親鸞に会いに行く道

死のことは誰にもわからない、だから死の先に信じるものを選べるんだ【親鸞に会いに行く道vol.3】の補足解説記事

親鸞に会いに行こうとすると、自然に仏教にふれることになります。

仏教にふれると、自然と死についてふれることになります。

仏教の死生観は、「生死」と言われています。

生と死は別のものではなく、表裏一体、切り離せるものではないと。

人間は、生きながら、刻一刻と死んでいる。

興味深いですね。

ただ、今回黒田は、その辺の話は置いておいて、人間が死んだ後どうなるか?というところについて語っています。

「死んだ後?そんなの何もないに決まっているだろ?無だよ、無!」

私のように、こう考えている人は、読んでみる価値があるかもしれません。

まずはこちらの動画をどうぞ

死のことは誰にもわからない、だから死の先に信じるものを選べるんだ【親鸞に会いに行く道vol.3】

それでは、補足解説していきますね。

仏教にふれている私のところ

ここのところ、親鸞に出会う道ということで語っています。

今私は、これまでになく親鸞に出会いたがっていますので、仏教に関わる本やyoutube動画を沢山見ています。

しかし、まだまだ全然親鸞には出会える気配がありません。

ただ、どんどん仏教の智慧については、ふれていっている感覚はありますね。

仏教は語る人によって変わる

仏教と言っても、親鸞と言っても、それをいただいている人、語る人によって、全然味わいが違うなぁというのが、あらためての感想になります。

というわけで、今の空洞の私は、あくまで最近読んだ人、見た人の仏教に影響を受けているということになります。

だから明日にはまた違うことを感じ、考え、語っているかもしれません。

仏教の一番の目的って?

仏教の一番の目的ってのはなんなのかっていうところで、今の私の読めていることの1つに、「生死の一大事」を克服、解決することであると、いうところがあります。

生死の一大事

死んだ後人間がどうなるのか?どこに行くのか?ということ

この問題を解決するのが仏教の目的である、そう言っている人が多い感じです。

人間が一番おそれているもの

人間が一番おそれているもの、そして現代科学では解決できないもの、それが死なんですよね。

現代の医療では、死ぬ時期を遅らすことはできても、人間を死なないようにすることはできません。

そして、死んだ人を生き返らすこともできない。

だから、死を主観的、体感的に語ることができる人、教えることができる人は一人もいないです。

臨死体験までは語れる人はいるかもしれませんが、臨死と、完全な死が近いものなのかどうかすら誰にもわかりませんよね。

死んだらどうなるかは誰にもわからない

死んだらどうなるかってことを知っている人は誰もいません。

人類が始まってから、死という概念が生まれて、死について考える人は何人も何人もいたでしょう。

しかし、実際死を解き明かせた人はいません。

きっと生きている人間には無理なんですよね。

だから死んだ後、どうなるのかも含めた、死全体のことについては誰にもわからない。

死の苦しみから解放されるには

その誰にもわかっていない死、からやって来る苦しみから解放されるには、何かを信じるしかないんですよね。

死の苦しみから逃れる、解放されるためには、どうしても信仰が必要だということは、1つの事実ではないでしょうか。

たとえ、どんなにきらびやかな人生をおくることができていたとしても、死の恐怖と死の絶望はみんなに平等にやって来ます。

現代人は死の恐怖に疎いのかも

しかし、現代人は…というか、とくに私は死の恐怖に疎いように思います。

もっと死ぬということに問いを持っていてもおかしくないのに、死ぬってことを考えることが極端に少ない。

私が感じている現代の考え方で言うと、死のことは考えない方が健康的であるという感じではないでしょうか。

死についてあーだこーだ考えないでいられる精神状態のほうが健康である。

少なくとも私は、誰に教えられるでもなく、そのように感じて来ました。

しかし、あらためて、私なりに仏教にふれていくと、はたしてそうなのかな?と、疑問を持てるようになってきたわけです。

死ってもっと身近なものじゃないだろうか?

仏教にあらためてふれるうちに、死に今のうちから向き合っておかないと、実はこの今を元気に生きることって難しいんじゃないだろうか、そう感じてきたわけです。

私を含めた現代の人は死に関して鈍くなっている。

むしろ、死を身近なものじゃなくすることで、バランスをとっている。

現代人の豊かな暮らしは、表面的にはそれを可能にするのかもしれません。

必ずおとずれる死がこわくはないのかい?

だけど、実際人間が生まれたからには、死ぬっていう事実は変わりません。

この今も、死に向かって一歩、また一歩と歩いているわけです。

死を概念化できてしまう人間は、誰しもその恐怖を常に潜在的にもっているのではないでしょうか。

いつ死ぬかもわからないし、死んだらどうなるかもわからない。

人間に生まれてしまうと、常にその恐怖を無意識的にもっている。

死と向き合わずに真の幸福はあるだろうか?

