こんにちは、黒田明彦です。
今回は、「禅」体験についてちょっと語っていこうかと思います。
思い通りにならずに、苦しむ毎日から、何とか救われていきたくて、仏教についていろいろ本を読んだり調べたりしていたら、「禅」っていう言葉に何度も出くわしました。
それで私なりに禅に興味を持って、私なりに自己流で禅を始めてみました。
その体験の中でいろいろと思い浮かんだ言葉を語っていこうと思います。
まずはこちらの動画をご覧ください。
それでは補足の解説記事をご覧ください。
私流「禅」
まず現時点で、私にとって「禅」というのが、何をすることなのかということを説明します。
それは、「何もしないをする」ということです。
禅と言えば、無になるとか、無心になるとか、無我になるとか、そのような境地を目指すイメージがありますが、それは、おそらく相当にたどり着くのが難しい境地ではないかと思うわけです。
というわけで、とりあえず今、私がやってみているのは、「ただ座って、何もしないをする」ということ、だけなのです。
座り方については、本に書いてあった座禅の座り方を参考にはしていますけどね。
何もしないと心がソワソワする私
この「何もしないをする」ということが、私にとってすごく大事な気がしているのです。
というのも、私は小さい頃から、何か常に心に焦燥感みたいものがあるんですよ。
何もしていないとき、ずっとソワソワソワソワしてしまう。
そのソワソワを感じないようにするためには、常に何かをやってなくてはならない。
そんな感じですね。
ADHDというわけではなさそう
そのソワソワは小さな頃に比べれば、大分マシになったのかもしれません。
しかし、そのソワソワは今もなお、私の心の中に存在します。
そういうソワソワ、焦燥、落ち着きなさを小さな時からもっているというと、ADHDなどの発達障害の症状を思い浮かべる人もいるでしょう。
しかし、この私のソワソワは、ADHDのそれではないような気がします。
もしそうだとしても、日常生活、社会生活に支障があるようなものではありませんでした。
幼稚園の頃も、小学生の頃も、静かにしていることはできましたし、不適切な場面で動き回ってしまって、人に迷惑をかけてしまったという記憶もありません。
ただ、いつも心の中にソワソワはあった。
それは確かなのです。
ソワソワはわりと簡単に誤魔化せた
何もしていないときの私の心には、常にソワソワとした焦燥感がある。
そして、そのソワソワを一番合理的に感じなくてすむ方法が、私にとってはテレビゲームだったり、動画鑑賞だったわけです。
それらは、なにせ一人でできるのが良いですね。
一人でゲームをやったり、動画鑑賞をすることで、なんかよくわからない心の、胸の焦燥感みたいなものをうまく誤魔化すことができた。
何かに集中しているときは、その焦燥には襲われなかったんです。
逆に言うと、何かに集中したり、何かに夢中になってないときは、常にその焦燥感にワァーッって襲われているような、そんな感覚があるわけです。
誤魔化せるが、消せているわけではない
その焦燥は、何かに集中したり、夢中になっていても、消すことができている、なくなっている、というわけではなく、あくまで誤魔化せているって感じなんですよね。
だから何をやっていても、常にソワソワの根っこ自体はあるということですね。
私は、放っておくと、その焦燥にワッと襲われてしまうものですから、とにかく常に頭や身体を動かしているという感じです。
ゲームをやったり、動画を見ているだけで、簡単に誤魔化せてしまうものですから、ここまでその焦燥に注目すること自体が稀でした。
ただ、常になんかやってないと落ち着かないっていう感じですから、脳ミソは常に疲れてるという感じはうっすらとありました。
しかし今回「何もしないをする」を始めたことで、そのソワソワとあらためて向き合わざるを得なくなったわけです。
無限の今に圧倒される
3時間とか、5時間とか、そういう長さで「何もしないをする」をやっていると、とにかく圧倒されるんですよね。
その時間を無限のように感じてしまうというか。
たとえばゲームをしたり、動画を見ていると、10分、20分、1時間、3時間という時間が、シューン!って過ぎていってくれるんですけど、「何もしていないをしている」ときの10分、20分はとてつもなく長いわけです。
本当にその時間は、無限にすら感じられる。
