また先生の声が聞こえたんだ。
「2つで足りるの?もっと沢山ないと上手くやっていけないでしょ?いくつあってもいいんだよ。」
思い出した。
僕はその先生の言葉を聞いたとき、とても嬉しかったんだ。
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はいどうも、冥王だ。
昨日、色々文章を書いていたら、またいろいろと気づきというか、前進があったので、勢いづいて書いていく。
今朝、私にはこれまでのエンパス、逆エンパス論の現時点での完成系が浮かんだ。
まぁ、これまで、どのタイミングで発信してきたものも、その時点では完成系だったがな。
というわけでこの記事も私にとっては通過点だ。
明日にはまた違うことを言っている可能性大だ。
そのつもりで読んでくれ。
今回のポイントは、今、必要なエネルギーの重さだ。
それでは、始める。
さぁ今日も、言葉と一緒に遊ぼうぜ。
エネルギーの重さについて考えた

エネルギーには重さがある。
エネルギーが生まれつき、重い人と、軽い人がいる。
昨日そんな仮説を立てて文章を書いていたんだ。
わりとスラスラと書けていた。
エンパスとエネルギー解離

突然だが、私はエンパスと言われる状態と、エネルギー解離現象には、非常に大きなつながりがあるという仮説を持っている。
というか、そのあたりを考察していくのが、いま楽しくてしょうがない。
人間は基本的にエネルギー解離現象を日常的に持っている。
解離と言うと、心理学が好きな人なら、自分のやったことを自分だと思えないで忘れちゃうとか、そういう極端な例を思い浮かべることだろう。
解離性人格障害(多重人格障害)はその極端な例の最たるものだが、私に言わせれば、エネルギー解離は現代日本人にとって非常に身近なものである。
人間は、社会的に生きるために解離しなくてはならない

そもそも躾によって、教育によって、生存競争によって、人間は、本来のエネルギーから解離せずにいられなくなるのは当たり前なんだ。
自分で自分を評価する自己評価も、自分で自分を肯定する自己肯定も、自分で自分を否定する自己否定も、解離がなければできない。
自分を対象化すること自体がそもそも解離現象なんだよ。
人間は、社会化するために、解離的になることを求められている。
これが人間社会の構造だ。
エネルギーの重たさに苦労する

ところで、私は自分のエネルギーの重さにとても苦労している。
私のエネルギーは何をやるにも重たくて、何をやっても影響力が大きい。
そんな感覚だ。
HSP的な発想で言うと、やることなすこと、感じること、考えること、全て全てを脳みそが深く深く処理していってしまう。
そういう脳みその持ち主である、ということだ。
私は最近では、そういう人たちを深世界の住人と呼んでいるな。
エンパスをエネルギーの方向性ではなく、エネルギーの重さで分けてみた

昨日私は、言葉が走るままに、エンパスという超共感力の持ち主を、これまでのように、エンパス、逆エンパスというふうにエネルギーの方向性で分けるのではなく・・・、
(エンパスはエネルギー吸収型、逆エンパスはエネルギー発信型な。まぁ、詳しく知りたい人は、私のブログをあさってくれ。)
エンパスとは極端なエネルギー解離体質を持った人のことであり、それには軽いエネルギーの持ち主と、重いエネルギーの持ち主がいると考えてみたんだ。
軽いエネルギーの持ち主は、誰かのエネルギーにぶち当たると、ドンッと自分のエネルギーを吹っ飛ばされる感じで解離しちゃう。
重いエネルギーの持ち主は、自分のエネルギーを深く深く抑圧することで解離している。
そんなイメージね。詳しくは、また電子書籍書いたので読んでくれ。
私は重たいエネルギーの持ち主

それで言うと、私自身は重いエネルギーの持ち主で、何をやるにもいちいち重たい。
疲れやすいし、傷つきやすいし、思慮深い。
我(ガ)は強く、自分というものをしっかり持つことによって、徹底してまわりと馴染まず、混ざらないことで、逆に環境に適応しようとしている。
そんな感じだ。
純粋人間

