私流「禅」

未来は2種類あることを発見しました。推理を手放し不安を断ぜよ

どうも黒田明彦です。

仏教では人間の感覚は、目や鼻の五感(五識)を加えて八つあると言われています。

今回は、そのうちの6つめ。

六識「意識」のお話です。

推理を手放せば、不安がなくなるというところを語っていたら、新しい未来の種類が見えました。

推理による未来が1つ。

さて、もう1つの未来とは?

まずはこちらの動画をどうぞ。

未来には2種類ある!?推理を手放して、直観の世界に飛び込め!

それでは補足解説をどうぞ

現実とは夢幻である

黒田明彦です。

今日も「禅」体験について語っていこうと思います。

私は今、もっぱら鈴木大拙の本を読んでいます。

そこでいろんな言葉を見て、そこから刺激を受けて学んでいます。

たとえば、これは「禅」だけではなく、仏教に通ずる考えなのかもしれませんが、感覚世界というものは、基本的には夢幻である、という考え方があります。

夢から覚めても夢の中

寝ている時に見ている夢は、朝、目が覚めれば、夢だったとわかる。

しかし、実は目が覚めてるこの今も、夢のようなものである。

そのような表現が仏教にはあるわけです。

なんか刺激的ですよね。

鈴木大拙が書いてる文章を読んでみると、感覚の世界というものにあまり重きを置いていないように感じます。

その先にある世界を常に求めている感じというか。

私としては、この感覚の世界こそが非常に自分にとって重要な要素であると考えて生きてきています。

だから、この辺りが非常に興味深いわけです。

私が感覚の世界が重要だと感じる理由

私がなぜ、人間関係の中で自己中心的な言動をしてしまうのか?

それは、全て感覚というのが、私に向かってやってくるからですね。

たとえば、何をどうしても私が痛くも痒くもないのであれば、別に自分中心にものを考える必要などありません。

しかし、痛みも悲しみも苦しみも・・・、いろんなものがやってくる場所は、この自分の感覚なわけです。

そう考えると、なにごとも自分中心に考えてしまって当然です。

避ければ良いというものでもない

しかし、自分の痛みや悲しみを避けるためだけに生きていれば、社会の中で上手くいくかというと、そうでもありません。

自分の痛み、悲しみを避けようとする動きのせいで、さらに痛みや悲しみが増えてしまうこともあるんですよね。

そんなこんなで私は、感覚中心の世界を苦しみ、苦しみ、苦しみ、生きているわけなのです。

推理を手放し、不安を断ぜよ

だがしかし。

この現実、感覚の世界は夢幻であるという。

それではもし、今の自分の感覚というものを超えた世界に突入できれば、もうちょっと生きやすくなるのではないか?

感覚第一。

そんな考え方が変わっていければ、この世界はもっと楽になるのではないか?

そう思い至ったわけなのです。

心の苦しみを感覚的に振り返る

さて、あらためて、自分の感覚というものを振り返ってみます。

今回私が言う、痛みとか苦しみは、心の痛み、苦しみです。

心の痛み、苦しみということで考えた場合、私には、見て、聞こえて、匂って、味を感じて、また体の感覚によって、直接痛みや苦しみが生まれているっていう実感が薄いんですよね。

要は、私が感覚という言葉を言う時に、その言葉が指している場所は、いわゆる五感ではないと思うんです。

五感を超えたところにある感覚によって、私は日々心を痛めている

そんな感じがするんです。

仏教の八識

仏教の考える人間の感覚・認識に、八識っていう考え方があります。

目鼻口耳体の五感。

これは、五識と言われています。

その次の六識めが「意識」と言われています。

さらに、七識めが「末那識(まなしき)」です。

七識の「末那識」は、上記六つの感覚識を統合して「自我」をつくっていると言われています。

末那識が自我をつくるから、人間の苦しみは生まれる。

というわけで、末那識は仏教では悪者扱いされがちのようですね。

最後の八つめが「阿頼耶識(あらやしき)」です。

八識の「阿頼耶識」は、人間がここまで進化してきた過程の全ての知識というか、記憶が眠っている「蔵」みたいなものだそうです。

共通無意識とか、宇宙意識とか、心理学やら哲学方面でもチラホラ出て来る概念に近いですね。

私から遠いような近いような、よくわからない人間の不思議な部分ですね。

六識「意識」の働きは推理力

さて、今回私が非常に興味を持ったのが、六識の「意識」なんです。

意識っていうと、よく聞く言葉ですが、私には、わかるような、わからないような感じでした。

しかし、あるとき、鈴木大拙の言葉に、六識「意識」の働きは「推理力」である、と読める文章を見つけました。

これで、私にはピンときたところがあったわけです。

推理力によって苦しめられていた私

私には、七識(末那識)がつくる「自我」の働きによって、苦しんでいるっていう感覚は常日頃からありました。

しかし、あらためて考えてみると、この六識「意識」の推理力によっても随分と苦しめられているなと気が付いたわけです。

心が感覚によってなぜ苦しくなるのかというと、五感の純粋な感覚に、この推理が加わっているからです。

目に見えたもの、耳に聞こえたものに推理が加わることで、苦しみが倍増している。

私にはそんな感覚が強くあります。

意識は意味を理解する感覚識

六識(意識)によって、見えたもの聞こえたものが意味として理解される。

その意味として理解される部分で私は余計に苦しんでるわけです。

たとえば、耳からの苦しみでも、ただ音が大きいとか、生理的に不愉快な音が聞こえているという苦しみではなくて、各音から推理された何か、その音から読み取った意味によって苦しんでわけです。

