私流「禅」

妄想をぶち破り、無心の世界に飛び込む・・・という話。

どうも、黒田明彦です。

この世界はすべて妄想である。

そう聞いて、「狂」を感じる人もいれば、「自由」を感じる人もいるのではないでしょうか。

私はどちらかというと「狂」を感じる方の人間ですが、だからこそ、この世界が不自由で苦しくてたまらないのかもしれません。

この世の言葉は全て妄想である。

今回は、そんな話です。

まずはこちらの動画をどうぞ

無心とは、妄想のない世界だ!妄想の世界をぶち破って、無心の世界に飛び込め!

それでは、補足解説をどうぞ。

「禅」は悟ってこそ「禅」

こんにちは、黒田明彦です。

「禅」体験について語っていこうと思います。

今回は無心について語ろうと思います。

私は、今、もっぱら鈴木大拙の本を読んでいますが、鈴木大拙は、「禅」は、悟ってこそ「禅」だと言います。

黙昭禅と看話禅

「禅」にもいくつか流派みたいなものがあるようで、只管打坐(しかんたざ)といって、徹底的に座禅をしていく流派もあります。

とにかく静かに静かに、みたいな感じで、座禅中心の「静」の禅。

黙照禅(もくしょうぜん)と言われる禅ですね。

もう一つは、禅問答とか、公案とかを師匠とやりとりして、それによって悟っていく。

座禅もするけれども、基本的には対話中心の「動」の禅。

看話禅(かんなぜん)って言われてる禅ですね。

その看話禅っていうものは、悟りっていうものを最終的なというか、絶対的な目標にしているようです。

鈴木大拙はこの看話禅の立場をとっているので、悟らないと「禅」じゃないと言っているわけです。

動きのない禅は禅じゃない

大拙は、動きのない、静の禅に対して結構否定的です。

というのも「禅」が、ただただ、一人で静かに静かに、完結していってしまうと、歴史的に残っていかないというか…。

「禅」が、社会というか、世界に直接貢献できるように動いていかなくては、と強い気持ちを持っていたようです。

「禅」による、はっきりとした利他がなければ意味がない

大拙は、戦争の時代にも生きている人ですから、世界平和に直接的に貢献できるようにと、高い志を持って強く、しなやかに生きていました。

そんな大拙には、座禅中心の静の禅ではなくて、対話による悟りを目指した動の禅が必要だったようですね。

悟れない私

さぁ、そういうわけで、悟らなきゃ「禅」じゃないって大拙は言うわけです。

しかしまぁ…、私は好きで大拙の本を読んでいるんですが、まったくもって悟れないんですよねぇ。

悟れない。

いやぁ、悟れない。

大拙の本は、読めば読むほど読めてくる感じはあります。

あっ、こういうことなのかな?

ふん、ふん、わかる気がする・・・と。

頭でわかるだけじゃ意味がない

しかしこの「わかる」は、頭だけでわかるということです。

大事なのは、頭だけでわかることではなくて、体験するということ。

「あっこれだ!」っていうか…、

「ここか!」ってなるというか…、

「ハッ!」って、こう目が覚めるようなものが、今の私にはないんですよね。

禅は、頭だけで概念的に理解できたとしても意味が無い。

悟りを直接、この身で体験できなくては意味がないのです。

悟りの体験は飛ぶ体験

大拙が言うには、悟りの体験というのは、

基本的には、徐々に徐々に学習が進んでいって、ある一定のところに達したときに「悟れた!」となる…わけではないようです。

そうではなくて、

ある一定のところまで学習を詰めて詰めていって、限界に達したその時に、足元にすごい大きな溝があるって言うんです。

どんなに学習を突き詰めていっても、その溝にぶち当たってしまうと。

そして、その最後の大きな溝を前にどうなるかというと、そこではマゴマゴするしかないそうです。

そして、そのマゴマゴしているときに、何かのはずみによって、背中を押されて、パン!っと、不意にその溝を飛び越えてしまう時が来る

パン!っと。

飛ぶんですと。

それが、悟りの境地に至る瞬間なんだそうです。

そして、その何かのはずみというのが、師匠との禅問答だったり、禅の公案だったりするわけですね。

地面に足をつけたまま、地面ごと飛ぶ

そういうのを読んでますとね・・・。

いやぁ私はまだ全然飛べてないよなぁと思うんですよね・・・。

たとえば、イメージの世界で、ふわふわと空を飛んで行っちゃうとか、そういうことなら結構得意な人もいるかもしれません。

しかし、禅の悟りはそうじゃなくて、地面に足をつけたまま、地面ごと飛ぶみたいな感じですね。

まさに、地面がひっくり返るような、そんな迫力の世界だなと思うんですよね。

なかなかそういう体験はできませんよね。

追い詰められてこその飛翔

それは相当に精神的に追い詰められてこそのジャンプみたいです。

そういう意味では私はまだまだ精神的に余裕があるんだろうなぁと思うわけです。

だけど、なんか失敗したら、そのまま谷底に落ちていってしまいそうな気がして、おっかないですよね。

無心とは妄想のない世界のことである

さて、ここから無心の話をしていきたいと思います。

悟りっていうことと、無心っていうことは、ほぼ一緒というか、同じような体験であると理解していいみたいです。

悟りがわかれば、無心もわかり、無心がわかれば、悟りもわかるという、なんかそういうもののようです。

というわけで、私は無心にも非常に興味があります。

無心とはどういう状態なのか?

