私流「禅」

自我覚醒の世界を疑ってみないか?まどろみの世界を楽しむということ【私流禅体験】

夢の世界と現実の世界、どっちが真実の世界なのだろうか?と、考えてみたことはないでしょうか。

夢の世界での出来事がなにかと曖昧なのは、全てを分け隔てる機能である、自我の働きが弱いからである。

つまり、パッチリと目が覚めるあの感覚とは、自我が覚醒した感覚である。

しかし、自我によってパッチリと認識される世界は、真実の世界を人間の知覚によって再構成してしまっている世界らしい。

だとすると、実は、何かと曖昧な夢の世界のほうが真実の世界に近かったりするかもしれません。

とにかく何と言うか…、自我が覚醒している世界、自我が支配している当たり前の日常世界を疑ってみる。

なんか、そういうのって大事な気がするんですよね。

まずはこちらの動画をどうぞ

自我の弱まっているまどろみの世界を少し楽しんでみないか

それでは補足解説をどうぞ

私流禅とは?

こんにちは。黒田明彦です。

今回も「禅」体験を語っていこうと思います。

私が勝手に「私流禅」と呼んで、語っている体験は、いわゆる禅寺に修行に行って、その時こんな体験をしたっていうことではありません。

あくまで自己流。

それは、静かな場所で、姿勢を正して座って、「何もしないをする」という時間をもつということ。

そこでいろいろ自分の内面に向き合うというか、おとずれるイメージや、やってくる言葉からいろいろ学んでいく、というような感じですね。

頭になにも浮かばずに、ただただ静かな時もあれば、本当にもう過去の思い出やら未来の不安にブワ~ッと襲われて、嫌な気分に囚われることもある。

それはそれでよし。

無心、絶対の静寂への望み…、もありますが、何も考えないように頑張る、というのではなくて、ただ、ただ、そのとき浮かんでくるもの、思い描かれるものに、身を任せて、そこから「私」を教えてもらう。

その辺を私は今、「禅」と呼んでいるということですね。

様々なエンターテイメントが溢れ返っているこのご時世、「何もしないをする」ことを選んで実行しているということは、なかなかの巡り合わせだなと自分でも思っています。

不思議で面白いウトウト体験

何もしないで座る。

そして、いろいろと頭に浮かんでくることに、身を任せている。

そうすると、やっぱり、ウトウトしてくることがあります。

禅寺の修行では、そういうときに、パチーンッと肩の辺りを棒で叩いてもらうのでしょうが、私は一人で座っておりますので、ウトウトしたら、ウトウトしっぱなしです。

しかし、そのウトウト体験は意外に面白く、学ぶところがあります。

あらためて味わってみると、不思議なんですよね、そのウトウト状態が。

ウトウトは半分起きてて、半分寝ている状態

座ってこう、姿勢を正した状態で、ウトウトするわけです。

横になって、ガッツリ寝ているわけではないので、ウトウトしていると、無意識に姿勢を維持しようと頑張ったりしています。

そういうときの感覚は、やっぱり、半分は寝ていても、半分は意識が残ってるような状態と言えるかもしれません。

ウトウトは、「今からウトウトしまぁす!」って感じで、意識的に始めるものではありません。

いつの間にかスゥ―ッとウトウト状態に入っていくわけです。

ですから、まず、自分としては、半分もしくは、半分以上意識が飛んでることを自覚できないんですよね。

いつだって、いつの間にかウトウト状態に入ってる。

そして、いつの間にか頭の中に映像があったり、なにか言葉が聞こえていたりするわけです。

ウトウト状態のときに見えるものの不思議

そのウトウト状態のときに、見える映像とか、聞こえてくる言葉に、私はとても不思議を感じたんですよね。

その世界では、目がパッチリ覚めている状態の時とは全く違う物語が流れている。

以前も書きましたが、まどろみ状態のとき、脳が何かに強く影響を受けている時には、たとえば長時間、ゲームをしたり、動画を見たりした後なんかは、そのゲームや動画の映像が流れたりすることが多い。

