こんにちは、こんばんは、黒田明彦です。
今回も【私流】座禅体験から考えたことを語っていきます。
座禅を考えると、無心について自然と考えていくことになります。
今回は、語りながら、そして、このブログでまとめながら、
「無心」とは、絶対静寂のゼロ地点である。
そして、幸福(救い)とは、絶対静寂の瞬間を求める心のことである、というふうに言葉が連なりました。
Don’t think, feel.
まずはこちらの動画をどうぞ
「禅」と「無心」幸福とは、静寂を求める心
それでは、補足解説をどうぞ
自力の「無心」は無理そう
今回も【私流の】「禅」体験について語っていこうと思います。
私にとっての「禅」は、今のところ、座って「何もしないをする」っていうことです。
座って「何もしないをする」をやっていると、頭の中には、過去や未来のいろんなイメージが湧き上がってきて、ただ座って目を閉じているだけなのに、いろんな時の自分になります。
だけど、「禅」をやっていると、そういうものから解放されるような「無心」を求めるようになるところがあるなぁというところを前回話しました。
そんなところもあって、私は、ここ数日の座禅のときは、とにかく何も考えないようにしようっていう志をもって取りくんでみました。
何か頭に言葉やイメージが浮かんだら、すぐにそれを打ち消すような感じで、できるだけ頭の中を空っぽにして、座っていようとしてみたわけです。
頭の中になにも浮かんでないことが「無心」だ、と自分なりに考えてやってみたわけですね。
「考えない」を自力でできない
しかし、次から次と、頭の中に浮かぶ言葉やイメージを一生懸命、打ち消そうと頑張っていると、なんかとても不自由になってきてしまいました。
なんかすぐに疲れるし、どんどん座っているのが辛くなってしまって、座禅が私の中でしんどいものになってしまいました。
「これは違うかもしれないなあ…。」
というわけで、頭の中を無理に空っぽにしようという試みは、早々に諦めました。
結局今はまた、なんでもありに戻しています。
ただ、座って、何もしないをするだけ。
ウトウトしてもいいし、言葉やイメージが浮かんじゃってもいい。
たとえ、それによって、「グッ」と嫌な気持ちになってしまっても、それはもう仕方ない。
ともかく楽に、座って「何もしないをする」をやろうっていうふうに切り替えています。
「無心」といっても、そんな簡単に会得できるもんじゃなかろうみたいな感じは、最初からありますので、じっくりやっていこうと思います。
無心に囚われず、眺める
やってみてわかったことですが、頭の中を空っぽにしようって気持ちだけで、その状態を堅持するというか、保つことは相当難しいです。
それよりも頭の中に浮かんできてしまったものを自由に眺めるという感覚。
浮かんできたものに囚われないで、ただ眺める。
そんな感覚が大事そうだなって感じがしています。
頭の中に何も浮かんでこないように頑張っているときというのは「無心」に囚われているような感じ、とも言えるかもしれませんね。
「無心」静寂を求める心
さて、今回は、座禅、「無心」について、少し角度を変えて、静寂を求める心というところで語っていこうと思います。
頭の中に何も言葉もイメージも浮かんでない状態を自分の力で作ろうとしたら大変です。
しかし、いろんな言葉やイメージが、頭の中に浮かびに浮かんで、もう浮かび尽くして…。
なんか息切れみたいになったときに、何も考えてない瞬間というか、何も頭に浮かんでない瞬間というのが、たまにあるわけです。
それは静寂の瞬間。
絶対静寂の幸せ
どうでしょうか。
静寂こそ、一番の幸福。
静寂こそ、一番の安心。
そんな感覚、ピンと来るでしょうか?
もしかしたら、静寂を求めるって感覚が、人間の幸福には大事なのかもしれないなぁって、私は今思うのですよね。
座って目をつぶっていると、本当にたまにしかおとずれないけど、絶対の静寂みたいなものがある。
それをなんか心地良いと思うというか、
嬉しいと感じるというか、
安心を感じるというか、
それこそが救いと思えるかどうか…。
静寂って、相対世界ではなくて、絶対世界のような気がするんですよね。
相対の世界から飛び出すことこそが、人間の救いであるというのが、仏教を自分なりに学んできた、私の仮説です。
すなわち、絶対の静寂の救いを知り、それを求める心こそが、幸せな心と言えるのです。
全境遇の私が今ここ座禅の一点に重なる
座禅をしていると、本当にいろんなイメージが浮かんできます。
私の今の生活・現状は、素晴らしい!幸福だ!最高だぁ!
