第三の目でこの世界を眺めれば、全ての人生はフィクションであると言える。
人生を物語だとわかった上で、やれる限りのことをやっていくということが、安心の秘訣なのかもしれません。
現実を誤魔化すのがとても嫌な私でしたが、その現実こそが誤魔化しだという視点に立ってしまったら、より確かなものを求めていくしかなくなってしまった。
なんかそんな感じです。
まずはこちらの動画をどうぞ。
「不生」を生きる安心。全ての人生はフィクションである。 – YouTube
それでは、こちらでは文字で語っていきます。
不生と安心
こんにちは黒田明彦です。
今日も安心について語っていこうと思います。
人生における安心の方法はいろいろあると思いますが、
私の基本的な考えでは、この自分「自我」っていう感覚が弱くなれば弱くなるほど、「自分」というものの出番がなくなればなくなるほど、不安はなくなっていくものであると思っています。
基本的には仏教、「禅」や浄土真宗の教えから学びながら、なんとか本当の安心、絶対安心を得たいなぁと思っているわけです。
さて、今回の話は「不生」という話です。
盤珪の不生禅
仏教には不生不滅という考え方があります。
また、日本にいた「禅」のお坊さんに盤珪という人がいました。
この人の禅は、不生禅と言われていて、「不生」という言葉で、最初に禅的な法を説いた人です。
盤珪さんの思想は詳しくはわからないのですが、私なりにその「不生」のいただきようがありますので、今回はそこのところを語っていこうと思います。
世界は言葉で満ちている
カウンセリングの学習をしていた時に、先生によく聞かせていただいた言葉に、
「世界は言葉で満ち溢れている」
というものがありました。
言葉がなければものはないし、言葉がなければ生命もない。
すべては言葉でできている。
そんなふうに聞かせてもらい、なんだか不思議な気持ちになったことをよく覚えています。
しかし、私はなんか、そこでは納得がいかない感じがあったんですよね。
言葉によって苦しむ
世界は言葉でできている。
それは、事実なんだろうというのはなんとなくわかりました。
だけど、なんだか、それだけではこの私は救われない。
全ては言葉でできている。
世界は、宇宙は、言葉で満ち溢れてると言っても、その言葉が私を責めてくるじゃないですかと。
その言葉によって、私は苦しんでるじゃないですかと。
別に言葉が宇宙を満たしていると聞いても、私にとっては救いがないよ…みたいな感じだったわけです。
認識=言葉=私=人間
全ては言葉でできている。
言葉がなければ何も「もの」が存在できない。
これはつまりどういうことかというと、ものが言葉になるということは、ものが人間の認識になるということです。
すべてのものは、認識によって存在できるようになる。
認識がなければ、ものは存在できない。
認識されるから、ものはある。
そして、その認識は何によっておこなわれるかというと、言葉によっておこなわれる。
言葉以外で人間は、ものを認識できない。
これは一つの事実です。
だから認識=私であり、自我であり、人間であると。
私は以前からそんなふうに考えていました。
壁になってみればわかる不生
ここのところ、第三の目の話を結構していますが、
私が第三の目にふれるきっかけとなったのは、鈴木大拙の本の中に出てきた「もの」そのものになる体験という言葉です。
私はいつも、壁に向かって坐禅をしていましたから「よしそれでは、ひとつ壁になってみよう」と考えて、壁に感情移入をしてみたのがきっかけでした。
壁には認識がない
壁というのには認識がない。
壁は自分を壁とも認識してないし、壁は自分を自分だとも認識していない。
壁には確かな働きがある。
しかし、壁はその自分の働きすら認識していない。
壁と私は同じである
そうやって、壁になってみた結果、ふと感じたのが、壁と私って同じだなっていう感覚なんです。
私が私と言う時の私と、私が壁と言う時の壁っていうのは一緒だなって。
そこから、私にも認識がないのかもしれないという不思議な考えが浮かんだのが最初なんですよね。
壁は死なない
壁は自分が生きているなんて思っていない。
壁は自分が生まれたなんて思ってない。
だから壁は「不生」である。
壁は、生まれてないから死にもしない。
認識がないというのはそういうことです。
壁は認識も言葉も持たないから、生まれていない。
したがって死にもしない
ただ、存在している。
これが「不生」なんです。
不生不滅
認識のない存在。
存在も認識できない存在。
それが「不生」。
不生だから不滅。
生まれてないものは、死なない。
生まれるも、死ぬも、存在も、無も、言葉であり、認識です。
認識は、人間の世界にしかない。
生まれるも死ぬも存在も無も、全部、認識、人間の世界の言葉でしかない。
その人間の世界から一歩引いて、眺めることができる目が、第三の目なわけです。
全ては(宇宙は)不生である
第三の目から見れば、全ての人間、全ての生き物、全ての事象は「不生」です。
宇宙そのものも本来、不生。
だから、宇宙はないと言っても過言ではない。
宇宙だって人間の世界の言葉、認識ですからね。
だけど、宇宙と言葉にして言ってしまえば、それはもう不生ではなくなってしまう。
生まれたものは滅びる
認識になったものは、生まれてしまったもの。
宇宙は生まれてしまったら、いつかは滅びることになる。
宇宙と言う前。
認識以前の何か。
自分を自分と認識しない何か。
そこが、不生。
それが第三の目の視点。
認識以前を見る目。
生まれる以前を見る目。
ものが分かれて行く前を見る目。
この第三の目から見れば、全てのものは不生である。
生まれてもいないものは、死にもしない。
ただ一つのものとしてある。
人生はフィクションである
認識の世界は、全て人間界の言葉である。
人生は、認識の描く物語に過ぎない。
私というものも、私という言葉があるだけで、実際は存在しない不生のもの。
生まれていない。
私は私だと思い込んでいる。
私は唯一の何かであり、なくしてはいけない何かというふうに思い込んでいる。
それはただの物語に過ぎない。
私は生まれてもいない。
だから滅することもない
有無を超えた「有」があり、有無を超えた「無」がある。
それが不生。
虚偽の物語
今のこの現実っていうのは、虚偽の物語。
夢のようなもの。
すべて人間の言葉でつくられた物語。
人間の認識によって生まれている物語。
だけどそれは、決して最後の世界ではない。
その物語の世界を超えた世界というのがある。
その世界を捉える言葉の一つが、不生である。
なんかそういう感じですね。
安心の世界
不安のない世界。
安心の世界。
不安も安心もない世界
全ては完璧に整っている。
人間があーだこーだ言う前の世界。
そここそ絶対安心の世界。
物語から覚めても現実はそこにある
全ての人生はフィクションである。
なんとも生々しくて、現実感があるけれど。
世界は私という言葉、認識が生んでいる、幻。
私で言えばいつの間にか、認識が黒田明彦を演じていた。
演じていたなんて認識はないんですけどね。
でも、大きな視点から見たらそういうことになる。
たとえば自分の人生が、うまくいってないって感じて、どうしようもない絶望感に包まれてしまったとしても。
それはある一つの物語であり、フィクションであるという視点に立てると、少し楽になるかもしれないですよね。
不生は真理を現わそうとする一つの考え方に過ぎないかもしれませんが、
そういうふうに、「私」という捉え方が、いろんな角度から見られるようになると、少し物の見方が変わって、安心できるのではないか、という話でした。
人生は「私」中心でなければなくなるほど精神的に実り多きものになる。
安心の道というのは、自分よりも大きな精神にいかに触れ、いかに抱かれていくか、同化していくかっていう事なんだと思うのです。
安心は安心に非ず、故に安心である
不安は不安に非ず、故に不安である
黒田明彦でした。