「南無阿弥陀仏と声にするだけで救われる。」
そんなことを本気で信じられる現代人が果たしてどれくらいいるのでしょうか。
純粋無垢の小さな子供なら信じられるかもしれません。
しかし、残念ながら、仏の救いが必要なのは、子供ではなく、大人なんですよね。
今回は南無阿弥陀仏というだけで人間は救われていけるのかというところで語っていきたいと思います。
結論から言えば、南無阿弥陀仏と言うだけでは救われませんが、南無阿弥陀仏と言うだけで救われます。
ナンマンダブ
まずはこちらの動画をどうぞ
本当に南無阿弥陀仏で救われるんですかね?聞即信【親鸞に会いに行く道vol.11】
それでは動画の補足解説を語っていきます。
親鸞・浄土真宗・南無阿弥陀仏
今回も親鸞に会う道ということで語っていきます。
親鸞と言えば、浄土真宗。
そして浄土真宗と言えば、念仏。
念仏と言えば、南無阿弥陀仏ですよね。
浄土真宗は、南無阿弥陀仏と称えることで救われていくという教えです。
その南無阿弥陀仏についてちょっと語ってみようかと思います。
私はお坊さんでも学者でもないので、あくまで仏教を、浄土真宗を、我が身に引き当てることで、どうにかして救われていきたい1人の人間の語りとしてお聞きください。
南無阿弥陀仏で救われる
「南無阿弥陀仏と声に出して言えば救われますよ」と、言われたら簡単に感じますよね。
簡単すぎて、そんなこと誰も信じられないのではないでしょうか。
- 何で救われるか?
- 本当に救われるのか?
そういうことを本気で詰めていかないと、なかなか信じることなんてできないですよね。
どんな方法であれ、やはり人間が救われるということは、そうそう簡単なことではなさそうです。
救われる方法が簡単でも、それを信じて実行することは難しい。
南無阿弥陀仏と称えることは簡単でも、それで本当に救われていく自分に成るということはとても難しいということですね。
1回の南無阿弥陀仏で救われる
親鸞は一生のうちに1回でも南無阿弥陀仏を称えれば救われるっていう言い方をしているところもあります。
これは、浄土真宗が突き詰めていっているところでもありますね。
はたして、救われるっていうのはどういう状態なのか?
仏さまを信じるっていうのはどういう状態なのか?
これはまさに哲学の世界です。
私は南無阿弥陀仏と1回言いました。
だから、私は救われますよね?
だから、もう私の人生は幸せに満ち溢れるんですよね?
答えは、そうだとも言えるし、そうではないとも言える、です。
どうやら、そう単純な話ではなさそうです。
親鸞の念仏
親鸞は、南無阿弥陀仏と称えても、自分は躍り上がるような気持ちにもならないし、すぐに死んで浄土に行きたい、浄土楽しみだなぁって気持ちにはならないというふうなことも言っているように思いますし、
念仏(南無阿弥陀仏)を言おうと思い立った心が生まれた瞬間に、もう人間は救われているんだっていう言い方もしているように思います。
この辺りが難しいところですね。
両方本当なんです。
救われようのない人間のままに救われていくっていう感じと言いますかね。
浄土真宗における救いとは
浄土真宗において大事なところはやっぱり、
- 絶対他力
- 自力を捨て、仏様(阿弥陀様)の力を信じる
というところがあると思います。
仏様の力を徹底的に信じるということは、自力の放棄であるとも言えます。
苦しみの元は自我のはたらき
人間の苦しみの元は自我であると言えます。
私という感覚が強ければ強いほど、生きていて苦しみを感じやすい。
私という感覚が強ければ、喜びとか、興奮とか、そういう快な感情も感じやすいのかもしれません。
しかし、人間生きていたら、じっくりゆっくりと死に向かって行くのは事実です。
その事実を真正面から捉えると、やっぱり苦しみの方が勝ってしまうのではないでしょうか。
私という感覚が強ければ強いほど、死の恐怖やら死の苦しみも強まっていきます。
私という感覚から少しずつ離れていかない限りは、死にゆく身のことが、心のどこかでずっとずっとこわく、ずっとずっと苦しいままです。
生きているうちの、外的要因による幸せというのは、死の苦しみを和らげるというか、誤魔化すことはできるかもしれませんが、本質的には突破できません。
絶対他力は自我から距離をとるための思想
死の苦しみを突破し、少しでも穏やかなものにするには、私という捉え方、認識の仕方が超越していくというか、進化する必要があるのでしょう。
日々の死にゆく身、死にゆく私という恐怖と苦しみからはそう簡単には逃れられません。
絶対他力は自力の計らいを手放し、仏様の力、計らいに徹底的にお任せしていく思想です。
日々、自力、自分の力、自分の計らいを手放していく。
それは、私という自己中心的感覚・実感を薄くしていくための練習というか、そういう修行とも言えるでしょう。
全ては仏様の計らいである
私はすでに仏様の大いなる願いに掴まれている。
そういう存在であるということを信じるというよりも、疑えなくなること。
「もう、そうなんだ。」
「もともとそういう自分だったんだ。」
と、実感すること。
