「南無阿弥陀仏と言えば救われるよ。」
「仏様を信じれば救われるよ。」
このご時世、そんなこと言われて信じられる人なんていますかね?
結局、自分の力を超えた大いなる力を自覚した経験がなければ、そういうのって信じようがないと思うわけですよ。
というわけで今回は、どういう心持ち、言葉にふれていると、仏の世界(霊的世界)を感じやすくなれるかというところで書いてみました。
私としても、まだまだ熟してないままに語っている感はありますが、なにかしら伝わるものがあればと思うばっかりです。
よろしくどうぞ。
まずはこちらの動画をどうぞ
仏の世界(霊的世界)を感じてみたければ、徹底して思考を矛盾させよ【親鸞に会いに行く道vol.13】
それでは、補足解説していきますね。
霊的世界なんてそうそう信じられない
また、親鸞に会いに行く道ということで語っていこうと思います。
今回は、矛盾というところで語っていこうと思います。
親鸞と言えば浄土真宗。
浄土真宗と言えば、南無阿弥陀仏と称えることで、救われていこうという教えです。
なぜ、南無阿弥陀仏と称えることだけで救われていくのかというところは、浄土真宗の信心の根幹になる問題であり、なかなか一筋縄ではいきません。
南無阿弥陀仏を称えることで救われるということもそうですが、浄土真宗の教えの神髄というか、その根底に流れているのは、絶対他力という思想です。
ちなみに他力というのは、他の人間の力ということではなく、仏様(阿弥陀様)の力ということです。
絶対他力で救われる
絶対他力。
私は、仏様の願い、仏様の計らいによって生かされている。
その事実に目覚め、全てを仏様にお任せしていくという思想。
それは自分の力、自分の計らい、それを全く捨てさるというぐらいの迫力ある人間観であると私は受け取っています。
救いは、その自力と自分の計らいを徹底して離れたところにこそあります。
絶対他力は自覚するもの
自力を捨てさると表現していますが、それは事実を事実のままに自覚するということでもあります。
そもそも私というものは、自力で生まれてきているものではありません。
たとえばどんな発想も、どんな言葉も、自分の意志でさえ、自力で生みだせているわけではありません。
私を構成する全ての言葉は、向こう(宇宙の働き)からやって来ているものです。
全ては自分の力ではない。
大いなる力、宇宙の働き、それによって私は生かされているんだっていうことを徹底して自覚していくのが絶対他力の人間観だと思います。
しかし、たとえ不思議な力、自分を超えた力をある程度感じることができたとしても、全ては他力、全ては自分の力ではないのだと徹底することは、とても難しいことです。
絶対他力で救われ…ますか?
仏様に生かされている私。
宇宙の大いなる働きに生かされている私。
そう言われましても…、
「私、結構自分で頑張ってるし…。」
そういう思いが湧いてきて、全ては仏様の力であるなんてなかなか信じられるものでもありません。
「仏様の力?普通に考えてありえないでしょ。」とか、
「そんなもの科学的に証明できないでしょ。」とか、
そういう思考も邪魔をして、宇宙の働き、大いなる力に生かされている自分なんだということを腹の底から了解することは、やはり難しい。
特に現代人は、知識的なもの、科学的なものを根拠に、ものごとの考え方を組み立てるのが、当たり前になりすぎているところがあると思います。
それによって科学とか論理を超えているものを信じていくことは、ほとんど不可能になってしまっているのではないでしょうか。
謎の不安や不満足を解消したくはないか?
別に科学や論理の範囲内で、この不可思議な人生経験の理解が十分であるというのであれば、特に言うことはありません。
しかし、なんかそれじゃ物足りないと言うか…。
なぜかいつも不安を感じていたりとか…。
なんでこんなに満足できないんだろうと不思議だったりとか…。
どこかなにか足りないような気がするみたいな感覚はないでしょうか?
