あなたは死について考えることはいけないことだ思いますか?
私自身は、以前はわりといけないことだと思っていました。
死のことをクヨクヨ考えたらうつ病になってしまう!みたいな(笑)
今の私は、死にたいとか死にたくないとか、死について考えることって、すごく自然なことだと考えています。
変わるもんですね。
さて、親鸞に会う道ということで、親鸞や仏教に触れている私ですが、死の恐怖、死の絶望を超越することが、仏教の1つの大きな目標であると私は思っています。
そして、死の恐怖と絶望を超越するには、死とは何なのか、私とは何なのかということをあらためて深く考えてみる必要があると思うのです。
このあたりは、当然親鸞も人生をかけて考えたところであろうと私は思うのです。
まずはこちらの動画をどうぞ
死の恐怖と絶望を超越したければ、自我中心の人生を超越せよ【親鸞に会いに行く道vol.12】
それでは、動画の補足解説記事をどうぞ。
自我中心の人生を生きている私
今回は私の自己中心性というか、自我中心性っていうところについて、ちょっと語っていきたいと思います。
仏教が突破しようとしている大きなテーマの1つは、生死の問題です。
人間が生まれ死んでいく。
その苦しみをどういうふうに突破していくかっていう話です。
死んだ後のことは誰にもわからない
生きている人間は、誰も死んだことがないわけですから、死んだ後どうなるかなんてことは誰にもわかりません。
ということは、死についての不安や苦しみは、いろいろイメージしたり、何かを信じることでしか突破できないということです。
たとえば、現代人の多くの人がそう思っているであろう、死んだ後は無になるという考え方も、事実かどうかは誰にもわからなくて、1つのイメージであり、1つの信じられていることであり、仮説にすぎません。
生きている人にとって、死はどうしてもわからないものなのです。
ですから、必ず死ぬことだけはわかっているこの人生を、安心とまでもはいかなくても、少しでも穏やかな気持ちで生きていくためには、ときには合理的思考や科学的思考から離れる必要があると思うわけです。
常識は死の恐怖から救ってくれない
常識の範囲内で死を捉えていては、死は苦しいままです。
死がただの恐怖や絶望にならないように発想していくためには、人間の奥底にある霊的体験に触れていかなければならないだろうし、思想・哲学を非常に柔軟に伸ばしていく必要があると思うわけです。
というわけで、私はここのところ、霊的経験にまで伸びた、死にまつわる思考・思想につい、聞いたり読んだりしているわけですが、そうすると、私にたくさんの言葉が思い浮かんできます。
これから、その辺りについて語り進めていきますね。
私は宇宙そのものである、が嫌なんだ
たとえ、この私の身が朽ちてしまっても、私というものは、宇宙の一部に戻っていく。
私の身体は宇宙そのものである。
また、私の生命は宇宙から授かったものでもある。
死という段階に突入すると、ただそれらが宇宙に還っていくだけである。
死んだら私は、宇宙の一部となる。
だから、ずっとなにかしらに繋がっている。
私という全ては、死によって消えていくのではない。
私は生まれる前から宇宙だったし、死んでも宇宙に戻っていくだけだ。
宇宙は、私という段階を経て、また宇宙に還っていくだけなんだ。
それじゃ、嫌なんだ
こういうイメージ、わからないではないんですよね。
自我の存在しない宇宙とは、そもそも絶対平等の世界。
死は、絶対平等の世界に、戻っていくっていうだけなんですよってね。
まず、これがですね、私は嫌なんですよね。
というか、それでは意味がないなと思っちゃうのです。
というのもですね…。
自我こそ私
私には、死によって、今のこの自我というものが、無くなってしまうのであれば、たとえ次に自分がどんなものに変わっていったとしても、意味がない、関係がないっていう感覚があるのです。
あくまで私が私と呼んでいるのは、この私の意識、この自我なんですよ。
生まれる前の私、私が死んだ後の私を宇宙的な私としますとね。
宇宙的な私は、私(自我)にしてみれば私(自我)じゃないし、
私(自我)がいなくなった後の宇宙的な私も、私(自我)ではないんです。
この私(自我)というのが消滅するっていう時点で、もうそれは、私(自我)にとっては死だなぁっていう感じがあるわけです。
