私流「禅」

「空(くう)」とは?実感を否定することで、無限の実在に触れる

どうも黒田明彦です。

まだまだ悟れません。

今回は、仏教でよく聞く「空(くう)」という境地について語ってみました。

私はこれまでの人生で、実感こそが内なる最大の権威であるという感じで生きてきましたが、「空(くう)」というところを考えると、それは卒業したほうが良さそうだなぁと思えてきました。

実感をことごとく否定することで、無限の実在にふれる。

次々今を捨てなきゃ、次の今を見失う。

そんな感じ。

まずはこちらの動画をどうぞ

「空(くう)」という境地への障壁は、実感だった!?感覚の先に超えてあるもの

それでは補足解説をどうぞ。

空(くう)という境地

「禅」体験について語っていこうと思います。

今回は、仏教の本や「禅」の本を読んでいて、目に留まった言葉からの、気づきの体験について語っていきます。

今回私の気づきに繋がった言葉は、1つは「実体にとらわれない」という言葉。

そして、もう1つは「感覚器のさらに奥にあるものが覚醒する」という不思議な言葉です。

この辺りの表現を見たときに、なにか引っ掛かりがあったんですよね。

そしてその後、座禅をしたり、家族と言葉を交わしたりしているときに、1つ気づきが生まれたわけです。

空(くう)と空(そら)

仏教の中には、「空(くう)」という概念がありますね。

なかなか捉えるのが難しい概念ですが、これは物事には実体がないという体験智のことであるようです。

イメージとしては、空(そら)みたいなものです。

空(そら)は何者も拒絶せず、全てを受け入れる。

鳥も雲も風も。

現代でいうと飛行機もですね。

空(そら)には何も引っかかるところがなく、全てが通り、流れていく。

それは、空(そら)に実体がないからこそ可能なわけです。

全てのものには実体がないと言われましても…。

しかし、私としては・・・。

全ての物事には実体がないと言われたって、私には実感というものがあるんです、と言いたくなります。

たとえば、私の部屋に置いてあるティッシュ箱。

このティッシュ箱には実体がない。

ティッシュ箱はあるが、ティッシュ箱はないんだ

それが「空(くう)」だ。

みたいなことを仏教では説きます。

しかし私は、ティッシュ箱に触れることができます。

厚紙で出来ているとはいえ、ティッシュ箱の角で、パカーンと叩かれたら、とても痛いです。

ギュっとやれば、簡単につぶすこともできます。

あるじゃないですか。

ティッシュ箱はありますよ。

なんでこれがないと言えるのですか?って話になってくるわけです。

心や自我にも実体はない?

ティッシュ箱と同じで、心や、自我、感情とか記憶・・・。

そういう目に見えないものも、「空(くう)」は否定していきます。

ない!ない!ない!

それは存在しない、これも存在しない、あれも存在しない・・・と。

だけど、あるじゃないですか…と。

実際に、グゥッて心が苦しくなったりするじゃないですか。

そもそも私は、そのグゥって苦しくなるのが、嫌だからどうにかして救われたいわけですよ。

この敏感な身体の反応・心の反応をどうにかしたくて、仏教や「禅」やらに救いを求めてるのです。

ない!と言われたって、あるから苦しいんだ!

だから、ない!って言われても、ピンとこないんですよ。

あるから苦しい

そんなところがずっとありまして。

感覚として「在る」。

心も自我もある。

そんな実感が確かにある。

だから苦しい。

この苦しみをなんとかしたい。

そんなわけで、「感覚器を超えたところ」ってなんなのかなぁみたいなところに、あらためて興味が湧いたわけです。

見える、匂う、言える、聞こえる、感じる、推理できる。

こういう感覚器による実感・体験を超えたもの。

それは、何なのだろうなぁと。

実感を大事にし、大事にされてきた20年

私はこれまでカウンセリングの学習で、語る体験と聞く体験を積み重ねてきたわけですが、語るときには、「私はこう感じた」とか、自分の経験・感情をものすごく大事にしてもらってきました