人生の目的を探したくなったり、本当の自分を探したくなる動機にもなるような、なんか変だ、どこか足りない、どこか満足できない。
多くの人が満足しているような人生の目的みたいのでは、どうも自分は満足できそうもない。
そういう人に必要なのが、知的世界、感覚・感性の世界の奥にある、霊的世界だと思うわけです。
仏を信じるとは、霊的世界の体験
仏を信じる、宇宙の大いなる働きを信じる(自覚する)ということは、この霊的世界での出来事であると私は思っています。
霊的世界における体験ができて人間は初めて、人生において、本当の意味でホッとできるという感じです。
私は、人間とは、真実・真理みたいなものを追い求めたり、それを瞬間的にでも感じられた時に、満足する生き物なのだと思うのです。
逆から言えば、人間は真実・真理につねに、呼ばれ続けているわけです。
現代では、なかなか科学やら論理に邪魔をされて、その呼び声は小さくしか聞こえないかもしれませんが。
何か大いなる、自分を超えた、人間を超えた、どうにもならない、自分の計らいを超えた何かに呼ばれているような感覚。
そこに目覚めていきたい。
というよりも、目覚めていかざるをえないような働きがある。
そういうものを薄々と感じている人というのが、世の中には、いるような気がするんですよね。
どうしたら霊的世界にふれることができるのか?
知識の世界、そして感覚・感性の世界。
そして、その奥にある、霊的世界。
この霊的世界に触れられなければ、本当の安心は得られない。
しかし、まぁ、実際にその霊的世界に自分で触れた経験が一度もないのであれば、その世界の存在を認め、信じることは不可能でしょう。
信じるのが先ではありません。
触れるのが先なのです。
そうなると、どうしたら霊的世界に触れることができるのか?というのは、1つの大きなテーマですよね。
必要なのは矛盾思考
ところで、知識の世界はもちろんそうですが、知識の世界・科学の世界に入り浸っている現代人の感覚・感性の世界も、実は結構に論理的(分別的)であって、一貫性に満ちています。
そんな現代人が、もし、今よりも深いというか、今よりも、より真理・真実を求めて、自分の精神性を伸ばしていこうとするのであれば…。
つまりは、霊的世界に少しでも触れて生きたいと願うのであれば…。
実は大事になってくるのは、「矛盾」なんですよね。
人間は分けることで理解していく生き物
人間の自我。
分別の能力。
全てを分け隔てて、自分と他をどんどんどんどん分けていく強烈な働き。
人間は、とにかく分けることで物事を理解していく生き物です。
AとBはここが違うっていうことで、AとBが分かれる。
そしてAをAとして、BをBとして理解していく。
それは自分っていうものの理解もそうですし、相手っていうものの理解もそうですし、宇宙っていうものの理解もそうです。
分けて、分けて、分けて、分けていくことで理解していく、それが人間。
霊的世界のあるところ?
霊的世界というのは、その分け隔てられた世界、自我の世界の外にあると、とりあえず考えてみます。
まぁ、より正確に言うと、外にあって外にない、内にあって内にないという感じなんですが、そのあたりは上手く説明できません。
ともかく、その霊的世界が、この分け隔てる世界・自我の世界に支配されている私を呼んでいるのは確かなわけです。
そして、その霊的世界の呼びかけを感じたり、その呼びかけに応じようとするのに、大事なことの1つが、矛盾を常とする柔軟な思考なのです。
それは日常のわかりやすい、わかりきってしまっている論理(分別思考)を丁寧に破壊していくというか、手放していくような発想とも言えるかもしれません。
科学的思考やら、論理的思考によって、理路整然と整理された思考では、霊的世界にふれることはとても難しいのです。
霊的世界は全てが分かれていない世界
霊的世界っていうのは、全てが分かれていない世界、分かれる前の世界です。
そこは、2の存在しない世界。
2が存在しないから、1という概念すら存在しない、完全平等世界。
その世界に、この分別智・自我の世界の側から触ることはできないのかもしれません。
きっと私にできることは、霊的世界側からの呼びかけに応じることのみなのでしょう。
論理の否定が鍵となる
ものが分かれる前の世界、無分別の霊的世界からの呼びかけに応じやすい身になるためには、論理的矛盾思考というのが、どうしても必要になってくるわけですね。
自分の精神をより一歩不思議な世界にもっていくのに大事なことっていうのは、完成されたかのように思い込んでいる、知的ロジックをことごとく破壊していくことである。
それはつまり、論理そのものを否定していくってことなんですよね。
鈴木大拙の即非の論理
まぁこの辺りは、私も感覚的にほんの少しだけ触れている程度なので、うまく説明できる気はさらさらないのですが…。
私が今、親鸞の思想に並んで影響を受けている思想が、鈴木大拙の思想です。
鈴木大拙は世界的に活躍した、禅のすごい人ですが、親鸞の浄土真宗にも深い独自的な理解を示している人ですね。
さて、その鈴木大拙が即非の論理と呼んでいるものを紹介してみますね。
普通の論理っていうのは、
AはBでないからAである。
AはAであるからBではない。
AとBが分かれることでAというのが成立していくのが当たり前の論理ですよね。
さて、即非の論理では、これがどうなるか?
