どうも黒田明彦です。
今回は、以前語った「黒田明彦が死んで、私が生きる」について、もう一歩深めてみました。
私が黒田明彦を忘れると、私は、何者でもない何者かになります。
この何者でもない何者かには、仕事があるのでしょうか?というのが今回のテーマです。
語りながら考えてみましたが、結論は結構単純。
何者でもない何者かの仕事は…、
何者にでもなること、そして、何者でもない何者かに戻ることである。
なんか、ちょっと不思議な気分になる話ですよね。
まずはこちらの動画をどうぞ
何者でもない何者かに与えられている仕事(役割)とは?【赤肉団上に無衣の真人あり】
それでは、補足解説をご覧ください。
私が黒田明彦を忘れるということ
こんにちは、黒田明彦です。
今日も「禅」体験について語っていこうと思います。
以前、忘れるってことは、本当にパワーのあることなんだなっていうことを語りました。
そのときは、生きながらに死ぬっていうのは、どういうことなのかなっていうのも同時に考えていて…。
結局のところ、私が黒田明彦を忘れるということは、何者でもない私になるということ。
それはすなわち、黒田明彦が死んで、私が生きるってことである。
生きながらに死ぬってのはそういうことかなぁっていう話でまとまりました。
禅僧「臨済」の言葉
今回、またその辺りに繋がるところを語っていこうと思うのですが、「禅」の人に、臨済という、また偉い人がいまして…。
この臨済という人は、すぐにポカスカ殴るようなおっかない人だったみたいです。
その臨済が言っていた言葉に、
「赤肉団上に一無衣の真人あり」(しゃくにくだんじょうに、いちむいのしんにんあり)
という有名な言葉があるんです。
今回はこの言葉について語っていこうと思います。
赤肉団(しゃくにくだん)っていうのは、なかなか生々しい言葉ですが、これはつまり、肉体のことです。
ただ、私の理解では、赤肉団は、ただ肉体のことを指すだけではなく、その肉体にまつわる社会的価値や、責任、影響力みたいなものも含めています。
つまり、私が、黒田明彦と呼び、世間が黒田明彦と呼ぶようなものを赤肉団と言うということです。
無衣の真人
臨済は、その赤肉団の上に、無衣の真人(むいのしんにん)がいると言います。
無衣の真人。
何も纏っていない真の人。
何者でもない何者かがいる。
この「赤肉団上一無衣の真人」という言葉と、この前私が語った、黒田明彦が死んで、私が生きるっていうのが、私の中で繋がるんですよね。
自己同一化という言葉による説明
黒田明彦を忘れるということ。
それは、黒田明彦が死んで、私が生きるということなのですが、今回は、この辺りの感覚を自己同一化という言葉を使って、少し説明してみようと思います。
この私が、黒田明彦を忘れるというのは、どういうことかというと…、
今まで生きてきた、黒田明彦。
この黒田明彦と名付けられている身体や、社会的な信用や、価値、責任、そういうものこそ私である、としないということです。
自己同一化とは?
自己同一化というのは、簡単に言えば「これこそ私だ!」というものです。
もう少し迫力を出すと、「これこそ私だ!」となっていて疑えないものですね。
「これこそ私だ!」っていうふうに、自覚のあるなしに関わらず、自然に理解され、自己認識されているもののことです。
黒田明彦は社会的な存在
黒田明彦という名前のついた人間、身体には、これまでの黒田明彦の人生が連なっています。
これまで黒田明彦という名前の人間は、この社会で暮らしてきた。
ただ、それだけで完全に社会的な存在であります。
だから、この黒田明彦という名前と身体に自己同一化するということは、ここまで培われてきた、黒田明彦という社会的な存在こそ、私であると自然に疑いようもなく認識されている、ということです。
黒田明彦を忘れるということは、この社会的な存在である黒田明彦を忘れるということですね。
忘れるということは、拒絶・否定ではない
ちなみに、その黒田明彦を忘れるということは、「この社会的な存在の黒田明彦は、私ではないんだ!」というふうに、拒絶、否定していくのではありません。
やっぱり忘れるっていう、この微妙なニュアンスが大事なのです。
要は、この名前、この身体、その社会的な評価みたいなものこそが私であるっていう、それだけにならないということですね。
むしろそれは私の一部でしかないというか、仮の姿とも言えるような、私の衣、私の服みたいなものと考えられます。
それはつまり、何者でもない私が、黒田明彦という服を着ているみたいな感じ。
そんな感覚が、黒田明彦を忘れるってことであり、黒田明彦に自己同一化しないということなんですね。
黒田明彦という服を脱いだり着たりする
黒田明彦を忘れられるっていうことは、黒田明彦という服を脱いだり着たりできるってことです。
これが、黒田明彦にしっかり自己同一化しちゃうと、脱げなくなってしまうんですよ。
黒田明彦を忘れることができるということは、「何者でもない何者かである私」というのが存在するということに、目覚めるということでもあります。
ともかく「赤肉団上の一無衣の真人」というところ、なんか私は感ずるところがあるわけなのでした。
何者でもない何者かに仕事はあるのか?
