私流「禅」

壁になって考えてみたら悟れていたという話。

どうも黒田明彦です。

今回は、壁になって考えてみました。

絶対「一」の世界を見るためには、絶対「二」の目が必要だった。

なんかちょっと進んだ感じがするんですよね。

私には、認識も自我もない。

私とはただ、宇宙の働きである。

したがって、私は、最初から悟っている。

うーむ。壁は何でも知っていた。

まずはこちらの動画をどうぞ

壁になって考えてみたら、悟りが見えた。壁は何でも知っている。

それでは、ちょっとした補足解説をどうぞ。

物そのものになるということ

こんにちは、黒田明彦です。

「禅」体験について語っていこうと思います。

今回は、いつも以上にわかりにくいというか、勢いで感覚的な話をしようと思います。

今、私は「禅」の本、主に鈴木大拙の本を読んでいます。

そして、今回はその中から、

物そのものにならなくてはならない

という言葉と、

見るものと見られるものが、同一にならなくてはならない

という言葉に注目してみました。

手始めに壁になってみた

悟れない、悟れないと日々嘆いてる私としては、とにかくいろいろやってみようというわけです。

私はいつも壁に向かって座禅をしています。

それでともかく手始めに、まずは壁になってみようと思いました。

壁に感情移入するというか、壁になった気持ちでいろいろと考えてみる。

まぁ、感情移入は得意な方ですし。

「私は壁である」

「私は壁である」

壁ってどんな気持ちだろう。

壁を見ながら、座禅して、想像力を働かせてみました。

壁。

壁。

壁。

壁にはまず、目も耳も鼻も口もない。

意思もない。

だから何をされても、痛いも痒いもないし、何も考えていない。

そもそも壁には認識というものがない

壁は自分を壁だとも思ってないし、壁は自分が存在するとも思ってない。

壁には働きがある

だけど、壁には働きがある。

ここに壁があることによって、風は止まるし、雨は入ってこれない。

それが家の壁だ。

でも、壁自体はその自分の働きすら認識していない。

自分を壁だとも思ってないし、自分の働きも認識していない。

認識がない、ただの働き。

それが壁。

壁は悟っている

そもそも壁っていうのは、こちら側の認識であって、壁の認識ではない。

壁には何も認識はなく、ただ働きがある。

自分では存在も働きも認識せず、ただ何者かにとっての働きがある

なんかそんなことを考えた時に、壁って悟ってるなと思ったんですよね。

壁は、宇宙の一部というか、宇宙そのもの。

壁は悟っている。

認識がない、働きのある何かっていうのは、最初からそのままであって、最初から悟っている

そんなことを思えたわけです。

壁の「無」は絶対的

認識を持たない壁は、まさに「無」。

それは絶対的なものであり、それは悟っているものである。

壁も私も同じである

さて、ここからポンッと飛んでいきます。

なんといいますか。

壁になってそこまで考えたところで、壁っていうものと、私っていうものが、同じだなと思えたんですよね。

壁も私も同じ。

壁は最初から悟っている。

壁も私も同じなので、私も最初から悟っている。

壁に認識はない。

壁も私も同じなので、私にも認識はない。

私に認識がない?

そこで、ふと思うわけです。

あぁ、認識っていうのは1つしかないんだと。

認識の主体は1つである

壁を認識する。

私を認識する。

他人を認識する。

宇宙を認識する。

この認識の主体っていうのは1つしかない。

そして、認識に認識されるもの・・・、壁であり、私であり、他人であり、宇宙であるっていうものは、認識をもっていない

たった1つの認識と、それに認識されるもの(宇宙)。

この2つしかない。

そんな区別ができてしまったわけです。

認識されるものは最初から悟っている

認識に認識されるものすべては、もうすでに最初から悟っている。

壁も私も他人も宇宙も、最初から悟っている。

そして認識だけが、ずっと悟れない。

認識が認識であるうちは悟れない。

認識はずっと認識だからずっと悟れない。

絶対「二」

認識と認識されるもの。

この2つしかなくて、認識の主体は1つしかない。

だから認識というものは、絶対の「二」なんだ。

私っていうものは、認識の対象の1つである。

認識の対象の1つである私は、自ら認識することはない。

絶対の「二」が絶対の「一」を見る

絶対の「二」である認識に認識されるものは、絶対の「一」なんだ。

そして認識されるもの全てが宇宙であるとも言え、全てが最初から悟っている。

私には認識はない

これまでは、

「認識っていうものはいくつもある。」

そして、

「私というものは、そのいくつもある認識の一つである。」

と、考えていました。

だけど、認識主体は1つしかなくて、私というものは、その認識主体に認識されるものの1つである、という視点ができたわけです。

その私自体には認識もないし、自我もない。

つまり、私はちゃんと宇宙の働きの1つであると。

認識主体は、その宇宙の働きを私として認識することがある、というだけ。

認識を認識する?

認識主体を認識するって話になると「三」が出てきてしまうが、それは今は考えない。

とにかく認識っていうものは1つしかないと考える。

そして、認識されるものは、すべてそのまま宇宙の働きであり、すべてそのままで悟っている。

認識されるものには認識がなく、自我もない。

ただ働きだけがある「もの」である

宇宙の働きと認識

宇宙には、この認識と言っている何かと働きしかない。

働きは絶対「一」であり、認識は絶対「二」である。

突き詰めていくと、その宇宙の働きという絶対「一」の中に、絶対「二」である認識も、含まれているんだろうけど、認識が何かを認識できている時点でやっぱりそれは「二」になる。

絶対の「二」。

絶対の「二」だからこそ、絶対の「一」が見える。

この絶対の「二」であるというところが、今回の新しい気づきというわけです。

壁はなんでも知っている

私というものは宇宙の働きの1つであり、私というものには認識がない。

私に認識がないなんて、常識的ではないですよね。

さて、今、語っている(書いている)のは、私の認識ではないのか?

言葉を声にし、文字にしているのは働きです。

認識はその働きをただ見ているだけ。

私という言葉を放つのは働き。

そしてその働きには認識も自我もなく、最初からそのまま悟っている。

なんかそんな感じなんですよね。

わからなくなったら壁になる

自分で語っていてわけがわからなくなりますが、そういうときは壁を見る。

壁には認識がない。

壁は最初から悟っている。

その壁と私は一緒なんです。

だから私にも認識はないし、私も最初から悟っている。

私も壁も同一で、ただ、宇宙の働きである。

そしてそれを私と認識しているものがある。

そしてその認識というものは1つしかない。

その1つの認識というものが、天上天下唯我独尊の「独」である。

そんなふうに整理されてきます。

認識に認識されるものは、最初から生まれもしていないし、死にもしない。

なんかそんな感じなんですよね。

まぁともかく、壁はなんでも知っている。

あなたも一度は家の壁になってみると、いろいろ発見があるかもしれないですよって、話でした。

空淡、黒田明彦