AはAでないからAである。
これです。
AはAではないという理由でAである、というわけです。
無茶苦茶でしょ。
全く論理が通ってない。
そこがミソなのです。
即非の論理は無分別思考の練習
今ある科学的・知的論理、つまり分別智というものをベースに持った感性では、霊的世界に触れていくのは難しい。
霊的世界とは無分別の世界です。
だから、今ある当たり前の論理を壊したところにある、無分別の感性を宿した言葉こそが霊的世界の呼びかけに応じうる。
そのような無分別の感性を宿す言葉に出会うためには、論理そのものを否定していくような心持ち・発想が必要になるということですね。
その無分別思考の一番シンプルな形、それが、
「私は私でないから私である。」
この絶対矛盾思考での自己同一なのです。
あなたはあなたじゃないからあなたである。
宇宙は宇宙じゃないから宇宙である。
喜びは喜びじゃないから喜びである。
悲しみは悲しみじゃないから悲しみである。
なんか、こんなふうにやっていくと、今、自分でわかっていると思い込んでいることが、1こずつ破壊されていく感じがしないでしょうか。
自分で(おのずからでしょうが)分け隔てた言葉の世界を一度、否定して壊してみる。
その上で、もう一度肯定する。
まずは、ないと言ってみる。
そして、そのあとであらためて、あると言ってみる。
それはないんです。
だけど、それはあるんです。
なんか不思議でしょ?
わかっているものなど何一つないのだと気づけるどうか
こうやって、あると思っていたものが、なくなってしまうと、新しい世界が見えてきたり、感じたりできる余地が生まれます。
本気で突き詰めていくと、今、わかっているものがなにもなくなる感じ。
ことごとく、なにもかもがわからなくなっていく感じ。
だけど、そのなにもかもがわからない感じにも関わらず、今日も普通に生きてもいる。
この矛盾を常としているとき、永遠の一瞬とか、路傍の石に宇宙が詰まっているとかという偉大な先人の言葉に、論理的ではなく、霊的に関わることができるようになるわけです。
そういう心境に常に身を置いていれば、自分(自我)を捨て去るとか、仏を信じるとか、生かされている自分に出会っていくとか…。
そういうような、霊的な経験に飛び込むことができるような気がするんですよね。
自分の今持ってる知識やら、感性の全てを矛盾させてみると、今もってる分別智、今もってる自我を超えやすくなる。
そういう感覚はあると思ってもいいのかなって感じですね。
矛盾を遊んでみるところからやってみて
「AはAでないからAである。」
言葉遊びだと思ってやってみてもいいかもしれません。
ちょっとしたはずみで、今自分が、自覚なく信じ込んでいるものを疑うことができてしまったりして…。
そしたら、より深いところから聞こえてきている、大いなる力の働きにあなたも目覚めてしまうかもしれませんよ。
空淡 黒田明彦