さて、どういう状態を無心というのでしょう。

一般的に通じる無心という言葉の意味でいうと、何も考えずに夢中になって何かをやるっていう感じでしょうか。

しかし、それは、どうも禅でいう悟りとイコールの無心ではないらしいです。

あとは動物のように、本能のままに生きるということ。

あれを無心と言ってもいいのでしょうが、人間ならではの無心、悟りとイコールの無心となると、また違ってくる・・・。

じゃあ無心ってなんなの?という話ですが、それがよくわからないんですよ。

わかっていたら悟れているってことですからね。

すべては妄想である

鈴木大拙の本を読んでいると、いろいろびっくりするようなことが書いてあったりする時もあるんですけどね。

基本的に、自我というのは、人間の意識と無意識の両方に属しているとのことです。

ですから、人間は生きていると、いろんな場面、いろんなきっかけによって、無意識のところからポンポンっと、いろんなものが出てくる。

無意識のところから、意識下に何かが飛び出してくる

そういうのをですね、仏教(唯識論)ではすべて妄想だって教えるらしいんですよ。

そして、そもそも自我自体も妄想の最たるものであると。

自我を超えてやってくるものも、自我自体も妄想だとなったとすると、この世界はもう全て妄想じゃないですか!って話になってきちゃいますよね。

科学だって妄想

私は、精神保健福祉の現場で長く働いてきましたから、統合失調症の人の話を聞きながら、現実と妄想とを区別したりしているつもりでしたけど、実は、私のこの現実感こそが、全て妄想であったという、考え方が仏教にあるわけですね。

現代最強の学問、科学だって人間の妄想だと言ってしまえば、妄想なわけです。

全ては妄想である。

ここなんですよね、今回面白いなぁと思うのは。

全ての言葉は妄想である

全てが妄想であるっていうことは、どういうことかっていうと、言葉が妄想であるということです。

言葉が妄想であるってことは、どういうことかっていうと、言葉の意味が妄想であるということです。

常識的に、すべての言葉にはそれぞれ、客観的で適切な意味があると思われていますよね

それこそが妄想だというわけです。

科学が妄想だというのは、大体そういうことです。

言葉の相(すがた)と言葉の意味

さて、私は、折に触れ、言葉の相(すがた)っていう言葉を紹介してきています。

言葉には言葉の相(すがた)と言葉の意味があります

リンゴで言えば、「リ、ン、ゴ」という音、この言葉の並び、形そのものが、言葉の相(すがた)です。

リンゴの言葉の意味は、バラ科リンゴ属の落葉高木樹、またはその果実のこと、です。

私が今、言葉は全て妄想だって言っているのは、この言葉の意味の部分が妄想であると言っているわけです。

カウンセリング体験と無心

私はカウンセリングの訓練として、とにかく人から聞こえた言葉の相(すがた)、言葉の音をいかに正確に聞き取って、それをそのままに自分の声にできるかっていうことをしてきました。

今思うと、それって、実は無心になるための訓練であるとも言えるなと思うんですよね。

相手の言葉、相手に聞かせてもらった言葉の相(すがた)をそのままの相(すがた)で聞こうとしているときは、無心なのではないか?と思うわけです。

あの瞬間だけは、人間的無心、悟りの無心に近いと思うわけです。

私は私の言葉の意味の世界を生きている

逆に言えば、それができてない時、つまり相手の言葉を自分の言葉の意味で聞いてしまっているときは、無心になんかなりようもない。

私は、基本的に私の言葉の意味の世界を生きています。

無心とは、自分の言葉の意味から徹底的に、徹底的に離れることなのかもしれない。

だから、相手の言葉の相(すがた)をただ聞かせてもらって、それを自分の声にして、そのまま正確に届けようとしてる時は、無心である。

そのときだけは、聞こえた言葉を自分の意味で聞いている暇がないですからね。

言葉の意味の世界が崩れていく

そうすると、結局、自分の言葉の意味で出来ている世界が、バラバラと崩れていって、もうなんだか、わけがわかんなくなっちゃう世界。

そんな世界こそが、無心の世界なんじゃないかと思うんですよね。

そういえば、私のカウンセリングの先生も「私は昔、わかったということが全く言えなくなった時期があった」とか言ってたなぁ…。

私の言葉の意味で反応する身体

今の私は、全て言葉を聞いた瞬間、私の言葉の意味で反応する身体になってしまっているわけです。

というか、それは当たり前のことで、そうじゃなきゃこの社会のスピードの中では、生きていけないでしょう。

そして、だからこそ、この社会は生きにくいとも言えるのかもしれません。

言葉の意味がわからなくなる

言葉の意味が、ひとつずつ、丁寧に、わからなくなっていく

言葉の意味が、言葉の相(すがた)から、ちゃんと離れて別れていくようになる。

言葉をまず意味で聞かずに、まず相(すがた)で聞くようになる。

そういう反応が当たり前になっていく世界が、無心の世界なんじゃないかと思うんですよ。

言葉の意味の世界から自由になること

言葉には意味しかないと思っていると、この世界は不自由で息苦しい。

逆に、言葉には相(すがた)しかないんだ、と思えるようになるところで自由になる。

言葉の意味は全て妄想であり、ただ言葉には相(すがた)があるだけだってなってくると、科学的にはいろいろ矛盾してくるところもあるだろうけど、その矛盾を飲み込んでいかなければ、本当の意味での無心ではないだろうと思うわけです。

少しずつ少しずつ、

言葉の意味の世界から自由になって、

言葉の相(すがた)の世界に、没頭して、没頭して、没頭して・・・、

ある時パン!っと

飛べるんじゃないかなと思うんです。

まぁ、なかなか飛べないでしょうけどね。

はぁっ、悟れない、悟れないなぁ。

空淡、黒田明彦