私という個人の体験・経験・感情をとにかく大事にしてもらい、また私も大事にすることで、

「あぁ私は私なんだ、私は私でよいんだ」と、感じさせてもらってきました。

それがありがたくて、それが嬉しくて、カウンセリングの学習を続けてこれたような感覚があるわけです。

実感こそ内なる最大の権威

カウンセリングは、個人の実感っていうものを徹底的に大事にします。

社会的にどうとか、道徳的にどうかではなくて、個人的にどう考えているか、個人的にどう感じているか、個人的にどう体験されているかっていうところを大事にします。

ですから、聞くときは、個人の実感と体験を聞くし、語るときは、またそこを語るということをずっとやってきたわけです。

そんな私にとって、個人の実感というものは、実存そのものであり、もう、曲げようのない真実であると言いたくなるような、内なる最大の権威となりました。

だって、私はそう感じたんだから。

だって、私はそう体験したんだから。

それはあるんだ、真実なんだ、と。

そして、そこに大きな苦しみも生まれるわけです。

紛れもない、動きようのない、確かな実感・体験だからこそ、苦しいというところがある。

今回は、これをどう突破するのかって話なわけですね。

実感を否定することで無限の実在にふれる

感覚・・・。

実感こそ全て。

体験こそ経験こそ・・・、この私が感じ取れたものこそ権威ある実在。

もちろんこれは、他の人のそれとは対立します。

体験は対立するのが自然

人間ひとりひとり、それぞれに全く違う体験があります。

ですから、私が私の体験を語れば、他の人の体験とは対立して当たり前です。

関係においてどちらかが、自分の体験を引っ込めて「聞く」というスタンスに立たない限りは、基本的に人間の体験は対立します。

それはもう、動かしようのない道理というものです。

というわけで、「聞く」ということに人生をかけてアプローチしていくカウンセリング学習に私は、ハマっていったわけです。

しかし、それでもまだまだ私は救われない。

カウンセリング学習「逐語録」の思い出

さて、座禅をしながら、いろいろ考えていたら、あらためて思い出されてきたところがありまして。

またカウンセリング学習のときの記憶なんですが、あるとき、めちゃくちゃびっくりすることを経験したんです。

カウンセリングの訓練にロールプレイというものがあるのですが、研修ではそのロールプレイの逐語録を作ることになっているんですね。

たとえば10分なら10分、カウンセラー役とクライエント役に分かれてロールプレイ面接をして、その面接場面を全てテープに録音する。

逐語録はそのテープに録音された音を、全て丁寧に書き起こしていく記録です。

たとえば、カラスがカァと鳴いたのがテープに入ってしまったら、それも、しっかり逐語録には記さなくてはなりません。

そんなふうに、厳密に作られた逐語録を見ながら、カウンセラーは、どれぐらいクライエントの言葉をそのままに聞けているか?とか、クライエントの感情にどれくらい敏感に反応できているか?などを検討していきます。

逐語録は、録音されたものを正確に書き起こしますので、面接時のありのままの現実を目の当たりにできてしまいます。

それによって、私はあるひとつのびっくり体験をすることができたわけです。

私に聞こえなかったものは、ないものになる

テープには、クライアントが発している言葉が遍く録音されていたのですが、私はそのクライアントのある言葉を全く記憶できていなかった

クライエントの真正面で話を聞いていて、たった10分の時間の出来事です。

私としてはそのクライアントの言葉を一言一句もらさないように聞こうと集中していました。

それにも関わらず、クライエントの言葉が私に聞こえてないんです。

私の体感としては、クライエントはそんな言葉言ってなかったって、確かに記憶が残っている。

だけど証拠の言葉は、はっきりテープに音声として残っている。

そのはっきりした音声になっている言葉が全く私には、聞こえていない。

そのクライエントの言葉は、私の世界にとっては、ないことになっている…と。

私に聞こえなかったものは、この私の世界においては、ないことになってしまうのだ!と。

これにはびっくりしました。

じゃあ私は、普段どれくらい言葉を聞き落としていて、

どれくらいの言葉が、なかったことになってしまっているんだろうと…、こわくなったぐらいです。

実感を否定してみよう

ここなんですよ。

久しぶりにそんなエピソードが私の頭の中に蘇った。

私に聞こえてる音以外の音が、世の中にはある。

あらためてそう考えた時に、なんかピーンときて、

私が、察知できているもの・・・。

私に見えたもの、私に聞こえたもの、私に匂えたもの、私が言えた言葉、私が感じた体感。

それを全部否定してみてはどうだろうって思ったんですよ。

私は私が感受できたものしか認識できない。

しかし、私の感受の外に「在る」ものがある。

何かが「在る」可能性があると。

私は、私に感受できているものを否定しない限り、その「真実在」のようなものを、仮定できない。

私は私の実感を常に否定しないと、真の実在を想定できないんだな、と気づいたわけです

生々しい実感を否定することで感覚器を超える

そうなってくると、私に、見えているもの、聞こえているもの、感じられているもの・・・、それらを最初から完全に疑ってかかることは大事です。

私にとっての生々しい実感を否定していくことこそが、感覚器を超えたところにある、「真実在」にふれる可能性を持っている

そんな感じがしたわけです。

空(くう)とは次々今(実感)を捨てること

私に感受され、私が実感できているものは有限です。

しかし、私に感受されていないもの、私に実感されてないものは無限なのです。

私は私が感受し、実感したものを否定し続ければ、無限の可能性に、足を突っ込むことができる

無限、それは宇宙そのものです。

実感が私を縛っていた

瞬間的に感じたものは、もう私のもの。

実感となったらもう最後。

それは、私にとって動きようのない真実になってしまっていた。

そこで苦しくなっていたんです。

だから実感したものこそ否定してみる。

私が感じたもの、わかったもの、捉えたものを全て否定していくっていうと、現実的ではないだろうか?

今を捨て続ける

こう考えてみよう。

瞬間的に、今、今、今。

感じたものは、瞬間的に終わるんだ。

だから残さないで、すぐ捨てていく。

すぐ否定していく。

今、腹たった。

今、嬉しかったって。

その一瞬はあるんだけど、それをすぐ否定するというか、すぐ捨てていく。

それができると、いつも無限の「真実在」のそばにいることができる。

空とは、そういう状態のことではないだろうか。

そらのように

実感は向こうから来るもの。

だから、否定はいつも一歩遅れる。

だから、実感を否定し続けたところで、何も感じなくなるってことにはならない。

実感としてとらえた瞬間に、否定する。

そうすることで、実感を留めないという感じ。

今感じたものをすぐに否定していけると、今、感じられていないものを無限に拾える可能性が生まれる。

なんかそんな感じ。

空淡、黒田明彦