親鸞に会いに行く道

人間を超えた大いなる慈悲に出会うために生きよ【親鸞に出会う道vol.7】補足解説記事

自分の身体と心の奥の奥にあるもの。

そういうものの呼びかけに気づいていくことが、この人生を本当の意味で豊かにしていくのかもしれません。

今回の黒田の語りは親鸞とは直接関係ありませんが、親鸞ももしかしたら触れていたもの、黒田と親鸞が繋がれるものに、ほんの少し言葉が触れているかもしれません。

大いなる慈悲。

感じるところ、あるでしょうか。

まずはこちらの動画をどうぞ

人間を超えた大いなる慈悲に出会うために生きよ【親鸞に出会う道vol.7】

それでは、補足解説していきます。

人間・生きる・苦しい

今日も親鸞に会う道という事で語っていきたいと思います。

今回は直接親鸞とは関係ないかもしれませんが、親鸞に会う道の途中で、いろんな出会いがありますので、その1つをまた話していこうかと思います。

仏教の基本的な考えかたって、生きているってことは苦しいことであるという事から始まります。

四苦八苦とかも言われていますね。

「もっと明るく考えなよ」とか「前向きに生きなよ」とか言いたくなる人も多いとは思いますが、私個人としては、人生が苦しみに満ちてしまうのは至極当然のことと思えています。

ただ、その自覚は、人それぞれの感性による、というところは間違いないでしょうが。

人間の世界は3つに分かれる

この人間の生きている内的世界を3つに分けて考えることができるようです。

1つは知識・知恵の世界

頭で考える世界と言いますか、ロジック・知的論理の世界。

科学もそうですね。

現在の人間の世界を当たり前のように構成・支配している論理の世界。

常識もこの範疇です。

この知的論理・常識の上で、地球は宇宙に浮かんでおり、自転しながら、太陽の周りを公転しているというわけですね。

2つ目の世界は、感覚・感性の世界

目で見て、耳で聞いて、鼻で匂って、舌で味わって、触って感じる。

勘がはたらくとかもそうですし、見えないものを感じるというところもそうですね。

そういう感覚・感性の世界があります。

身体で感じる世界とも言えますね。

感覚・感性が鋭い程生きづらい

物事を知的に理解する能力に差があるように、感性にも、その鋭さは人によって違いがあります。

世の中には、知識欲求が非常に強くて、それを蓄えていくのがとても得意な人もいますし、感性が鋭くて、非常に敏感に感覚的情報を感じ取っている人もいます。

しかし、実はこの感性が鋭ければ鋭いほどに、人生は生きにくくなるようです。

私は、この間、本を読んでいてあらためてそうなんだなぁと納得、感心してしまったのですが、感性が鋭いということは、ある意味では全ての事象、物事を感覚的に分別、差別していく力が強いということなのだということです。