こんな無限の時間が、あと3時間も5時間も続くのか…って。
とにかく圧倒されてしまうんですよね。
終わってみると、一瞬
だけど、その「何もしないをしている」3時間、5時間も、終わってみると、実は、あっという間の出来事なんです。
「ふぅ」っていう、ただこの一息で、3時間5時間は過ぎている。
そんな感じです。
だけど、その3時間5時間の真っ只中のときは、まったくもって無限に時間を感じている。
この辺がおもしろいなぁとおもうんですよね。
無限の今と焦燥感
「なにもしないをする」と、時間を無限に感じる。
その無限の圧倒的な感じが、さきほどの私の胸のソワソワ。
自分の心、胸に、「うわぁーっ」て、ググッとくるあの感じ。
それにとても似ているんですよね。
この胸のソワソワとは、無限という感覚なのかもしれない。
どうやら私は、無限の今という感覚から、逃げよう逃げようとしている感じなのかもしれません。
なんだか、無限にやってくる圧倒的な今というものを感じないようにするために、ゲームをやったり、動画を見たりしてたような気がしてきたわけです。
あの焦燥というか、何もしない時に、「何かをしなきゃ、何かを埋めなきゃ!」って迫って来るようなあの感じって。
無限の今という感覚なのかもしれないなって。
無限の今はこわい
なんというか、無限ってこわくないですか。
この感覚わかりますかね。
まぁ、人間の生命、時間は有限です。
全然無限じゃないと頭ではわかっているんですけどね。
だけど、圧倒されるような無限を感じてしまう。
そして、それをこわくすら感じる。
いつまでも、いつまでもずっと続くんじゃないかという無限の今。
その今という無限が、身に迫ってくるような感覚。
絶望的に圧倒的に無限な今。
無限の今をふっ飛ばしてきた私
「何もしないをする」で、座り続けていたら、私はこれまでずっと、そういうものに圧倒されていたのかもしないなぁということがイメージできたんですよね。
ゲームや動画に夢中になっていると、このおっかない無限の今をふっ飛ばせる感じがするわけです。
無限の今を感じ、味わうほどの心の準備が、私にはなかなかできなかったんですね。
今になってやっと座禅という名のもとに、無限の今にそのまま圧倒されることを味わえるようになったということですね。
無限の今に飛び込んでいく
長時間「何もしないをする。」
それは私にしてみれば、本当にもう、無限の今に飛び込んでいくような体験です。
謎の心の焦燥の、真っ只中にいる感じと言いますかね。
何もしないで長時間座っていると、本当に時間が無限のように感じられます。
いつまでもいつまでも続くんじゃないかって。
それはまさに圧倒的な無限感です。
時間が無限になると空間そのものになる
時間に際限がなく、いつまでも続くという感覚になってくると、時間が時間じゃなくなってきます。
時間というものがなくなって、時間は空間そのものになってきます。
ずっと何もしないで座っていたら、なんか、そんな感覚もチョロッとだけ味わいました。
ただ一息で、またすぐ時間の世界に戻って来ちゃいましたけどね。
「何もしないをする」は心の訓練になる!?
「なにもしないをする」ってことは、圧倒的な無限の今に飛び込むということ。
それは私にとっては非常に新鮮な経験であり、心を鍛えることに繋がっているような気もしています。
ただ、その圧倒的な無限感に、心が狂ってしまいそうなイメージも浮かびますけどね。
自分の心が狂ってしまうのが先か、自分の心が鍛えられて、もうひとっ飛び成長するのが先かみたいな。
そんな感覚もあります。
だから、このチャレンジは若い内には、難しかっただろうなぁとも思いますね。
脳がクリアになっている
ちなみに「何もしないをする」をやり始めてから、朝起きたときの目覚めがすごく良いです。
それは、座禅をやりはじめてから、ゲームとか動画鑑賞をパッタリやめているから、それによって脳ミソがすごくクリアになっているのも関係しているかもしれません。
とにかく朝の目覚めがすごくいい。
スッキリ感がすごい。
あと、脳の余分な働きが減ったおかげで、記憶力が少し戻ってきたような気もするけど、気のせいのような気もしています。
「何もしないをする」
無限の今に飛び込む。
今の自分を死ぬほど変えてみたいと思っている人は、試しにやってみても面白いかもしれませんよ。
空淡、黒田明彦