私は自分のことを純粋人間とも称しているが、その純粋性とは、混じることを拒絶する強烈なエネルギーのことだとも言える。
唯一無二。
たった一つの存在。
なにものとも混ざらず、薄まらず、消えない。
重く強烈な引力を発するエネルギー。
深く深く深く、ただ深く。
その深さこそが重さを生み、そのまま生きづらさにもつながっている。
私はその深さを愛し、その重みを必要としていた。
エネルギーの重さは私に必要だった

深さこそ私。
重さこそ私。
深さと重さこそ唯一の私であり、大事であり、抱きしめるべき私。
そんな感覚だ。
そうなんだよ。
この重さ、私にどうしても必要だったんだ。
エネルギーの軽さ、重さって生まれつきなのかな・・・

だけど、フワフワと頭に浮かぶ記憶がある。
私のエネルギーって、幼い頃は軽かったよな。
深いことなんか必要なかったよな。
なんでも良かったし、どうでも良かった。
全部なんでもOKだった。
そんな感覚で生きていた。
そうなんだ、深さと重さは、あるときから私にはどうしても必要になったんだ。
まさに因縁、何度目かのダイブ

何度も「もう、終わった」と思いたがるこの因縁は、まだまだ私につながっている。
「はぁ、めんどくせ・・・。」
さぁ、今日も、潜るよ。
ダイブ!
思春期の頃の私と母

思春期の頃。
頭の中がお花畑だった私の、自我がよりはっきりと固まっていく頃。
私は人生最高のピンチに見舞われていた。
まぁ、いわゆる自己同一性の危機である。
大好きだった母からの分離、そして自分は独立した何者かになっていかなくてはならないということ。
それだけでも、まったくもって、大ピンチだ。
そして、そのとき、私にはさらに大きな脅威があった。
それが「私も母のようになってしまうこと」だ。
狂うことの恐怖

私は大好きだった母からちぎれてしまってからは、母に圧倒的な脅威を感じていた。
私にとって母は、頭のおかしい人だった。
コミュニケーションも満足に通用しないし、一人言、一人笑い、妄想、幻聴。
祖母の霊が見えるとかも言ってるし、まともじゃないんだ。
私の心はかき乱された。
意味がわからんことを聞くのとか、ゾクッとするような世界観にふれることは、それだけでこちらの世界が揺さぶられるような不快感がある。
単純に超こわいんだぜ。
そもそも境界線があってないようなものだった私と母との関係だから、そんな世界がダイレクトに伝わってくる。
私は・・・、私も母のように、統合を失ってしまうのだろうか・・・。
それが私にとって一番こわいことだった。
統合を失ってしまうこわさ

統合を失ってしまうこわさ。
これって、自分の存在を揺るがすような、絶大な影響力のある脅威だったんだよな。
そもそも、母と血縁のある私は、母のように統合を失ってしまう素質がある。
それも本当にこわかった。
今思うと、なんで統合って必要なんだっけ?って思うけどな。
あのときはこわかったんだよ。心底震えるほどにな。
脅威から救われた私

程なくして、私はこの脅威から救われる。
先生に出会ったんだ。
先生はすごかった。
何がすごかったって、先生のバウンダリー(他人と境界線を引くこと)だよ。
先生は自分と他人の間に強烈な断崖絶壁がある。
それほどのバウンダリーがなければ、立っていられないほどの強烈なエネルギーと感性の持ち主なのだと私は理解している。
どうも、人間は自分のエネルギーに見合った成長が必要なようである。
やれやれ、厄介である。
人間はたった独りである

というわけで、私はその先生の超強烈なバウンダリーの智慧を授かり、「私は母のようになってしまうかもしれない」という脅威から救われることができたのだ。
人間はたった独りである。
人はそれぞれ全く別の世界を生きている。
決してわかりあうことはできないし、その世界がつながることはない。
血のつながりがあろうが、同じ人間などいない。
私は私、あなたはあなた。
どこまでいっても、どこまでいっても。
人間はたった独りである。
そうか、そうなんだ。
そこにドカッと座れていれば、きっと私は大丈夫だ。
母のようにはならない。
そう、信じられた。
そして・・・。
多分そこからなんだ。
私のエネルギーが深みを好み、重く、重くなっていったのは。
私をつなぎとめるエネルギーの鎖