感性が鋭いと感覚的に解っちゃう

感性の鋭さっていうのは人間の分け隔てる力、分別の力を強めるんですね。

感性が鋭い人は、物事を分け隔てていく、決めていくっていうことがとても上手なんです。

各感覚が鋭いことで、物事1つ1つを綺麗に分けていける。

まぁ、より正確に言うと、分けたくなくても勝手に分かれちゃうというような感覚かもしれませんが。

だから私っていう感覚が、他と分かれてはっきりしやすいし、相手を見ると、相手の感覚も、他と分かれてはっきり、くっきりしているように感じられちゃう。

ものが分かれていくということは、「これはこういうことだ」と、解ってしまうということでもあります。

そうやって相手のことが解りすぎるから、感性が鋭い人は、相手と自分の区別がつかないような感じになっていくわけです。

分かれるということは、解るということ

相手のことが解りすぎるとか、自分のことが解りすぎて、我が強すぎるとか、そういうのは感性の賜物なんですね。

しかし、そうやって、いろんなものが丁寧に分別されていってしまうことは、そのまま苦しみの種となってしまいます。

人間はとにかくいろんなものを解りたい生き物ですが、解りようのないものを解ったと思い込んでいる時に、苦しみはやってきやすいようです。

ともかく、感性っていうのは世界と私を分ける力のことと言えるんですね。

このあたり、私としてはなるほどと納得してしまいました。

感性の世界は確かな世界というわけではない

私は知識の世界よりも、感性の世界の方が得意というか、そっちのほうにいつもグイグイ引っ張られていくほうです。

あらためて知的欲求というものがほとんどないんですよね。

ですから私としては、知識の世界よりも、感性の世界の方がより確かな世界だ、真実の世界だ、みたいな感じで生きてきています。

しかし、残念ながら、感性の世界が真実の世界あるというわけではないようです。

感性で捉えている世界というのも、有って無いような世界なんです。

目で見て、耳で聞いて、鼻で匂って、口で味わって…。

その全ての感覚は、脳で再構成されているらしく、感覚がありのままの事実を捉えているわけではない。

というわけで、感性がどれだけ鋭くても、それでそのまま事実を捉えられているわけではないのです。

解ったところはあくまで、私の解り方である

そもそも知識と感性は切り離し難く、感性は知識の影響も受けます。

また、その他もろもろの影響によって、感性による自分を中心とした事象の分け方も、変わってきてしまうのです。

だから、どんなに感性が鋭く、事象、物事がどんなにハッキリくっきり分かれて、解った実感があったとしても、事実を捉えているわけではない。

それはあくまで、そう分かれて解った、私のところにすぎないと。

そして、あくまで私のところで解っただけに過ぎないにも関わらず、そこで十分に苦しくなっていけるのが人間ということですね。

どうしても解ってしまう私

感性の鋭い人の前では、事象・物事がどんどん勝手に分かれていってしまう。

そして、解らないものまで解ってしまう。

それゆえ、苦しくなる。

私に解ったところは、私の感性で捉えた事象・物事に依るものであって、私の世界だけの出来事である。

だけど、それが理解できたところでこの苦しみは変わりません。

この今も目の前で事象・物事は分かれていってしまう。

そして、私はそれを解り続けてしまう。

分けて解り続けた先には

感性の鋭さによって分別していく、いろんなことを分け隔てていく、そういうふうに世界を捉え続けていくと、わりと…、

「人間の生きる意味なんてものはない」

「人間の存在は無意味だ」

みたいなところに行きついちゃうようです。

生きる意味などない、自分の存在価値などない。

「そもそもこの宇宙自体に価値も意味もないのだ!」

これでは苦しいですよ。

さて、感性の鋭い人は、そのまま、この苦しみの人生を歩むしかないのでしょうか。

第3の世界の話

どうやら、苦しみは、苦しみのままで終わらないこともあるようです。

最初に、人間には3つの世界があると書きました。

  1. 頭、知識、知恵の世界
  2. 身体、感性、感覚の世界

実は、その2つの世界を包み込んでいる第3の世界があるようなのです。

それが、霊的な世界です。

霊と言っても、お化けのことではありません。

神やら仏やら、人間を超える大いなる意思を捉えて、一体化するような、そんな世界のことですね。

「人生とは苦しみの世界だ」と感じられるぐらいの感性に至っている人は、この第3の世界に開かれていかない限りは、苦しみからは解放されることは難しいようです。

人間を超えると人間が見えるという理屈

この第3の世界、霊的世界は、人間を超えているところに触れていく世界ですから、この第3の世界に開かれていくと、第1、第2の世界を俯瞰することができるようになるようです。

第1、第2の世界を俯瞰して見ることができるようになると、人間が何故生きるのか、その目的みたいなものも感じることができるようになるんですって。

絶望から希望へ

私にしてみれば、①頭・知識・知恵の世界があまり得意ではないものですから、②身体・感覚・感性の世界に希望を求めた…。

私は、この感覚・感性の世界を生きることで、自分の価値や、生きる目的を探していたようなところもあります。

しかし、どんなに感覚的に生きようとしてみても、絶対的な自分の価値や生きる目的などないとしか思えず、そもそも、この感性自体が、正に苦しみの種だったと知ります。

これではもう、絶望です。

しかし、第3の世界が開かれれば、絶対的なものに触れられると。

そして、人間の生きる目的やら、価値やらもわかってしまうと。

なんかそれって希望だよなぁって、私は思ってしまうんですよね。

今いる世界を飛び越える

逆に言えば、ある程度感性の世界に開かれてしまった人間は、神やら仏やらの霊的世界、人間を超えた何かと繋がっていける世界に見開かれていかなければ、苦しい人生を苦しいままに生きるしかないみたいですよ。

まぁ、現代は、その苦しみを誤魔化すための手段がたくさん用意されてはいるようですけどね。

ある程度の分別力と言うか差別力というかを感性によって持ってしまっている人は、それを飛び越えないと苦しい。

今いる世界を飛び越えないと苦しいよって話なのです。

第3世界の大慈悲を想う

霊的世界は、人間を超えた大いなる知恵と、人間を超えた大いなる慈悲で構成されていると考えられているようです。

私はやっぱり、大いなる知恵よりも、大いなる慈悲に惹かれますね。

大いなる慈悲というと、私はなぜか懐かしい感じがします。

ずっと憧れていたような、だけど、ずっと一緒にいたような不思議な感じですね。

大いなる慈悲、大悲

人間を超えたところで、人間にすごい大きな大きな慈悲が向けられているんだ、みたいな。

ずっとずっとずっと昔から、人間が望んできた1つの望みであり、希望であった。

それが人間を超えたものになって、ずっとずっとずっと紡がれてきた…みたいな。

なんかそんな世界があるんだって思えると、やっぱりちょっと嬉しいなって思えるんですよ。

このどうにもならない人間の苦しみというのをなんとか開放したい、なんとか突破しよう、なんとか超えて行こうっていうふうに、

ずっとずっとずっと願われ願われ願われ続けてきて。

人間の奥底に、ずっとずっとずっとあってっていう。

どうしたらこの苦しみを抜けられるんだぁって、みんなで、人間が生まれてからずっとずっとずっと考えてきた。

それが人間を超えたところで、不思議と紡がれていく…、みたいなね。

そういう本当に大きな願いというか。

ずっと願っているし、ずっと願われている。

それは同時なんです。

その辺の感覚みたいなところに触れていけると、なんか、嬉しくなるんですよね。

一人じゃないんだなって思えるし、

なんか願われてるんだなぁ。

なんかみんなで願ってきたんだなぁみたいな。

あまり人間っぽくなってしまうと、パワーが落ちる気がしますけどね(笑)

とにかく、なんかそういう感覚に出会っていけると、苦しい世界に生きながら、人間のままで救われていけるような気がするんですよね。

大悲に出会うために生きよ、まとめ

この人間のどうしようもない苦しみを、

なんとかしよう、なんとかしようという、

人間を超え、

時空を超えた、

超強烈な願いの力。

苦しみが強くなればなるほど、大悲の力も強くなる。

逃さない、逃れられない。

もうね、救われるしかないんだよ、人間は。

これは、まさに頭も身体も超えた、霊的体験。

理屈でも、感覚でもねぇんだ。

ただ、救われるしかねぇんだよ。

第3の世界ってのは、そういう世界なのかもしれません。

空淡 黒田明彦