても、どんなにお経を読んでも救われない。

なんて自分は罪深い人間なんだぁって、親鸞は悩み、迷い、苦しみました。

当時の比叡山の中で、当たり前のように信じられたもの、そして、信じなきゃいけなかったもの。

それをどんなに信じようとしても救われなかった親鸞が、まずあったわけですね。

法然との出会い

迷いに迷った親鸞は、もう絶望しながら、救いを求めました。

もう、当時の親鸞にしてみれば、まさに生きるか死ぬかの心境だったに違いありません。

迷い嘆き、苦しみながら、救いを求めてさまよっていたそのときに、親鸞は、生涯の師となる、法然と出会うわけです。

法然は知恵第一と言われるような、とにかく頭の良い人だったみたいです。

その人が、いわゆる当時の正統派仏教とは違う仏教の教えを京都の町で広めていた。

その法然の説法を聞いて、親鸞は、この教えなら救われるかもしれないと希望を見出すことができたわけです。

そして、親鸞は20年間修業を続けた比叡山の山から下りて、法然の弟子になって、法然のもとで暮らしていくことになるのでした。

法然の教え

法然の教えは浄土宗と言われる仏教の教えです。

浄土宗は、学校の歴史の教科書レベルでは、南無阿弥陀仏とさえ唱えれば、仏さまに救いとられて、死んだ後の絶対の幸福が約束されますよっていうように説明されていますね。

親鸞はこの法然の教えを突き詰めていって、後に浄土真宗の開祖と言われるような状況になっていくわけです。

親鸞は、特に南無阿弥陀仏のミソは、死んでからではなく、生きているうちに救われることであるということを強調していました。

どうして、南無阿弥陀仏と言うだけで、生きているうちに救われるのかということは、なかなかに大変な信心の世界があるようです。

私もまだまだ難しいなぁと思いながら、色々本を読んでいるところです。

親鸞が、浄土宗に救われた理由

とりあえず今は、南無阿弥陀仏のところは置いておいて、私が今回、特に興味をもっているというか、語りたくなっているところ。

なんか親鸞に感じるものがあるなぁっていうところは、親鸞が、なぜ、法然の浄土宗なら自分は救われるかもしれないと思ったか、なのです。

親鸞の仏教感というか、救われるという感覚というかを私なりに感じているわけですね。

全ての人が救われなければ意味がない

私は親鸞にとって、仏教というものは、全ての人たちが救われなきゃ意味がないものではなかったのではないかと思うわけです。

  • 自分ほど罪深い人間はいない。
  • 自分ほど愚かで、どうしようもない人間はいない。
  • 自分は地獄にしか行き場がないような人間だ。

親鸞は本気で、そう自覚しています。

そしてついに親鸞は、そんな自分ですら救ってくれる仏様に出会うことができたわけです。

全ての人間を救う阿弥陀様

浄土宗で信じられている仏様は、阿弥陀様という名前の仏様です。

阿弥陀っていうのは、言葉の意味としては無限の光、無限の生命っていう意味なんですね。

その阿弥陀という仏様は、

「私の名前を呼んでくれさえすれば、生きとし生けるものを必ず救うぞ。」

そういう願いをかけた上で、尋常じゃないほどの長い間修行をして仏様になったんですね。

私の名前を呼んでくれさえすれば、生きとし生けるものを必ず救う。

そんなめちゃくちゃすごい願いを持った上で仏様になった、阿弥陀様。

それだからこそ親鸞は、自分でも救われると思えたわけです。

私は、ここが大事なところだと思うわけです。

親鸞の罪の意識が1人分には思えない

親鸞は、全てのものを救ってくれる仏様でなければ、自分は救われないと思ったわけですよ。

親鸞自身の罪の意識、自分自身の愚かさの自覚は、とにかく、とてつもなく強いわけです。

この親鸞の自覚は、私の感覚ではあまりにも強すぎるんですよね。

この親鸞の罪の意識、愚かさの自覚、そしてそこから生まれる強烈な慈悲を願う心は、どうも私には親鸞1人分には思えないんですよね。

救いようのない時代を生きた親鸞

親鸞の生きた鎌倉時代は、平均寿命が30歳前後だっという話もあります。

もう本当に理不尽な理由で、本当にどうにもならないような理由でバッタバタ人が死んでいくのが当たり前のような時代。

