光のいのり

親鸞に会いに行く道

絶対他力と禅の味わいから、言葉は私のものではないということを発見しました【親鸞に会いに行く道vol.6】の補足解説記事

親鸞と仏教の智慧に刺激をもらいながらも、相変わらず自己否定にまみれている私ですが、やはり、自己否定からも学びは生まれてくるわけです。

今回は、親鸞や仏教に触発されながらの私の学び、私なりの言葉の味わいを語っていきます。

親鸞の絶対他力と、どこか遠くの遠くでつながっているかもしれない、私の絶対他力的言葉の理解をどうぞご覧ください。

まずはこちらの動画をどうぞ

絶対他力と禅の味わいから、言葉は私のものではないということを発見しました【親鸞に会いに行く道vol.6】

それでは動画の補足解説を行っていきます。

絶対他力と禅の味わい

日々親鸞に会いに行こうと、本を読んだり、動画を見たりしているわけですが、今回、私の中で1つ発見があったような感じがありました。

まぁ、発見と言いましても、いつものごとく、「見つけた!」と思ったら、またどっかに流れていってしまうものなのかもしれないんですけどね。

「わかった!」「見つけた!」「発見だ!」と思ったら、またそれがすぐに役に立たなくなって、苦しみの世界に逆戻り。

私は現世だけで、十分に輪廻転生できてしまっているなと思うばかりであります。

ただ、少なくとも、この今は、気づきとして鮮やかに感じられているところがありますので、そこを語っていこうと思います。

とにかく楽になりたい私と絶対他力

親鸞に会いにいく道といっても、この私がとにかく楽になりたい、生きる苦しみ、死の苦しみ、そして孤独の苦しみを突破したいというのが、基本テーマです。

これまでの親鸞、そして仏教とのふれあいの中で、私にはいくつかのキーワードが出来ています。

その1つは、絶対他力

とにかくこう、仏様に任せていく。

自分のはからいではなくて、仏様のはからいに任せることができなければ、この自分から救われていく道はないぞと。

これを徹底できたのが親鸞であると私はいただいています。

とにかく自力ではどんなにやっても、どんなにやっても救われない。

そこに絶望できた親鸞に、とびっきりの純粋性を私は感じるわけです。

とにかく楽になりたい私と禅

仏教にふれていると、親鸞の浄土真宗だけじゃなくて、やっぱり派生していくところがあって、「禅」にもふれる機会があります。

禅は、ものが2つに分かれる前のところをすごく大事にするというように、今の私はいただいています。

ものが2つに分かれる前の感覚とは、絶対平等っていうか、ワンネスというか、そういう感じでしょうか。

その禅の世界観というか、体感、体得は非常に難しいようです。

しかし、あらためて、人間が苦しみから逃れていくにはすごく大事な部分のような気がします。

生きながらにして、宇宙に還るという永遠の瞬間をもつ。

禅の思想とは、そんなところもあるでしょうか。

ものが2つに分かれる前

ものが2つに分かれる前のところというと、私とあなたが分かれる(認識として区別される)というのはまだわかりやすいのですが、私と私が分かれるという体感もあります。

これは、いろんな場面で当たり前のように人間の身に起こっていることですが、わかりやすいところで言うと、自己肯定とか自己否定などがそうですね。

自己肯定は、自分で自分を肯定する。

自己否定は、自分で自分を否定する。

これらは、肯定する自分と肯定される自分、否定する自分と否定される自分が自分の中で分かれていますよね。

これだと自分が2人いることになります。

そうなると、さらに、自分を肯定している自分は誰が肯定するの?っていうことにもなっていきますし、それって、自己理解として不完全ですよねって話なんですよね。

これは、自分の対象化というやつですね。

私はこの自分の対象化というものをいつからか当たり前のようにやってきています。

そして、それが苦しみの1つの種であるという感覚があるわけです。

生命は自分のものではない

話は飛ぶようですが、親鸞の教え、親鸞を学んできた人の言葉を聞いていると、いろいろいろいろと、いただきものがあるんですよね。

あるときに、

自分のこの生命は、はたして自分のものなのでしょうか?

