仏様というと、やはり直観的に仏像を思い描いてしまう人が多いと思いますが、基本的に仏様には、色も形もありません。
しかし、色も形もないままでは、我々庶民を救えませんから、仏様は様々な色や形をもって、私たちの前に現れて、私たちを救ってくれるわけです。
仏様は、具体的に、私たちにどんな姿で現れてくれているのか?
実は、それが、言葉なんです。
仏様とは、言葉の働きそのものです。
そんなの信じられないでしょ?
なぜそれが信じられないかというと、多くの人間が、自分の声になった言葉の本当の働きを知らないままに、言葉を使っているからなんです。
まずはこちらの動画をどうぞ
本当の言葉の働きに出会った瞬間が仏に出会った瞬間【親鸞に会いに行く道vol.15】
それでは、補足解説をご覧ください。
言葉になった仏様の教え
今回も親鸞に会う道ということで語っていきたいと思いますが、今回は、仏に会う道ということでちょっと語ってみようかと思います。
親鸞の浄土真宗は、阿弥陀仏という仏様を信じて、南無阿弥陀仏と称えることで救われていくっていう教えです。
南無阿弥陀仏と称えるだけで、なぜ救われていくのかというのは、なかなかに深い話になっていきます。
なかなか説明されて、それを聞いただけで、理解、納得していくということは難しいだろうなぁと思うわけです。
それは、ある人にとっては、物質なんかよりも確かな実在であっても、ある人にとってはただの御伽話となってしまうことでしょう。
阿弥陀仏は、全ての人間を救う
親鸞の信じた仏様、阿弥陀様というのは、阿弥陀仏の名前を呼んだ者、つまり、南無阿弥陀仏と称えた者、その人たちを必ず救うと約束して仏様になった存在です。
阿弥陀様は、とにかく南無阿弥陀仏と称えた者は、どんな者でも、必ず救うというのです。
不思議ですよね。
どうやって?どういう理屈で?と首を傾げてしまいますよね。
南無阿弥陀仏は、阿弥陀様の呼び声
南無阿弥陀仏と称えた者を全て必ず救う。
南無阿弥陀仏というのは、仏様の名前を讃えますという意味の言葉です。
そしてそれは、深い宗教体験、霊的体験のところでは、仏様側から私を呼び続けてくれている声の象徴とも言えます。
南無阿弥陀仏は仏様から私に届けられた言葉である。
私が南無阿弥陀仏と声にできるということは、どこからか、私の耳に、まず南無阿弥陀仏が聞こえてきているということです。
言葉が私の声になるということは、私の声になるその直前に、まず言葉がどこからか聞こえているということです。
つまり語るということは、聞こえているものを声にすることである、と言えます。
まず仏様側からの声があって、私が南無阿弥陀仏と言うことで、私がその仏様の声に、私の声で応えている。
そんな感じです。
全ての言葉は仏様の力によって届いてくる
南無阿弥陀仏だけではなくて、私に聞こえる全ての言葉、つまり私が声にできている全ての言葉は、私が自力で、私の計らいで生み出し、操っているわけではありません。
言葉というものは、仏様の力(宇宙の働き)が私のところで具現化している姿であると言えるのです。
仏様=阿弥陀様=宇宙の働き=大慈悲
仏様、阿弥陀様は、どうやっても救われない、本当にどうにもならない人間である私を救うために、言葉になって私を救いに来てくれている。
ただ私の声になった言葉の働きによって私は救われていく。
言葉っていうのは人間の最後の救いなのである。
それを私に教えてくれてるのが、言葉は私の計らい、力を超えて、私を救いにやって来るという象徴である、南無阿弥陀仏である。
人間は最後には、言葉によって救われていく存在なんだよ。
私は現在のところ、そのように教えをいただいています。
言葉は仏様
阿弥陀様は、全ての人間を救うと約束してくれた仏様なんです。
阿弥陀様は慈悲の権化です。
そして、その慈悲の権化は言葉となって、私たちの前に現れてくれているのです。
ですから、私たちがこれまでずっと話してきた、聞いてきた言葉の全ては、阿弥陀様そのものであるとも言えます。
仏に救われる人と救われない人がいるのはなぜか?
阿弥陀様は全ての人間を救ってくれる仏様。
阿弥陀様は、言葉になって私を救いに来てくれている。
私は言葉によって救われていく。
…全ての人間は言葉によって救われていく?
ではなぜ、言葉によって救われる人と救われない人がいるのか?
南無阿弥陀仏を聞いたり、声にする人は、このご時世あまりいないでしょうけど、ほとんどの人間は、実際にいろんな言葉を聞き、声にして話すことができます。
しかし私には、言葉を聞き、言葉を語ることのできる人間と、救われている人間の数がイコールであるとは思えない。
言葉を聞き、言葉を語っている人間は、皆救われていく。
必ず救われる道にいる。
私にはどうもそうは思えないのです。
言葉に救われていない人間もいるのでは?という疑惑
というのもですね、人間の中には、自分で生命を断ってしまう人もいる。
その人だって、おそらく言葉を聞き、言葉を語ることができていたと思うからです。
言葉を聞き、言葉を語っていたにもかかわらず、それでも自ら死んでいってしまう。
きっと苦しみの中、死んでいったのだろうと想像してしまいます。
言葉が最後の救い。
言葉こそ仏様。
言葉は全て、私を救うためにやってくる。
それは、嘘なのでしょうか?