この深さは、この重さは、私をバラバラにしないための、統合させるための、地面にしっかりつながるための、強烈なエネルギーの鎖である。
私はこの深さにいるとき、この重さがあるとき、一塊の私でいられる。
1つでいられる。
統合していられる。
この深さこそ私。
この重さこそ私。
そして何者とも混ざれない深さにいること、何者にも浸食されない重さ(質量)をもつこと、それを私は、純粋と名付けた。
この深さと重さこそが私である。
それが純粋人間、逆エンパス、黒田明彦なんだ。
2つで足りるの?

ここで話は冒頭の先生の言葉に戻る。
思春期の頃、父は、私に「お前には2面性がある。部屋に一人でいるときのお前と、友達と電話で話しているときのお前はまるで別人のようだ。」
と言った。
普段から言葉の少ない父の、その発言は私にはとても印象的だった。
私は、先生にそのことを不安気に話したことを思い出した。
そして、そのときの先生の返答がこれである。
「2つで足りるの?もっと沢山ないと上手くやっていけないでしょ?いくつあってもいいんだよ?」
はっ?えっ・・・!?
私って1つじゃなくてもいいの?
先生の言葉を聞いて、なんだかやけに安心したことを思い出した。
狂っている私こそ私

統合を失うこわさ
バラバラになってしまうこわさ
狂ってしまうこわさ
こわい、こわい
だから
冷静でいたい
まともでいたい
安定していたい
1塊の私でありたい
そうすれば私は
統合していられる
バラバラにならずにすむ
狂わないですむ
母のようにならないですむ
自分が広がっていってしまうこわさ

思えば私は、自分が拡散すること自体に恐怖があったんだな。
広がっていく恐怖。
コントロールを失っていく恐怖。
狂いたくない。
まともでいたい。
そのためには深さが必要で、そのためには重さが必要だった。
誰よりも地面とつながり、
誰よりもまともであるための深さと重さを求め続けた。
そして、それがそのままの質量で自己否定にもつながっていた。
でも、なんか、今は、大丈夫そうな感じがちょっとだけするんだ。
かまわん、かまわんよ

「狂っている私こそ私。」
それでもかまわん、かまわんよ。
統合されず、
バラバラで、
狂っていてもかまわんよ。
まぁ、ダメなときもたまにあるけど。
ほとんどのときは大丈夫だよ。
私は純粋でなければ狂ってしまうかもしれないが、
狂ってしまっても大丈夫になれば、純粋でなくても大丈夫になる。
1塊の私でなくても大丈夫になる。
深さと重さが必要じゃなくなる。
解離をおそれず、解離を常とする

解離をおそれず、解離を常とする。
むしろそれは、何者にもなれるということ。
深さと重さを手放して、どこまでも飛んで行ってもいいし、
また、地中深くにどこまでも沈んでいってもいい。
まともでもいいし、狂っていてもいい。
自分が何人いてもいいし、別に統一されていなくてもいい。
そうだ。
自分のエネルギーを軽くも重くもできる、それが真エンパス。
解離していてもいい、狂っていてもいい、バラバラの私こそ私、それこそ、自在人間。
私は、真エンパス、自在人間の、冥王、黒田明彦だ!
ふはははははは!
真エンパス・自在人間、おわりに

人間、下手にまともであろうとしなければ、そこそこ狂っていても、充分生きられるぜ、ってことだな。
母は、まあ今もある意味狂ってはいるが、普通に優しかったり、親切だったりするし、なんだかんだ普通に生きてるぜ。
そう。私はむしろ今、母のようでありたいね。
好んで狂う必要性もないけどな。
許せるもんが増えれば、世界は広がるってことだ。
狂ってOK!
ただし、人に迷惑をかけすぎないようにな。
節操をもって狂えよ。
いいな!
以上!
君は1つでもいいし、バラバラでもいい、
君は軽くてもいいし、重くてもいい。
狂うように生きよ、きっと綺麗だよ。
冥王、黒田明彦でした。
私のエネルギー、もらってね。