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- 自分より目立っている人
- 自分よりクレバーな人
そんな他人を見るたびに自分を卑下し、自己否定にとても苦しんでしまう。
「どうせ私なんて・・・。」
そんな苦しみから本気で抜けだしたい人のために、仏教の哲学をちょっとだけ拝借して、他人と比べる苦しみをなんとかする方法を書いてみました。
まず、他人と比べてしまうことを受け入れる

いきなりですが、大前提として、「人間の脳みそは、何かと何かを比べることが得意である」と、言うことを理解しましょう。
まずは、これを受け入れてしまいましょう。
つまり、放っておいたら、なんでもかんでも、どんどん比べて比べて、比べていってしまうのが人間の脳である。
それが脳の当たり前の特徴であると理解しましょう。
他人と自分を比べるのは当たり前のこと。
比べてしまうこと自体を否定しても仕方ありません。
それは、人間の脳に備わった立派な機能なのです。
他人と比べることを意思でやめるのは無謀

他人と自分を比べて苦しい思いをしなくて済むようにするには、この脳の機能を理解した上で、対策を立てなくてはなりません。
その対策は、自分の意志で他人と自分を比べないようにするというぐらいでは、歯が立ちません。
脳はとにかく、何かと何かを比べるのが得意です。そして、いつだって、何かと何かを比べたがっているのです。
その脳の働きを意志の力だけで抑え込むのは無謀です。少なくとも私にはできそうにはありません。
他人と比べる苦しみから解放されるための結論

さて、それを踏まえた上で、他人と比べる苦しみから解放されるためには、どうしたらよいのか?
結論から言えば、他人と自分は比べようがないものであると、認識できればよいのです。
仏教の認識論を拝借
私は「とにかくなんでも比べることで物事の価値を決めていく脳の傾向」から発生している苦しみを和らげるために、仏教の認識論の智慧を借りました。
今回、参考にした仏教の智慧は、陳那(ちんな、じんな)の認識論です。
陳那は、人間の認識には、現量と比量の2つがあると言います。
あまり、難しくならないように、できるだけ端折って説明してみますね。
現量は、純粋な、ありのままの感覚であると言えば、わかりやすいかもしれませんが、実際この現量という感覚は、言語化が起こった時点で、もう別の物になってしまっているというぐらい厳密なものです。
また、現量とは、認識対象についての思惟や概念規定を全くしていない状態とも言えます。
それがなにかを全くわからないまま、わかる必要もないまま、ただただ感じている状態。
これが現量と言えるでしょう。
「あ、これは、こういうものだ」
とわかってしまった時点で、概念化されてしまい、純粋な現量ではなくなってしまいます。
現量に対して、比量は、直接知覚したものを他の人間と共有できる、すでに分かりきっている、ある規定の概念に当てはめることで認識する感覚です。
- 現量は、物事のありのままの感じ。言語化以前の認識。
- 比量は、現量にいろんな当てはめが起きている認識。
さて、この比量という言葉にすでに「比べる」という字が入っているのが面白くないですか?
他人と比べる苦しみを仏教哲学でなんとかする方法
他人と比べる苦しみを仏教哲学でなんとかする方法は、この現量という認識を積極的に意識していくこと、そして、この比量という認識パターンから、積極的に離れて生きてみようとする、ということです。
比量も人間の自然な認識のパターンですが、この比量的認識を野放しにしていると、それこそ自然に、どんどん他人と比べて苦しくなってしまいます。
人間の脳は、比べられるものは、比べてしまうようにできています。
ですから、他人と比べる苦しみをなんとかするためには、他人と自分を比べようがないものであると認識する必要があるのです。
比べることの始まりは、概念化(当てはめ)から始まる

繰り返しますが、人間の脳は、比べられるものは、比べるようにできています。
その機能に意思だけで抗うことは非常に厳しいです。
他人と自分を比べないようにするには、他人と自分を比べようのないものと認識する必要があります。
さて、比べるという脳の働きはどこからはじまっているのでしょうか。
それが、実は上記の比量という認識から既に始まっているのです。
比べるという脳の働きは比量から始まっている
つまり、自分という存在を何か、普遍的なもの(皆と共有できるようなもの)に当てはめた瞬間、もうすでに、比較は始まってしまっている、と言っても過言ではないのです。
たとえば、自分を人間という概念に当てはめて認識していると、同じ人間同士、比較が始まります。
たとえば、自分を女性という概念に当てはめて認識していると、同じ女性同士、比較が始まります。
たとえば、自分を40代の年齢という概念に当てはめて認識していると、同じ40代同士、比較が始まります。
自分をどんな概念にも当てはまらない、よくわからない存在。
そんなふうに認識しているときは、他の同じ何かが存在できないため、比較が始まらないのです。
このように、とにかく比べたがる脳の働きに対抗するには、意識的に、自分自身の概念化(他の人と共通な何かに自分を当てはめるということ)を解除していく必要があるのです。
自分を概念化する?概念とはなに?
他人と自分を比べることで苦しんでいる人は、自分のいろいろなところの概念化が当たり前になってしまっているということが考えられます。
自分を概念化するとは、どういうことか。
概念という言葉を説明するのは少し、難しいのですが。
たとえば、このイラストを見て、あなたは何の絵だと思うでしょうか?