なんて、全然思えていません。
どうしたらいいんだろう?どうしたらいいんだろう?
そんな迷いとか不安の方が大きい。
それに、私には「いつかは死んでしまうのだ…」という恐怖もあります。
「私はいつかは死んでしまうのだ…」という恐怖もあるのに、もういろんなことが思い通りにいかなくて「死にたい」っていう言葉が浮かんできたりもします。
そういう矛盾を抱えながら、私は今を生かされています。
いろんな境遇の私を想像してみる
さて、ここでイメージが広がります。
一方で…、
もし私が、めちゃくちゃ、なんでもかんでも、思い通りになってしまうような、素晴らしい境遇に恵まれていたとしたら…。
また逆に、
今よりも、もっと悲惨で、もっとどうにもならないような人生をおくっている自分だったら…。
なんとなく、そんな想像が浮かんできたわけです。
そして、その時にふと思ったのです。
静寂こそが最高の幸せになってしまったら…
王様のような身分で、なんでも思い通りになっちゃうような境遇。
食べるのにも苦しみ、住む家どころか、寝る場所すら安定しないような境遇。
いくつかの極端な人生の境遇を想像して並べた上で思ったわけです。
「もし、人間にとっての最高の幸せが、静寂であるのだとすれば?」
お金持ちになって、幸せな家族に包まれて、毎日、本当に幸せ!
そんな宝石のような毎日の中でも、自分の一番の幸せな時間は何かというと、実は、静寂を求める座禅のその瞬間だったりするとしたら。
お腹減った…、寂しい…、不安…、寒い…。
食うのも寝るのも困るような、そんな侘しい毎日の中で、ただ1つだけ、自分を幸福にしてくれる瞬間がある。
それが、座禅の絶対静寂を求める時間だったりするとしたら。
座禅によって絶対静寂を目指す時間が、人間にとって一番幸せだったとしたら、どんな境遇であれ、どんな人生であれ、同じ「一点」で幸せになれるんだ…っていうことを思ったわけです。
絶対の幸せがあれば、その他は全て等価値になる
そう考えたら、どんな時間軸、どんな場所で、どんな人生をおくっていても、絶対の静寂を一番に望む心さえ育むことができれば、必ず幸せになれる。
座って目をつぶって、あるがままに身を任せ、絶対の静寂の瞬間を求めること。
その時こそが一番の幸福と感じることができるのであれば、物理的な自由とか安心はあまり必要ないですよね。
絶対の静寂に瞬間的に出会うこと。
それこそ本当に人生の幸せであるってなったときに、他の全てのものは等価値になります。
絶対のものがあれば、境遇には価値が生まれない。
座禅という絶対的な一点
いろんな時間軸、いろんな世界線の自分が、今ここで座禅している自分と、ピッタリと一致していく感じ。
座禅をしている私。
絶対の静寂を望み、そこを目指して座っている時が至高である、この上ないと思えたのであれば、それがどこのどんな存在であっても、この、絶対の静寂を求めている今ここ、一点に一致してしまう。
つまり、もはや「我」すら必要ない。
まさに無我、無心。
そしたら、もう…、無敵だなぁって思ったんですよね。
絶対静寂のゼロ地点
それぞれの人間が、絶対静寂にどこまでたどり着くことができるかっていうのは、それぞれ別であるとして。
目指すところがそこであるとすれば、自分の身の境遇なんてほとんど関係ない。
なんかそういうのって、救いだよなぁって思うんですよね。
どの時間、どの時代、どの空間の、どこの私でも、座禅で1つになる。
1つに重なる。
絶対静寂のゼロ地点。
それこそが無我であり、無心である。
なんかそういうイメージが浮かんだんですよね。
欲しがって、欲しがって、欲しがってこそ手に入れられるものではなくて、
手放して、手放して、手放してこそ手に入れられるみたいなもの。
そして、絶対、誰にでも手に入れられる可能性がある幸福。
絶対静寂を求める心になったとき、それだけでもう人間は救われているんだ。
なんか、親鸞の「念仏申さんとおもいたつこころのおきるとき」と、少し重なるところがあるなと思ったのでした。
空淡、黒田明彦