誰も彼もが救いようがないような時代。

そんな中で、本当にいろんな、言葉は悪いかもしれませんが、かわいそうな人たちが、すごくたくさんいたと思うわけです。

そこで私は思うんですけど、親鸞はそういうかわいそうな人たちが、他人ごとにならなかったのではないかと思うんですよね。

仏教はなにも救ってくれない

山の上の仏教は、親鸞自身を含め、そのどうにもならないほどのかわいそうな庶民をまったく救ってくれるものではなかった。

当時の正統派仏教は、厳しい修行をして、難しい学問をしなければ救われないというものでしたから、生きるため、生活の為に日々奔走しなくてはならない庶民が救われるようなものでは全然なかった。

私は、親鸞の言う、「罪深き、愚かな自分」というものの中に…、

とにかく途方もなく大きな慈悲でなければ、救われようのない自分というものの中に…、

実は親鸞に見えている、聞こえている、感じている、全ての人間が入っていたんじゃないかと思うんですよ。

親鸞1人がため

後に親鸞は、阿弥陀様の救いっていうのは、ただ親鸞1人のためのものだったという、なんとも意味深いことを言っています。

その親鸞1人のためだったんだっていう、その「親鸞1人」の中に、時間と空間を超えた、全ての人間が詰まっているんじゃないか、と私は思うんですよ。

だから、とにかく親鸞は、全ての人間が救われなければ、親鸞自身が救われないという人だったのではないか?と思うのです。

親鸞のもっている罪の意識、その深さっていうのは、親鸞を超えて、親鸞から始まる全て、いや、親鸞が始まる前の全ての人間すらも包み込んでいる。

だから、親鸞は救われない。

その感覚はもう、

全ての人間を仏にできなければ、私は仏にはならないっていう願いのもとに仏様になった阿弥陀様とピッタリとリンクしますよね。

全ての人間が救われない限り人間は救われない

私は、親鸞から強く深く、どうしようもないほどの悲しみにまみれた強い感受性を感じるんです。

親鸞1人では、絶対に救われない。

自分にどんなに幸福感があったとしても、自分の目に辛い人が1人でも映ってしまったら、救われなかった親鸞なんじゃないかと思うんですよ。

苦しい人が見えたら、苦しくなっちゃう。

悲しい人が聞こえたら、悲しくなっちゃう。

だからどうしても救われない。

そんな親鸞だったんじゃないかな。

だからこそ、全ての人を救うぞって仏様になった阿弥陀様の教えだけが、親鸞を導くことができた。

救われない私を思う

ここまで語って、だいぶ親鸞に自分自身を重ねているなぁと思います。

私に知恵や知識が身に着く前の頃、人間になる前の人間と言うか、宇宙に近い頃の人間だったころ…。

まぁ、要は私が小さな頃ですが、私には、誰か悲しんでいる人がいては、私が救われないというようなはたらきが、当たり前のようにあったように思うわけです。

だけど、私が大きくなるにつれ、人間になるにつれ、その悲しみが耐えられなくなってしまった。

そして、自分と他人は別だって、バシバシッと上手に切るような知恵をつけて、ここまでなんとか生きてくることができたわけです。

目に映る人が苦しければ私が苦しいし、耳に聞こえる人が悲しければ私が悲しい。

それは基本的には今も変わらないのだと思います。

だけど、相手のことは自分ではどうしようもできない。

だから、ズバッとそこを切ってね。

ないようにする、みたいな。

私はそんな知恵をつけてきました。

私1人に全ての人間が詰まっている、まとめ

実際人間ってのは、全ての人間が救われなければ救われない存在なのかもしれません。

だけど全ての人間が救われるなんてことは、ほとんどないから、ずっと救われない。

そんな悲しい存在。

だって、人は人を殺すし、人は人を傷つける。

もし、今の私が善人を演じることができているのだとしても、それはたまたまに過ぎない。

そんな絶対に救われないのが人間だからこそ、

「私の名前さえ呼んでくれれば、お前を絶対に、絶対に救うぞ!」

っていう仏様が生まれてくれたんだよ。

そしてそれを信じることで、絶対に救われない人間のままに救われていける。

なんかそんな世界がどうもありそうだと、いうことですね。

空淡 黒田明彦