ところで私には、ふと疑問がわきました。
黒田明彦を脱いで、何者でもない何者かになってしまった私は、今後、何に自己同一化していけばよいのだろうか?
宇宙に自己同一化していけばいいだろうか?
それとも、神とか仏に自己同一化していけばいいだろうか?
自己同一化の対象が必要なわけ
そもそもなんで私は、何かに自己同一化したがってるのでしょう…。
別に何者でもない何者かのままでいいじゃないかという感じですよね。
不思議ですよね。
私はなぜ、「何と自己同一化したらいいんだろう?」という迷い方をしているのでしょうか…。
少し考えてみると、どうも私は、何者でもない何者かとしての仕事を探しているような感じがするんですよね。
なんのためにいるんだろう?
宇宙と、自己が同一化されるのであれば、それによってなにか仕事が生まれるだろう。
神とか仏に、自己が同一化されれば、そこに何か仕事が生まれるだろう。
仕事は役割という言葉にも言い換えられます。
さて、この何者でもない何者かには、どんな仕事があるんだろう?
何をしていけばよいのだろう?
何のためにいるんだろう?
そうなってくるんですよね。
何者でもない何者かの仕事を考えてみる
さて、何者でもない何者かのまま、この私には何か仕事はあるのだろうか?
語りながら、俄然興味が湧いてきましたので、じっくり考えてみますね。
何者でもない何者か…。
何者でもない何者かには仕事があるのか、役割があるのか…。
・・・。
何者でもない何者かには実体がない。
過去も未来もない。
今しかない。
そんな何者かに仕事はある…のか…?
「何者でもないってことは、何者にでもなれるということでもある」みたいな言葉も聞いたことがある…。
・・・。
あぁ…だからまぁ…。
簡単に言えば、
過去も未来もない、今しかない、何者でもない何者かの仕事というのは、何者かになること、そのものなのだろうね。
何者かになり、また元に戻る
この今、私に向かってやってくる何かになる。
そしてまた、事が終わった後、何者でもない何者かに戻る。
そこを行き来する。
それだけなのかもしれないですね。
特別なことなど何もない。
たとえば今、黒田明彦にとって必要な何かが起これば、それを解決し得る黒田明彦になって、それを処理する。
そして、なんか落ち着いたら、そのときの黒田明彦を脱いで、また何者でもない何者かに戻る。
今必要な何かになる。
もう少し言うと、こちらに向かってやってきたものに対して、応じられる何者かになる。
そして、応じ終わったら、また何者でもない何者かに戻る。
「何者か」と「何者でもない何者か」を行き来するのが、「何者でもない何者か」の仕事なのでしょうね。
必要なだけ、必要な何者かになる
ここで思うのが、何者かに、なりっぱなしになるというのは、なんか違う気がするんです。
やっぱり、戻っていくというのが大事なんです。
行き来できる感じというか。
その都度必要な何者かになる。
自分の意思を超えて何者かになってしまっても、その「何者か」から、「何者でもない何者か」に戻ってくる。
必要なだけ、着込んで脱ぐ。
知らず知らずのうちに着ちゃったものも、ちゃんと忘れずに脱ぐ。
それを繰り返すのが、何者でもない何者かの仕事なのかなぁって気がしますね。
待つのも1つの仕事
だから、何かになるのをただ待つというのも1つの仕事なんでしょうね。
宗教的体験とか、霊性的体験というのは、受け身が基本だとも聞きますしね。
そもそも積極性というか、「私が~!」ってこう、何か意思が生まれるときだって、別に自分の力でその意思を生み出してるわけじゃありません。
生まれるときは生まれるし、生まれないときは生まれない。
なるときはなるし、ならないときはならない。
だから、何者でもない何者かの仕事は、なったものになる。
そして何者でもない何者かに戻ってくる。
そういうことなんですね。
何者にでもなる
向こうからやってくる何かに、応じられる何かに、とにかくなる。
何者にでもなる。
「私は何者でもない何者かなので、何者にもなりません!」っていうのはちょっと違うと思うんです。
やっぱり、何者にでもならないと。
そしてそれは、いつでも何者でもない何者かに戻れるからこそ、だと思うわけです。
そこに、安息と自由、自由自在があるわけです。
さてさて、次は何者になるのでしょうか
何者にでもなって、そして、何者でもない何者かに戻る。
そこを行き来するのが、仕事なんです。
なんかそんなふうに生きていけたらいいかなぁと思いますね。
できれば、その日が終わるごとに、何者でもない何者かに戻っていきたいものですね。
私の場合は、座禅のたびに、何者でもない何者かに戻りたいものだと思います。
さて、さて、次は一体、何者になるのでしょうか。
空淡、黒田明彦