今回の記事は生きている実感がわかないという人のために、生きるということはどういうことか。そして、どうすれば生きている実感がわくかということに、現在の私の精一杯の答えを書いてみました。
生きている実感がわかないという体験を考える

生きている実感がわかないというのは、どういう体験のことを指しているのでしょうか?
まず一つ、活きている実感がないという言葉に書き換えられるような嘆きの体験があると思います。
それは大雑把にとらえれば、生きがいがない、充実を感じない、不毛であるという感覚です。
もう一つは、自分自身という感覚(自我)が曖昧で、自分の身体がしっくりこないような、いわゆる解離的な症状があげられます。
幼少期に虐待などの過度の苦痛を受け続け、自我の成長が著しく阻害されてしまった場合、自分というものの認識が生活に著しく支障が出るほどにできなくなってしまったり、身体の感覚が曖昧になってしまうことがあります。
このような症状についてはしっかりと専門機関の治療を受ける必要があります。
解離についてはこの記事では詳しくとりあげませんが、一冊本を紹介しておきます。解離性障害に悩む人、もしくはその周囲で悩む人にお勧めします。この本の作者は、解離性障害の当事者でありながら、精神科医になった人です。この人のような治療者に出会えることは幸せだろうな、と思います。
今回この記事で考えていきたいのは、活きている実感がないという言葉に書き換えられるような嘆きの体験についてです。
生きている実感がわかないのはなぜ?生きることってどういうこと?

生きている実感についての問答
生きているということは苦しいことです。
生きている実感とは苦しみを実感するということです。
右に進んでも、左に進んでも、
どっちの道を行っても苦しいとわかっているのであれば、
どっちの道を選んでも同じです。
苦しみを受け入れることができれば、どこで何をやっていても同じ、つまりどこで何をやっていても安心できうるということです。
苦しみの実感こそ生きている実感です。
幸せや、悟り、そしてそれを得るための様々な信仰は、苦しみから逃れるために必要なのではなく、苦しみを受け入れるために必要なのです。
生きる実感がわかない。自分自身に存在価値を見いだせないのはなぜ?

自分に自信がない。
自分には存在価値を感じない。
だから自分が生きている意味がわからない。
だから生きている実感がえられない。
実は、こういう思考が起こるのは、すごく自然なことなのです。
自分自身で価値づけ、信じることができる自分は、他者との関係によって対象化された自分です。私たち人間は、他者との関係を通してしか、自分を対象化できません。
人間は、他者に認めてもらい、信じてもらう以外に自分の存在価値を認め、自分を信じる方法はない、と割り切って考えてみましょう。
自分の存在価値は自分で見出すことはできない、と割り切ってしまいましょう。
もう少し正確にいうと、自分の純粋な感覚では自分を価値づけることも、信じきることもできない。これは当たり前のことなのだと理解してしまいましょう。
自分で自分の価値を認めること、自分で自分を信じることはできません。
しかし、他者のことを認めること、他者のことを信じることはできます。そして、他者に認めてもらうこと、信じてもらうこともできます。
繰り返しますが、生きるている実感とは、苦しみの実感です。
この生きていく苦しみの実感を受けいれるためには大きな支えが必要です。
その支えとなりうるのが相互に認め、信じあう他者との関係なのです。
これまでの人生のコアな人間関係から、誰も自分のことを認めてくれなかったし、信じてくれなかった。だから自分も他者を認めることも信じることもできなという発想に至ってしまうことはあるでしょう。
それは仕方のないことだと思います。人間が生きる実感、苦しみの実感を受け入れられるようになるには、どうしてもまず、自分を信じてくれる、認めてくれる他者に出会う必要があるのですから。
愛情(承認・自信)は他者からしかもらえないし、他者にしかあげられない。
これらは自家発電ができないので、与え合うしかない。
生きている実感がわきにくい原因

生きている実感とは苦しみの実感です。とはいえ、耐えがたい苦痛が続けば生きていることができなくなることはあります。
そして、それとは逆に幸せが持続してしまっても生きている実感を失ってしまうのです。
幸せとは、次の苦しみを生む種と考え、
苦しみとは、次の幸せを生む種と考えられるほうが健全であるようです。
生きている実感を失いがちな今の時代の人間は、とにかく生きている苦しみが分かりづらくなっているように思うのです。
食べるものにも着るものにも寝る場所にもそうそう困らない。
当たり前のように毎日が続いていく。
それは幸せなことです。そしてこの幸せが、生きている実感を薄れさせてしまう。
生きている実感が得られないという状態は、生きることの持続が困難ではないという、非常に実感しにくい、真綿で首を絞めるような、緩い幸せに包まれている状態だとも言えます。
どうやら人間は、生きているという苦しみが実感できないことにも苦しんでしまうようにできているようです。
生きている実感がわかないから死にたい

生きている実感がわかない。
自分に価値を感じない
存在理由がない
生きる理由、必要がないから死にたい
死にたいとは言葉になることはあるものの、人間は死というものを体験的に知ることはできません。
死にたいという言葉で言い表せるところは、この今の生きている私というものを消したいという感情でしょう。
死にたいという表明で消したがっているのは、他者との関係の中で承認されず、他者に信じてもらえなかったところで生まれ育った自己像のことではないでしょうか。
消えて欲しがっているのは、他者との関係により対象化された自己像です。
確かに、生きているという状態が止まれば、この自己像は消えてなくなるかもしれません。少なくとも、もう感じなくてよくなるかもしれないという想像はできます。
しかし、生きているという状態が止まらなくてもその自己像を消す方法はあるのです。
それは、新たな他者との関係によって、自分を認めてもらい、信じてもらうということです。
本来、生きることに理由はいらないのかもしれません。しかし、生きることは苦しいことですので、どうしてもなんらかの支えが必要なのです。
他者に存在を承認してもらい、自分の価値を信じてもらうこと、それは、苦しみを生きるための何よりの支えになります。
死を体験することのできない人間にとって、死んではいけないのか?の問いに答える術はありません。しかし、あえて、そこに答えようとするのであれば、
となります。
生きていることを実感するにはどうしたらいいか

その苦しみこそが生きている実感だと理解すること。
その苦しみを苦しみのままに生きていけるように、自分を信じてくれる人、自分を承認してくれる人を探し、支えてもらうこと。
そして、少し余裕がでてきたら、自分も他者を承認し、他者を信じてみること。
生きている実感と生きる意味

自分では自分を承認できないし、自分では自分の価値を信じきれません。
もし、あなたがどうしても生きることに意味を求めるのであれば、他の誰かを承認し、他の誰かの価値を信じてあげてください。
他の誰かを承認し、他の誰かの価値を信じることができたときに、あなたの生きる意味は確実に生まれます。
その承認と信は、その他の誰かの、生きるという苦しみを受け入れることを具体的に助けるのですから。
生きる実感がわかない人へ、終わりに

生きていくということは、苦しみの中を生きていくということです。その事実を受け入れ、生きるということを実感していくためには、エネルギーが必要です。
人間は、自分で自分を認め、その価値を信じきることはできません。
生きる苦しみを受け入れるためには、どうしても、誰かに承認され、価値を信じてもらうという助けが必要であるのです。
あなたが苦しみの中を生きていくためには、あなたの価値を認め、信じ、それをあなたに伝えてくれる他者がどうしても必要なのです。
私はあなたにとってのそういう他者になりたい。
月の逆エンパス、黒田明彦でした。
私のエネルギー、もらってね。