だから、たとえ私というものが、形を変えて繋がっているとしても、そんなんどうでもいいという感覚なんです。
この私(自我)じゃなくなるっていう時点で、私(自我)にしてみればどうにもならないほどに耐え難いのですから。
そういう感覚があるんですよね。
自我中心の人生
私は今、まさに自我中心の生き方をしているようです。
涙になるほど、抗い難いほどに。
私は、この自我を失うのであれば、それは私にとっての死であって、そうなってしまったらもうおしまいだぁみたいな感覚が、どうしても強いのです。
この自我こそが、私であると。
つまり、今のところ、宇宙は私ではないっていう感覚が非常に強いんです。
今の私にとって、宇宙は私と対してあるものであります。
この自我が無くなれば、宇宙と私はイコールになるんだというのはわかるんですよ。
でも私(自我)が無くなった時点で、別に私(自我)にとってそれはどうでもいいことになってしまうんです。
そういう感覚がやっぱり非常に強いんですね。
自我執着という感じでしょうか。
その辺りを指して、死が恐いとか、逆に死にたいとかって言っている感じです。
自我は死後も続くとは思えない
我でいっぱいの私には、宇宙がどうとか、どうでもよろしいと。
なんとも愚かで小さな私を感じています。
宇宙的規模でものを見たときの存在というのは、それこそ、何が生まれようが、何が死のうが、大した問題ではなく、宇宙の一部としてただ再構成されていくだけです。
最初からたった1つの絶対平等の世界です。
だけど問題なのは、私には、一度生まれたこの私という自我が、死んだ後も続いていくとは、到底思えないということです。
だって私には、この私(自我)になる前の私の記憶がないのですから。
前世の記憶が現世のごとくバッチリあって、この私の自我の記憶がずっと紡がれてきている実感があるのであれば、私っていうのは、死んでも終わらないんだなっていうことが疑いようもありません。
しかし、今のこの私は、黒田明彦という名前でやっている人生以外の記憶がないのですから、この私は、黒田明彦が生まれたときに始まって、黒田明彦が死んでいくときに終わる。
少なくともこの私という自我は、そういうふうな終わり方をするっていうことに、現実感があるわけです。
自我中心的思想・思考
自我が生まれる以前の私も、自我が無くなった後の私も私ではない。
だってこの私っていうのは、自我そのものなんだから。
これが今現在の私の、自我中心的思想・思考なんです。
ですが、まぁ、この思考でいるうちは、私にとっては死はどうやってもこわいものだし、絶望だし、消滅以外のなにものでもなくなってしまうのです。
必ず死ぬことがわかっているこの人生においては、私という存在を自我中心に考えているうちは苦しいままだろうなと思うのです。
というわけで、発想としては、自我じゃないものをできるだけ私の中心、自己の中心にもっていってみてはどうだろうということになっていきます。
自我中心じゃなくなれば、私は不滅
そもそもこの黒田明彦という自我こそ、仮の姿というか、それこそどうでもいいものと感じられる瞬間が増えていけば…。
恥ずかしながら現在の私は、この自我以外のものはどうでもいいというのが基本的な感覚なんです。
そこが逆転して、この自我こそどうでもいいとなってくれば、死についての感じ方も変わってくるように思うのです。
私の身体も宇宙であるわけですし、自我を中心に考えなければ、私というものは死にません。
まさに不滅です。
それは私が宇宙になるということなのですから。
どうにもならない自我衝動の強さ
自我以外はどうでもいいっていう、自我中心的発想の私。
どうでもいいと言いましても、この自我を生かすためには、どうしても周りの人は必要ですので、なんでも邪険にできるわけではありません。
この自我を生かすために、なんとか良い人であろうとしたりするものです。
しかしまぁ、とにかく自我自我自我自我と。
この自我をなんとかしよう、この自我をなんとかしようという強烈な衝動。
抗い難い強烈な自我の衝動。
この衝動の強さによって、私には宇宙がどうとかっていうのが、うまく感じられないというか、実感できないんですよね。
私は宇宙のプロセスなんだっていうところで、全然収まっていかない。
果たして、この私の自我中心の世界が、変わっていくなんてことがあるのでしょうか?