しかし、そのように脳が何かの映像に強く影響を受けていないときは、

「これ何の物語なの?」

っていうよくわからない物語が、いつの間にか頭の中に、スゥ―ッと流れている。

そして、そこには、多分私なんだろうなっていう登場人物の他に、別の人たちもいたりするわけです。

自分の頭の中の、よくわからない物語の中で、自分らしき人がいて、自分じゃない人もいて、そこで喋ったりなんだりして、関係があって、感情も感じたりもしている。

そして、パッ!と、こう現実に戻ってた時に、「何今の物語?」って感じになるわけです。

ウトウト状態と、覚醒状態の別世界ぶり

このウトウト状態のときと、目が覚めたときの別世界ぶり。

あの感覚が面白いんですよね。

これまでの人生の中で、夢から覚めるという体験は、誰しも少なからずはあると思います。

ただ、この場合、ガッツリと寝ているわけではありません。

半分は起きている状態なのに、まどろみの中で体験している世界と、それからスッと覚めたときの差が、とてつもなく大きいところが、不思議で面白いんですよね。

たとえば、まどろみの中で流れている映像が、どこかで見た覚えのある物語の映像ならば、まぁ、それがプレイバックしただけだろうなって思うわけです。

しかし、なんか不思議で辻褄もめちゃくちゃで、登場人物が誰なのかもよくわからない物語が流れている。

しかし、まどろんでいるときは、その物語が当たり前なんです。

そして、次の瞬間パチッと目が覚めて、それがどんどんあり得ない…っていう感じになってくるんですよね。

普通にガッツリ寝て、夢を見て、目が覚めた時以上に、半分寝ていて、半分起きているときは、夢と現実の境目に不思議を感じる。

そこが非常に面白く感じられたわけです。

パッチリとした現実世界は自我の世界

仏教や、哲学の本をいろいろ読んだりしていると、夢と現実については、いろいろな言葉を見かけます。

この世界に実体はない。私という存在にも実体はない。

パッと目が覚めたときの、その現実こそ、夢のようなものではないか?みたいな。

捉えようによっては、ファンタジーの世界になっていきそうな感じがしますが、この現実の世界の苦しみをなんとか逃れたいと思いながら、仏教や、哲学を学んでいる私としては、一理ある、と思えるところはあります。

まどろみの中で学んだこと

今回、この自分のまどろみの中の体験から1つ学んだことがあります。

パッチリ目が覚めているこの感じ。

物事がはっきり現実として感じられるような、覚醒状態の時っていうのは、要は、自我がハッキリしている状態なのだということです。

それは、ものの分別が非常にクリアにできるような状態である、非常に自我中心的な状態である。

現実、常識的に考えれば、その状態は、至極まともな状態であるとも言えるでしょう。

自我とは?

ものごとを分別し、分け隔てていく強烈な機能そのものであり、私を私と感じるための源。

目が覚めるというのは、自我が戻るということ

一方で、まどろんでいる、半分意識が飛んでいる状態というのは、自我が弱くなっているというか、まともに働いてない状態と言えます。

だからその世界は、ものの区別が曖昧で、いろんなものが混ざっちゃってるような状態なんですね。

パッと目が覚めた、パッと覚醒したあの感覚というのは、バーン!と自我が前に出る、自我が支配している世界に戻ってきたということ。

そして、自我的感覚から眺めて、あのまどろみの世界の感覚は、理解できない…不思議…ということになるわけです。

自我中心の世界を疑うということ

まどろみの中、自我的に言えば、わけがわからず、ぐちゃぐちゃなのに、なぜか成立している世界。

そういう世界をなんかちょくちょく感じていると、ずっと当たり前だった自我の世界にも、少し不思議を感じられるようになるかもしれません。

「分別のつかない、あのまどろみの世界も現実なのかな…?」

このように、その辺の境界線が曖昧になってくることって、わりと大事なことなのかなって気がするところもあるんですよね。

自我覚醒の苦しみを思う

もちろん現実として、日常生活は、自我に支配された行動によって成り立っていくわけです。

しかし、私たちは、その自我に支配された行動、思考によって苦しい毎日をおくっているのかもしれない。

まどろみの中の、自我の支配の弱い世界を体験していくことで、今ある、どうしようもなくハッキリした現実、疑えない、非常に疑いにくい、この現実を少しでも疑えるようになっていくというか。

なんかそういうものって、人間の本質的な元気にというか、安心に関係しているような気がするんですよね。

私たちは、当たり前のように、疑いようもなく、自我中心の暮らしをせざるを得ないわけですが、どこか、そういう、自我中心の暮らしに、自我に支配された暮らしに、苦しみを感じている。

どこか、思い当たるふしは、ないでしょうか。

まどろみの世界を楽しんでみないか

ただ、単純に、まどろみの中、そういう自我が弱まった世界をちょっとでも味わってみるというのは、面白いんじゃないかなと思います。

毎日毎日、仕事や学校、家庭において頑張っている人は、まどろみを楽しむどころではなくて、目をつぶった瞬間、ガッツリ眠りこけてしまうかもしれませんが。

半分起きていて、半分寝ているときの不思議な感覚。

境目のない、まったく違う2つの世界。

これは、どっちが本当なんだろう?って、そういう迷い方が一度できると、かたい現実世界が、少しだけ溶けだしてくれるかもしれません。

どうにもならない現実の、自我覚醒の苦しみ。

その苦しみをちょっとでも和らげるというか、その苦しみを疑えるようになるというか。

そのようなちょっとしたきっかけ。

こっちの現実、自我の覚醒世界というものが、必ずしも唯一でなくてもいいよねって。

その辺の感覚に興味を持つといいますかね。

自我が覚醒している世界を、絶対としないみたいな心境にいたること。

パッチリとした、この覚醒の世界に、少しだけ隙間がもてるようになってくると、ちょっとまた人生が面白くなるかもしれないなぁと思うんですよね。

空淡、黒田明彦