結局、心が受ける苦しみというのは、見えたもの聞こえたものが推理によって着色されることによって倍増するのです。

だからこの六識(意識)がもたらす推理力をうまく調整できさえすれば、この私の世界というものは、もっと楽になるんじゃないかなと思ったわけです。

推理が五感を覆っている

私の感覚でいうと、推理力によって、五感がマルッと覆われちゃってるような感覚です。

私が感じているのは、五感からの純粋な感覚ではなくて、推理に覆われてしまっている感覚。

それはつまり妄想であるとも言えます。

六識「意識」が受け取る意味によって、五感の純粋な感覚が覆われている。

だからもし、いちいちの推理を手放していくことができれば、もう少しこの世界は、静かに、シンプルになるかもしれないと思ったんですよね。

推理を手放すということ

先をよまない。

頭の中でいろいろ筋道を立てて、考えて想像しない。

不安だって推理です。

どんな小さな計画や、予想も推理です。

そういう一個一個の推理を丁寧に自覚し、意識的に手放してみてはどうだろうかと。

まぁ、そうそう簡単なことではなさそうですね。

推理を手放すこわさ

あらためて私は、推理によって、自分の未来を想像するっていうことが当たり前になってしまっているようです。

なんというか、推理するということが、自分にとって大事な一本の線として、ガッチリ自分につながっている感じがします。

その線を切ろうとすることは、なんか、命綱を切るような感じでこわいんですよね。

推理をしなければ未来は見えない

推理をしなければ、未来は見えない。

何もわからない。

それはそれで不安ではないか?

推理するから不安がくるのに、推理しないのも不安という矛盾。

おもしろいですね。

でもこれは、推理しないで生きるという自分を推理しているだけだから、不安になるのでしょう。

推理を手放すと直観が出て来る

先ほど、五感が推理によって覆われてしまっていると語りました。

だから感覚が純粋じゃないと。

それではその推理力を消していって、五感が、五感そのものになると、どうなるのでしょうか?

そうすると、私は、直観的になっていけるような気がするんですよね。

私は今、推理の反対の言葉は、直観なのではないだろうかと思っています。

だから推理を徹底して拒絶していくと、そこにあるのは直観だけになる。

推理がなくても直観がある

鈴木大拙も、直観というものは、悟りに繋がる大事なところだと、何度も何度も繰り返しています。

推理しないで生きていこうとすることは、こわいことかもしれない。

だけど、推理がなくても直観がある。

純粋な目、純粋な耳。

それで見て聞いて、そこから生まれる行動・働きがある。

推理を拒絶すれば、直観的に生きられるようになる。

なんかそんなところが面白いなあと思うんですよね。

2つめの未来

不安な未来っていうのは、基本的に推理で生まれている未来ですね。

だから推理を全くしなくなれば、未来に不安はなくなる。

まだ来てないものは、推理以外に捉えようがない。

推理を本気で手放そうとすれば、先のことなど、なにもわからないのが当たり前になって、不安もなくなる。

その時その時の直覚(直観)によって、ただ体が動いていくだけみたいな感じになる。

願いという未来の形

推理がなければ、未来もない。

そんなことを考えた時に、もしかしたら、未来ってもう1種類あるかもしれないなって思えたんですよね。

1つ目はこれまで話してきた推理による未来。

過去からの経験をベースに、自分の計らいによって構築される推理的未来

そして、もう1種類の未来っていうのが、願いなんですよね。

願いの未来。

推理に全く基づかない、単純で純粋な願い

これはもう、未来といって差し支えないだろうと。

本願力

それで、願いといいますとね、私なんかはやっぱり、浄土真宗の「本願」とかが出てきますね。

仏様は必ず私を救う。

絶対に救う。

そういう願いがあるわけです。

物事の系統だった推理をことごとくぶっ飛ばして、ただ救われる、必ず救われるっていう願いがある。

間違いない、もう救われるしかない!っていうね。

そういう願いの世界がある。

それを未来と呼ぶことも出来るんだなと。

意外と、願いってやつは、直観的な未来にあたるのかもしれないですね。

未来はわからない

未来のことはどうやってもわかりません。

どんなに推理が上手でも、わからないものはわからない。

推理は、自分という枠を決して飛び越えることができないものですが、なかなかに現実感のある未来を映し出します。

ところで、この推理というものを一度思い切って手放してみるというのはどうでしょうか?

もしそれが、できれば、未来の描きかたが、より柔軟になっていくんじゃないかなと思うのです。

たとえば、願いこそ未来。

なんか、素敵でしょ。

空淡、黒田明彦