自我中心の世界が変わるとき
基本的に年齢とともに自我の衝動が衰えるというところはあるかと思います。
年をとればとるほど世界が穏やかになっていくイメージが私にはあります。
それも1つの仏の慈悲かなと思っちゃいますね。
しかし、もう1つ。
自我中心の世界が変わるとしたら、やっぱり時空を超えて紡がれてきた智慧によってですね。
人間ですもの。
自我衝動を弱めていくための智慧
さて、この自我衝動を弱めていくための智慧。
その1つが、やっぱり他力本願だったりするような気が、私はするのです。
絶対他力
自力を頼らず、徹底して仏様にお任せするって発想。
自分の計らいを意識的に捨て、仏様の計らいにお任せする。
それを常日頃から心がけることで、自然と人生感覚が、自我中心から、仏様中心に変わっていく。
結局本気で仏様を信じるには、自我を捨てなくてはなりませんからね。
これがなかなかできません。
常にこの私を大いなる仏の力(宇宙の働き)にお任せする。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
仏様の計らい・大慈悲に、私は既に掴まれている。
仏様の計らいによって、ただ私は生かされている。
そういう言葉が、常に聞こえてくる私になる。
自我を捨てるよりも、挿げ替えるという発想
基本的に自我を捨てるというか、少しでも薄くするには、自我以外の何かを自己の中心に据える意思が非常に大事になってくるということになります。
この私の自我の衝動はとてつもなく大きい。
だから多分、自我をただ捨てて、空洞のようなものになろうとするよりも、何か違うものに挿げ替えようとするほうが上手くいきます。
これが、仏様の力を借りて、仏様になるということであり、先人の知恵です。
相手を中心にできているとき、自我中心ではない
もう1つ、私にはこれまでの人生の中で、自我を捨てられたというか、薄くできた、もっと正確に言うと、自我を置いておけたという体験があります。
それは、カウンセリングの訓練をしているときのことです。
私がずっとやって来ているカウンセリングというのは、一般的には、来談者中心療法(クライエント中心療法)と言われているものです。
実は、この来談者中心療法の訓練をしているときは、私は自我を置いておけているというか、自我の弱まり、自我が薄くなることを体験できるのです。
私がカウンセリングの訓練として徹底的にやってきたものの1つが、相手とのやり取りの中で、一生懸命相手の言葉の相(すがた)を追っていくということです。
ただ、相手の言葉の相(すがた)に集中する
相手が声にした言葉をそのままの相(すがた)で聞かせてもらう。
そのままの相(すがた)で受け取っていくってことを徹底します。
私のカウンセリングの先生は、厳しい口調で指導したりは全くしませんが、現実そのものが厳しかったですね。
私は、本当に相手の言葉をそのままの相(すがた)で聞けないのです。
この現実に何度もぶちのめされました。
相手の言葉の相(すがた)を正確に聞こうとし、そしてそれをこちらの声にして、相手に届けようとする。
やってみればわかりますが、本当に全然できないんですよ。
本当に全然できないものだから、相手が声にした言葉の相(すがた)に全神経を集中せざるを得ない。
ここなんです。
この時、この瞬間だけは、結果的にこちらの自我が置いておけていた、弱まっていた、薄くなっていた。
もう、相手の言葉に集中しているときは、自我の言葉を聞いてる暇なんて少しもないんです。
その経験こそが、自我中心ではない、クライエント中心、相手中心の人生の瞬間と言えるのでしょう。
自分以外の言葉を中心にできているときは、自我を置いておくことができる。
これが私の体験です。
逆にいうと、超集中して自分以外の言葉を中心にしなければ、対人関係において、常に自我は、ドン!と前に出てきてしまうだろうと思いますね。
仏様中心
相手の言葉の相(すがた)中心
そこに意識して集中している瞬間は、自我を置いておけて、自我中心の苦しみから逃れることができるような気もするなぁと思うんですよね。
自我中心が救いの時期もある
ところで一方で、ですね。
私はカウンセリング学習に初めて出会ったときに・・・。
カウンセリング体験によって、こちらの自我、自我中心的世界をすごくすごく大事にしてもらえたなぁって気がしてるんです。
それは、こちらが聞いてもらう立場になったときのことですね。
「自我中心的でいいんだよ、そこから始まるんだよ」って、言ってもらえたような気がして、すごくそれで救われてきたような気がするんです。
何が中心なのかわからない、もう訳の分からない混濁の世界を生きていて、苦しい苦しい苦しいで始まって。
そこでカウンセリングに出会って自我中心世界を許してもらえた。
「どこまでもあなた中心よ。」
「そこは、あなたの世界、あなたの世界なのよ」って、どこまでも自我中心を許してもらった。
そこを経て、やっと次の段階として、今度はその自我中心の世界を手放していけるようになるといいますかね。
なんかそんなプロセスになっていくのかなぁって気がしているんです。
自我中心がすごく大事な時期はある。
だけど、そこも終わっていく。
そして次は、仏中心
自我中心で、喜び、苦しみ、散々足掻いたら、今度は自我ではなくて、もっと大きなもの、無限なるものを中心にした生き方を求められるようになっていくというか。
自我中心から、仏中心に自ずから変わっていく。
そうなれば、私はもうちょっとだけ、宇宙と一体化できるのかなぁって。
なんかそんな気がしているんです。
自我が終わった時点で私はもう無くなる。
自我が無くなったらもう一巻の終わり。
そう思わなくてすむようになるかなぁって気がするんですよね。
空淡 黒田明彦