自己肯定とは、自分を肯定すること。
いたずらに自分を否定しないこと。
自己肯定の源は何か。
それは怒りのエネルギーなんだ。
怒りのエネルギーが怒りのエネルギーとして表出できないから自己否定に変わる。
怒りの感情が解離して、自分のものとして感じられなくなっているとき、自己否定でエネルギーバランスを取るのは身体の合理的なはたらきなんだ。
今回は、怒りの肯定・破壊の肯定ができれば、自己肯定ができるということで書いていく。
自己否定に苦しんでいる優しい君は読んでみてほしい。
怒りとは、何か

怒りとは、何か。
エネルギーの源泉、自己を積極的・自動的に保護する力、そして、破壊の源。
自己否定感が強い人は、ある意味、もともと自己の強い人なのかもしれない。
怒りのエネルギーに頼らなくても生きていられるのだから。
自己否定感が強くて苦しい。
自己肯定感の強い人になりたい。
それならば、怒りを受容、開放せよ。
怒りを頼れ、破壊を肯定せよ。
怒りを肯定するとは、
「怒りこそ私!」
そんな迫力で怒りと融合することである。
私は怒るときもある・・・ではまだ弱い。
「怒りこそ私!」
「怒っている時こそ、私はエネルギーに満ちている。」
そうなってくると強い。
怒らせてくれた相手に感謝の念すら湧く。
自己否定は、怒りに頼らない自己保存術

自己否定は、怒りに頼らない自己保存術。
人間は怒りになれないとき、自己を否定することで自己の存在を確かめていく。
怒るのがこわいのは

なぜ怒るのがこわいのか。
それは、その先に必ずおとずれる破壊がこわいからだ。
破壊者になりたくないからだ。
だから、自己を否定する。
自己否定とは破壊者にならなくてすむ、破壊行為である。
破壊を望んでいることを受け入れられない

望んでいるのは現状の破壊だ。
しかし、破壊そのものが受け入れられない。
受け入れられるはずもない。
それは危ないことだと感じ、そう教えられてきてもいるからだ。
「怒りは悪だ。」
「破壊は悪だ。」
誰に教えれらたことだ?
どこで学んだ?
「上手に怒れたね。」
そんな褒め文句を私は聞いたことがない。
私たちは怒りの抑圧の文化を生きている。
文化を超えよ。
怒りを解放せよ。
怒りの先にある破壊を許容せよ。
破壊の否定を破壊せよ。
破壊の拒絶を破壊せよ。
それが、真実の自己受容の始まりだ。
誰よりも破壊的な人は、誰よりも自己受容的

誰よりも破壊的な人は、誰よりも自己受容的であるとも言える。
自分本位の破壊が許せないということは、自分よりも、自分じゃないものを大事にしているということだ。
怒りの抑圧は暴力を増やす

自分の怒りが解放できないと、相手の怒りが一方的な暴力に感じられる。
怒りが解離している人にとっては、解離している自分の怒りを触発されること(誰かに怒られることや、誰かの怒りを見ること)は恐怖であり、自分が怒ることは、自己の死を意味するといっても過言ではない。
その人にとって、「怒り」は信じられないほどに、とてもつもなく悪いことに感じられる。
そんなものを許せるわけがない。
認知できないエネルギー、自分のものではない何かが勝手に膨張し、身を焼く。
眠れなくなったり、胃がおかしくなったり、身体が重くなったり。
それは実際に身に起こることだ。
そんな私にした相手(私に怒りを向けた相手)を許せるわけがない。
そんな相手に私が何をするかはわからない。
危ないのは怒りの解放そのものではなく、解離している怒りの触発であり、解離したままの怒りの暴走なんだ。
しかし、怒りが解離しているときは、それに気づきようがない。
破壊の受容

破壊が受容できないと、自分にとって不利益な関係、不快な関係を一生懸命、守ることになる。
破壊が許されないと、自分が何をしたいかなんてすぐにわからなくなる。
破壊を受容できた人間は強い。
自己否定の必要もなくなる。
望む破壊と、望まぬ破壊

破壊が受容できると、望む破壊と望まぬ破壊の区別がついてくる。
破壊が受容できないと、望む破壊を感じられない。
自分がどうしたいかを感じられなくなっていく。
破壊は変える力

破壊っていうのは変える力なんだよ。
変える力のネガティブな側面を受け入れながら、尚も変えていくってことなんだよ。
現状を、上辺を、文化を、風習を、関係を、退屈を、変えるために破壊しろ!
怒りのエネルギーを拒否・拒絶せず、頼ることができればそれは難しくないことだ。
暴力がこわかった

暴力がこわかった。
暴力は暴力を生む。
暴力を暴力で制圧するには、相手の心か身体に致命傷を与えなきゃいけない気がしていた。
それはとてつもなくおそろしいこと。
奪うことは奪われることでもある。
私はそれがこわくてこわくて仕方がなかった。
怒りを解放し合っても、人間は殺し合わない

怒りを抑圧し合うから、エネルギーは処理されないままに膨張し続ける。
暴力がうまれ、殺し合いが生まれる。
怒りを解放しあっても、人間は殺し合わない。
怒りの解放は、殺し合いではなく、生かし合いを生むんだよ。
暴力って怒りの延長線上にあるものではなく、むしろ怒りからの回避手段なんじゃないかな。
破壊することがこわかった

破壊することがこわかった。
破壊はいけないことだと思っていた。
そこでは元気になれなかった。
そこではエネルギーが生まれるたびに自己否定をするしかなかった。
いかに上手にエネルギーを殺し、それを巧みに慰めるかというのが、現代の怒りのコントロールの主流ではないだろうか。
しかし、それでは他人の怒りが許せず、他人の怒りに自分が怒るような流れを生み、しかも生まれた自分のその怒りも否定しなくてはならないという苦しい流れを生む。
破壊を許してやればよかったんだ

破壊を許してやればよかったんだ。
自分本位の破壊が許せるかどうかで世界の広さが変わってくる。
これは、自己肯定感にも非常に深く結びついている。
何かを破壊してしまうぐらいなら自己否定を選ぶ

何かを破壊してしまうぐらいなら自己否定を選ぶ。
そんな人生もあるだろう。
それでもなんとか満足できていくようなエネルギーの持ち主なら、この世界は生きやすいかもしれない。
さあ、君はどうだい?
君のエネルギーは、虎視眈々と、君の中で、出どころを待っている。
冥王の破壊の唄

怒りを解放し、受容できるようになると、今度は他の人の怒りのエネルギーがきれいに見えるようになる。
そして、怒れないことで苦しみ、怒れないことで自分が分からなくなってしまっている人も見えてくる。
そんなとき君は、君の私的な理由でしっかりと、怒れるところをその人に見せてあげるといい。
怒りの触発力は強い。
目の前のその人も、君の怒りに触発されて怒ることができるだろう。
君の怒りで、大切な人の壁を破壊し、怒りを解放させてあげてほしい。
そのせいで君の大切な何かも壊れてしまうかもしれない。
しかし、その破壊の先にあるのは、エネルギッシュな再生だ。
それを信じてほしい。
冥王、黒田明彦でした。
私のエネルギー、もらってね。