っていう言葉をある人の本で見つけまして。

それがこう自分の中に、残った、響いたんですよね。

「あ、生命って自分のものじゃないのか」と。

確かに私は、生命を自分で生み出したわけじゃないし、自分の意思で生まれてきたわけでもありません。

この生命は、なんかいつの間にか始まっていたもの。

いただいていたものって感覚もわからなくもない。

確かにそうなんですよね。

それをなんか自分のものだって思って、必死に守ったり、死に物狂いになっている…。

だけど、実際は自分のものではなくて、いただいたもの、ちょっと言い方を変えると借りているもの

生命ってのは、自分のものではなくて、借りているものなのかもしれないなぁと。

そう考えてみるのも面白いなぁって、なんか響くものがあったんですよね。

私のカウンセリング学習と言葉

  • 自分が2つに分かれている
  • 生命っていうのはそもそも自分のものじゃないのかも

この辺りの言葉に導かれるように、今までの私の学習、主にカウンセリングで学んできたところが今、ちょっと、ひっくり返りそうになっているわけです。

私が、カウンセリングの学習で学んできた大事なことのなかに、

言葉は生命である」っていうのがあるんですね。

そして、もう1つ、「言葉は来るものである」と。

この辺りの学習が、つながっていくんですね。

言葉は来る

言葉が来るという感覚に出会う。

それは、自分以外の力、他力に出会うという直接の体験でもあります。

まさに自分を超えた力に出会っていくという体験です。

その感覚は、そのまま救いの感覚でもあります。

より真なる世界との出会いというのは、それだけでこの自分の救いになる。

そんな体験が私にはあるのです。

言葉を大事にする学習

私がやってきたカウンセリング学習は、とにかく言葉を大事にする学習です。

言葉は生命って言ってるぐらいですからね。

私の学習のプロセスの中で、まず、「自分の言葉」と「相手の言葉」というのが分かれていきました。

そして、自分を大事にする、相手を大事にするっていうのはどういうことかというと…。

自分の言葉と相手の言葉をそれぞれしっかり分けた上で大事にするっていうことだと学びました。

ちなみにこれは、先生方にそういうものだと教えられたものではなくて、実践の中で、自ずから(おのずから)学び取ったところです。

とにかく徹底して相手の言葉を大事にするということが、相手を大事にし、相手の生命を大事にすることだと、そういうふうに私は経験的に学んできたわけです。

相手の言葉をそのままたどる私

カウンセリングの学習で、相手の言葉をそのまま聞こえたままに、こちらの声にするっていうことを繰り返し訓練してきましたが、それは、相手の言葉を大事にすることの具体的な実践なんです。

私には私の言葉があり、相手には相手の言葉がある。

そこをしっかり分けた上で、相手の言葉をしっかり聞かせていただこう、受け止めさせてもらおうっていう学習を繰り返してきました。

あらためて、本当に貴重な体験をさせていただいてきたなと思っております。

さて、しかし、

私には私の言葉があり、相手には相手の言葉がある。

ここなんですよ。今回ひっくり返りそうなところは。

言葉は誰?言葉は誰のもの?

私には私の言葉があり、相手には相手の言葉がある。

私の言葉…。

私の…言葉…。

昨日ですね、いろいろとまぁ、いつものごとく、すごく自己否定をしていたわけです。

もう本当に、飽きもせず、繰り返し繰り返し自己否定をするわけです。

自己否定して自己否定して自己否定した、あるところで、ふと、言葉が来たんですよね。

言葉が生命で、生命が私のものではないってことは、

言葉は私のものではないのではないか?