実感とは、もうそれそのものになってしまっているので、言葉で説明のしようのないような、また、説明する必要もないような感覚のことです。
自力の信心
仏様の力を信じると言っても、
「私は仏様に救われることを信じるぞ…。」
「一生懸命、がんばって信じます!」
っていうのは、自力の信心と言われるもので、非常に脆い信心です。
これは、ちょっとでも気分が変わったり、身体の調子、心の調子が悪くなっただけで、やっぱり仏様なんて信じられない、やっぱり死がこわいっていう感じで、グラグラ揺れてしまうようなものです。
「私が」仏様を絶対信じます、疑いません。
そうやって、どんなに熱意をもって宣言したところで、それは、自分の力、自分の意思、自分の計らいによる信心です。
親鸞はこれを否定しているというか、それは役に立ちませんよって言っています。
仏の計らい、絶対他力
人間の頭では計り知れないような、長い長い時間をかけて仏様(阿弥陀様)が、考えて考えて考えて、考え抜いて、「全ての人間を救うぞ」って願いをかけて、それを成就された。
この仏様の力、この仏様の計らいで私は救われるわけです。
それが絶対他力の思想です。
仏様の方から私を救ってくれると言ってくれている。
大事なのは、その1点だけなんです。
これは、私どうこうじゃなくて、仏様の意思なんですよ。
仏様にもらう信心
親鸞は、信心は仏様にもらうものだとも言っています。
仏さまが私を救うと呼び続けている。
ただその声が私に聞こえるかどうかが、信心であると。
聞即信とも言いますね。
「私が」私の力で、仏様の力を信じるのではなくて、
仏様からの呼び声が、ただ私に「聞こえた」となるかどうか。
それが信心だというわけです。
仏様の呼び声が南無阿弥陀仏
その仏様の呼び声が南無阿弥陀仏なわけです。
南無阿弥陀仏は仏様からの言葉です。
私の言葉ではなくて、仏様が私を呼ぶ言葉なのです。
ですから、南無阿弥陀仏が私の声になるということは、私の声で仏様の言葉に応じているということになります。
「聞こえていますよ、仏様」
「届いていますよ、仏様」
南無阿弥陀仏の音は、仏様の言葉を私の声で、反射している音であります。
大事なのは、どこからか私に言葉が届いてくるという実感。
その実感が得られた時に、
「あーそういうことだったんだな」と。
私の力を超えた何かが既に既に働いていたんだなという実感になるのでしょう。
私の計らいを超えた大いなる力。
「仏様の言葉が私に届き続けていたんだ。」
南無阿弥陀仏が私の声になったときに、今ここの、この私に、仏様の願いが届いたんだという実感になるかどうかというところが大事なんです。
無限の光、無限の生命に掬い取られる
宇宙から届く、無限の光、無限の生命。
その働きが私にも届いているんだっていうことを実感する。
私は既に既に、仏の光、仏の永遠の生命に包まれている。
その働きを実感することができるかどうか。
なんかそこが実感できたときには、もう、救われていくしかないっていう感じですね。
南無阿弥陀仏の瞬間
この私の身に、南無阿弥陀仏が届いている、仏様の言葉が届いている。
それが私の耳に聞こえるのが、自分の声で南無阿弥陀仏と言った瞬間なわけです。
それが聞こえたってことは、宇宙の働きが私にもあるということを体感することになります。
阿弥陀仏が私に呼びかけているという体感です。
南無阿弥陀仏と言うことで、自分を超えた大いなる力を感じるというか。
自分を超えた大いなる力にガシッと掴まれるような感覚。
救われるというのは、そこに行くことなんだろうなぁと思うわけです。
南無阿弥陀仏が救いとなる道
南無阿弥陀仏と日々声にすることを繰り返すのは、その感覚を忘れないようにするというか、日々味わっていくための修行でもあるような気がします。
いつも私は大いなる宇宙の力に包まれ、掴まれている。
そこに任せていくしかありようがない。
それを忘れないようにするための南無阿弥陀仏。
宇宙の計らい、仏の計らい、阿弥陀仏の計らいに包まれている私。
私の計らいではなくて、仏の計らいで生かされているって言うことを忘れない。
その心境になることそのものが、救いなんだろうなぁって気がするのです。
実は、そういう心境になると、死んだ後に自分が地獄に行くか、浄土に行くかはどっちでもよくなるようです。
この今、私は宇宙の大いなる働きに、ただ生かされているんだっていう実感が得られさえすれば、「私が」生きるとか、「私が」死ぬとかいう感覚も薄くなっていくという感じですかね。
私と南無阿弥陀仏
私は今、わりと抵抗なく南無阿弥陀仏って言葉を声にするようになっています。
それで私は救われたのか?っていうと、そんなことはありません。
南無阿弥陀仏と声にしても、それが宇宙からの大いなる働きかけだぁっていう確かな実感がまだ得られていないからです。
でも、いつかどこかでそんな実感が私の身におとずれるときが来るのかもしれません。
そしてそのときは、過去と今と未来が、南無阿弥陀仏でズバッと繋がって、最初の一回、南無阿弥陀仏と言ったあの瞬間に、私は既に救われていたんだという不思議に包まれるのではないでしょうか。
それこそが、南無阿弥陀仏の1つで私が救われていく瞬間ではないかと思うのです。
空淡 黒田明彦