人間が真の幸福を求めるのであれば、死に対して、もっと真摯に向かい合わなければならないのかもしれません。

お金持ちになったり、異性にモテたりする術なんかよりも必要なのは、どれだけ生きてるうちに死と向き合って、死の恐怖を克服できるか、なのかもしれません。

そう感じるのは、私がある程度の年齢に差し掛かってきたからなのかもしれません。

しかし、若い人の中にも、自分の身近な人、自分の大好きな人と死別している場合は、その死の問題をリアルに突きつけられている人はいるかもしれませんね。

おそらく死について鈍い方が人間は脆いと思うんですよね。

人生において、いかに自分が死と向き合ってこれたかで、その人の強さとしなやかさは決まるんじゃないかなって気もします。

死は人間には絶対解き明かすことができない

死と向き合うと言っても、死のことは絶対にわからないということは変わりません。

人間はわからないものが、どうしようもなくこわいものです。

だから、とにかく死というものがこわい。

今の私が死についてまともに考えだすと、絶望しかなくなってきます。

私の死生観

現在というか、これまでの私は、死んでしまったら、自分という存在は

完全に消滅するという考え方が当たり前だと思って生きてきています。

しかし、あらためてその考えでは、本当にこの世界には救いがないです。

何をどう頑張って手に入れても、どうせ全て無くなってしまうんです。

死んだら全ては消滅してしまう。

本当に救いがないです。

元気なときは、別にそれでも大丈夫なのかもしれません。

「今を悔いなく、全力で生きて死ぬときに後悔がないように!」って。

元気なときはそうやって自分を奮い立たせることもできるかもしれない。

だけど、大きな怪我とか、大病などをしてね、いつ死ぬかもわからないってなったときは…、死が近づいていることが実感できてしまうようなときは…、おそらく自分が消えてなくなってしまうなんてことは、受け入れられないと思うんですよ。

絶望。

本当に目の前が真っ暗闇の絶望。

そんなの嫌ですよね。

死んだら無になるかどうかもわからない

誰も、死んだらどうなるかなんて、わかりません。

誰にもわからない。

だとすれば、死んだ後に自分が完全に消滅してしまう、完全な無になるっていうのも1つの思い込みにすぎないんです。

それならば、死んだ後、自分がどうなるかってことは、どう信じても良いのではないでしょうか。

今生きている人の誰にもわからないんだから。

そして、これは自分の人生なんだから。

  • 自分が死んだら完全に無くなってしまう
  • 寝ている状態がただただそのまま続いていくだけ
  • もう2度と目が覚めないだけ

これが真実だとは、誰も証明できません。

ですから、これもただの仮説であり、思い込みだと言えます。

死ぬってことが、どういうことなのか誰にもわからないのであれば、あとは何を信じるか。

  1. 絶対にやってくる死
  2. 絶対にわからない死

絶対にわからない死に、怯えて暮らして生きたくないのであれば、その死に絶望しなくてすむような、そんな教えを自分で選んで信じることができるかどうか。

これってかなり、今を生きる幸せに直結しているような気がするんですよね。

どうせ真実がわからないのであれば、もっとステキなものを信じて、生きていけたらと思うわけです。

その完全な無って、自分で選んで信じたのだろうか?

死んだらそこで完全に終わるんだよ。

完全な闇が来る。

闇を闇とも感じられない闇、完全な無になるんだ。

さて、私は、こんなこわくて絶望的なことをはたして自分の意思で信じてきたのでしょうか?

死んだら完全な闇になってしまって、もう本当に何もなくなる。

完全な無になる。

自分の存在は完全に消滅する。

そんな思い込みを自分で選んだ記憶はありません。

自分で選んでいるのであれば、それはそれでいいんですけどね。

もし、それを自分で選んだ覚えがないのであれば、一度思い直してみてもいいのかもしれません。

死んだ後のことは、生きているうちには絶対にわからない。

だからこそ、その先に何を信じるかは自由なんだと思うんですよ。

親鸞が信じたもの

親鸞は、生きているうちが大事だよって、何度も何度も言ったそうですが、死んだ後に浄土に行けるということも、同時に強く信じていたのではないでしょうか。

どうも、本をあたっていくと、その浄土というやつは、相当に深い世界の話なようで、読めば読むほどわからなくなっていく感じがあります。

死んだ後は、無になる。

完全な闇に飲み込まれて、世界(私)は完全に消滅するのかもしれない。

だとしても、その闇から救われていける世界が確かにある

なんか、そんなところを仏教や親鸞にふれることで、ちょっと考えて見られるようになってきた私なのでした。

まだまだ、私の親鸞に会うための旅は始まったばかりですけどね。

死のことは誰にもわからない、まとめ

救われていいんだよ。

自分が救われるようなものを選んで、それを信じることで救われていい。

救われていいんだよ。

空淡 黒田明彦