ここなんですよね。

これまでは、私の言葉というのがあると思っていたわけです。

それはつまり、言葉を私のはからい、私の力で生み出しているみたいな思い込みがあったわけですね。

だけど、ふと思ったわけです。

「言葉って全て来てるものなんじゃない?」って。

私の言葉は1つもない

私が作ってる。

私が私のはからいで作ってる。

そんな言葉は1つもない。

私の自力で言葉って生み出していないなと思ったわけなんです。

全ては他力。

来ているもの。

如来様なんじゃないかって。

つまり最初から「私の言葉」と言えるものなんて、1つもなかったのではないだろうか…と。

これって、感覚的には「言葉は私ではない」とも言えるところなんですよね。

私はただ、とにかく来た言葉を聞かせてもらっている存在であって。

自分の力で言葉を1つも生み出せていない。

自分の言葉が1つもないとするならば、言葉を指して、私とは言えない

全て全て全ての言葉は私ではない。

この発想がすごく私の中で新しかったんですよね。

私が1つになっていくために

今までの自己否定の感覚でいうと、私の言葉(私が)私を責めていたわけです。

これだと、私が2つあったわけです。

でも、言葉というものが私じゃなくなると、ただどこからか届いて来た言葉を聞いているのが私ということになって、私は1つになります。

ただ届いて来た言葉を聞いている存在が私。

言葉そのものは私ではない。

私とは、ただ言葉が来るための場所のようなもの。

なんかそんな感覚です。

「あっ、今私にこんな言葉が届いて来ているな。」

それだけ。

私が私を否定しているという状況など最初からなく、ただ私という場所に、どこからか否定的な言葉が届けられて来ているだけ。

この感覚的な自己理解の変化は進歩だと思うんですよね。

全ての言葉は、私のはからいを超えてやってきているんだなぁと。

ここってわりと大事だと思うんですよね。

言葉は全て他力。それが絶対他力。

つまり言葉こそ他力なんです。

全ての言葉は他力。

全ての言葉がそもそも私のはからいを超えてやって来ていたというのが、絶対他力の自覚なのではないかと。

私の言葉なんて1つもないっていうふうになると、もう任せるしかないんですよね。

私は言葉によって生かされている

私というこの何者かは、言葉によって生かされているのは、どうにも疑えません。

私は言葉がなきゃ考えられないし、感じられないし、認識そのものができない。

よく聞く話ですが、「言葉にできないこともある」は、「言葉にできないこともある」という言葉になって初めて認識できるわけです。

言葉は私の世界の全てを構成している。

その私の世界の全てを構成している言葉が、私のものではなく、そもそも全て全て私のはからいを超えてやってきているものだった。

1つも私が生み出せた言葉などなかったのだとしたら、これまでの私は、ただただ、来る言葉に任せて生きてきたということですよね。

もう最初から他力に任せて、生かされてきたのが私だったと。

これまでずっと、ずっと、他力によって生かされてきたんだよねって。

じゃあ、これからも任せるしかないじゃない

なんかそんなところに行ったんですよね。

言葉は私のものじゃなかったんだ

言葉は全て私のはからいを超えてやって来ていた。

言葉は私のものじゃなかったんだ。

これまでも、私のはからいを超えてやってくる言葉に出会ったという体験はありましたが、私の理解では、私の言葉と私の言葉を超えてやってくる言葉の2つがあると思っていたわけです。

これは私の言葉。

そしてこれは、私の言葉を超えてやってきた言葉、って感じにね。

だけど、今回はそうではなくて、全て全て全ての言葉が私のはからいを超えてやって来ていたんだと、そう考えてみるのはどうだろうと思えたんです。

言葉は全て私を救いにやってくる

そして、ここで私のカウンセリングの先生に聞かせてもらった言葉が思い出されるわけです。

「言葉は全てあなたを救うためにやってきているよ」って。

つまり全ての言葉は、私ではなく、仏様の言葉だったんだなぁって。

ときにはそれが私を責めるような言葉であっても、ですね。

しんどいですけどね。

仏様の言葉っていうのは、私を慰めるというよりは、私を目覚めさせようとするはたらきで来るみたいですね。

救いとは、常に目覚めの方向にある、そんな感じなんでしょうか。

自分が変わると他人も変わる

私が生み出せた言葉なんて、1つもないと考えられるようになると、少し世界が変わるような気がします。

自分の世界が変わると、他人の見え方まで変わりますね。

私以外の人も、自力で言葉を生み出せている人は1人もいない

全てはどこからかやってくる言葉。

全ての人は、どこからかやってくる言葉が到着する場所のようなもの。

そして、その言葉に生かされている存在なんだと。

これまでは、言葉ってその人の自我から、その人個人から生まれてると思ってましからね。

全然違ってきますよ。

言葉は私のものではないという事を発見しました、まとめ

言葉は私のものじゃない。

私が生み出せた言葉など1つもない。

全ては任せられている。

任せていくしかないんだよって。

なんかそんな感覚が昨日今日と、もらえている私なのでした。

明日はわからないですけどね。

空淡 黒田明彦

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