救われ始めるには、どうしても出会いが必要なんだ
人間が、言葉に救われるためには、つまり、仏様に救われるためには…。
結局のところ、出会いが必要なのだと思います。
どうも、ただ言葉を話し、ただ言葉を聞いているだけでは、仏様に出会ったことにはなっていないようです。
- 言葉というのは、自分の力で生み出しているのではなさそうだぞ?
- 思えば言葉っていうのは、いつもどこからか届いて来ている感じがするなぁ。
- 自分の意思で言葉なんて生み出せてないよなぁ。
- 言葉は言葉が語るんだなぁ…。
いつかどこかで、このような深い言葉の味わいに、実際に体験的に出会うことができていなければ、言葉の救いに出会うことも、またないのでしょう。
仏はそれぞれの人間に生まれるもの
言葉の不思議な働きを目の当たりにし、自分なりにその理解を深めていかざるを得ないような、そんな衝撃的な出会いがなければ、言葉によって救われていくこともない。
仏様っていうのは、客観的に存在する何かではなくて、それぞれの人の中に、生まれていくもの。
それは、ひとりひとりの人間が出会い、ひとりひとりの人間の中に生まれていくものなのです。
だからもし、私のところに、仏様が実在したとしても、隣に座っている誰かさんの心の中にも、仏様が実在するとは限らない。
たとえその場で、同じ言葉を語り、同じ言葉を聞いていたとしてもです。
他力との出会いがなければ救いもない
他力(仏=宇宙の働き)との出会いがなければ、言葉によって救われることもない。
仏様は全ての人を救うために言葉になった、実際になっているんだけど、各人が、その仏様に出会えていなければ、つまり、自分の声になった言葉の本当の働きに出会えていなければ、苦しみのままに、死んでいってしまうこともある。
南無阿弥陀仏と言うことは、他力に出会う、仏様の力、宇宙の働き、自分の声になった言葉の本当の働きに出会った瞬間の象徴なんだと思います。
他力との出会いがなければ、仏様は実在しないのです。
私が仏に出会った瞬間のこと
仏様は言葉である。
言葉は仏様である。
そして全ての言葉は私をただ救うためにやってくる。
それを実感するためには、それを信じるためには、自分の声になった言葉の本当の働きに出会う必要があります。
それは、言葉の働きの深みに出会うということ。
それは、言葉の働きの不思議に出会うということ。
自分の言葉が自分を超えていることを感じられなければ、言葉が自分を救うなんてことはない。
私は今もなお、救われきれているわけではないですけど、不思議な言葉の働きに出会い、救いの瞬間を感じたことは何度もあります。
言葉は自分の力を超えてどこからかやって来る
私が感じたのは、言葉が自分の力を超えてどこからかやって来ているという感覚、体験。
そして、その自分の力を超えてやってきた言葉によって、救いの瞬間を感じたことがあります。
私が、自分の力を超えた自分の言葉にどこで出会えたかというと、それは、やっぱりカウンセリングの学習の中です。
言葉の相(すがた)のやりとり
カウンセリングの学習といっても、いろいろありますが、何が一番私に言葉の不思議な働きに出会わせてくれたかというと、やっぱり私の言葉の相(すがた)にふれてもらった体験です。
自分の語った、自分の声になった言葉には、相(すがた)がある。
その私の声になった言葉の相(すがた)を他の人が、私にもう一度聞かせてくれた時、その瞬間です。
言葉の相(すがた)とは、言葉の意味ではなく、言葉の姿・形そのものです。
リンゴなら、赤い甘酸っぱい果実である、などの意味ではなくて、リ、ン、ゴ、「リンゴ」という言葉の姿・形そのもの。
相(すがた)という文字は、実相という「物事の真実の姿」という仏教の言葉からとった文字とのことです。
言葉がその本来の働きを発揮するには、言葉の意味ではなく、言葉の相(すがた)のやり取りをする必要があるようです。
私の言葉の相(すがた)に、他の人に、そのままに触れてもらったその瞬間が、私にとって、
言葉の不思議に出会えた瞬間というか、
言葉が語りだした瞬間というか、
阿弥陀様に出会った瞬間だったのです。
私は、私が声にした言葉の相(すがた)を他の人が同じ言葉の相(すがた)で私に聞かせてくれたとき、言葉そのものが語りだすような不思議な体験をしたのです。
自分の声になった言葉の本当の働き
自分の声になった言葉の本当の働きとは、宇宙の働きそのものです。
宇宙の働きとは、慈悲そのものです。
そして、慈悲とは、そのものを、そのものたらしめる、実現傾向をもったエネルギーそのものなのではないでしょうか。
私は、私の声になった言葉の本当の働きによって、より安心な私になっていく。
それこそが救いなのでしょう。
仏に出会ったらあとは、ただ言葉に救われていくのみ。
仏に出会ってしまえば、自分の声になった言葉の本当の働きに出会ってしまえば、あとはもう自ずから(おのずから)歩き出す…。
救われないままに救われていく道を歩き出す。
ただ声になった言葉によって、何にも妨げられずに、救われていく道を歩き出す。
なんかそんなところはあるような気がするんですよ。
空淡 黒田明彦