この妙チクリンなイラストを見て、ウサギだと思えたのではないでしょうか。
それは、小さく、耳の長い小動物的なものは、ウサギであるという概念を既にあなたが持っているからです。
このイラストがどんなふうに生まれ、何で作られ、どんな名前で、どんな理由でここにいるかなんて知らなくても、つまり、その実際の個体の事を直接、何ひとつも知らなくても、ウサギという概念を持っているだけで、こんな妙チクリンなイラストでも、その対象をウサギとして認識できます。
これが概念です。
その個体をウサギとして概念的に理解した瞬間、私たちは、その個体のことを何一つ知らなくても、他のウサギと比べることができてしまうわけです。
このイラストに対する理解のように、私たちは、自分自身をわけのわからない未知の個体としてではなく、既知の概念に当てはめることで認識していることが通常です。
したがって、同じく概念に当てはめた他人と、当たり前のように比べることができるわけですね。
自分を概念化しているうちは、比較の苦しみはなくならない

長く書いてきましたが、自分自身を既知の何かに当てはめているうちは、絶対に他者との比較の苦しみはなくならない。
というのが、今回の私の言いたいことです。
問題なのは、他者と自分を比べてしまうことではなく、他者と比べられるような概念に自分自身を知らず知らずのうちに、当たり前のように当てはめているということなのです。
ですから、他人と自分を比べてしまって苦しくて仕方がないときは、他人と比べるのをなんとかしてやめようと頑張るのではなく、自分に当てはまっている概念の方を認識し、なんとかして外していこうと頑張るほうが合理的なのです。
どうすれば、自分に当てはまっている概念を外せるのか
1つは、徹底して、自分というものをわかってしまわないことです。
私たちは、自分の事をわかっていると思っている時、ほぼ間違いなく、なんらかの概念に自分が当てはまっています。
私たちの最も根本的な自己概念は、「私は人間である」という概念かもしれませんが、この世の中に、人間のことをわかっている人間がどれだけいるでしょうか?
そもそも、人間という名前の個体はこの宇宙には存在しません。
存在しないのに、普遍的(共通的)な人間を当てはめてしまうことで、「私は人間である」と、わかった気になってしまえる。
それが概念化です。
「自分はこうだ」と、疑いもなくわかっていると思っていることを徹底的にバラしていく。
その作業が自分に当てはまってしまっている概念を知り、外していく作業とつながっていきます。
「わかった!」とか、「わかっている」などの言葉を意識的に避けて、「わからないなぁ・・・」を口癖にしてみることから始めるといいかもしれません。
現量を意識してみること
そしてもう一つは、現量を意識してみること。
現量とは、5感の感覚そのもの。
思考が邪魔をしない、揺れる心が邪魔をしない、ありのままの感覚。
それに興味を持ち、常に求めてみること。
最近また流行りだしてきている、瞑想とかが、この現量を意識するための1つのプロセスになりそうですよね。
人間は、どんなに頑張っても、現量に完全に到達することはないのかもしれませんが、少なくとも、現量に興味を持ち、現量を求めた行動を起こしているそのときは、他人と自分を比べるなんてことは、できていないでしょう。
他人と比べてしまう苦しみを仏教の哲学でなんとかしてみた、おわりに

クドクドと書いてきましたが、簡単に言えば、他人と自分を比べることができる人は、他人も自分も理解できてしまっている人だけです。
しかし、この理解は概念的理解であり、個の理解ではありません。
概念同士を比べてひどく落ち込んだり、ときには死にたくなってしまうのが人間です。
常日頃から、自分の概念化、概念的思考を認識し、解除していく意思を持ちましょう。
徹底的に自分を個でとらえること。
自分に何の枠も当てはめず、全く理解できない未知の何者かであると思えたとき、他人と比較したくでも、できない自分になれるのです。
難しいかもしれないけど、ちょっと興味深いでしょ。
冥王、黒田明彦でした。
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