親鸞に会いに行く道

【閲覧注意】宇宙に生かされ殺されるということ、そして無限の大慈悲は生まれた【親鸞に会いに行く道vol.14】の補足解説記事

今回の語りには、「殺す」「殺される」という言葉が何度も出て来ますので、一応閲覧注意ということにしておきます。

殺す、殺されるっていうのは、生きる、生かされてるということに直接つながっている。

なんか、そんなところが降りてきた私なのでありました。

しかしまぁ、あらためまして、殺すも殺されるも、身震いするほど、おっかない言葉ですな。

まずはこちらの動画をどうぞ。

宇宙に生かされ殺されるということ、そして無限の大慈悲は生まれた【親鸞に会いに行く道vol.14】

それでは、動画の補足解説をしていきます。

仏の大慈悲は無限だと言いたい話

今回も親鸞に会う道ということで語っていきたいと思います。

ちょっと今回語るところは、危なっかしいところもあるかもしれないなと思っています。

というのも、「殺す」「殺される」という言葉と一緒に、道徳の範疇を飛び越えるような話をしていこうと思うのです。

これは、人の聞きようによっては非常に危なっかしくなるかなぁと思うんですよね。

というわけで一応、閲覧注意ということで最初に断っておきますね。

結論から言えば、今回私の語りたいことは、「殺」すら他力であること、そして、仏の大慈悲は道徳や法律よりも深く、無限であるということです。

仏の大慈悲が、道徳や法律に負けているようでは、人間は、この私は、救われません。

前提になっている2つの話の紹介

今回の私の語りたいことが生まれた背景には、2つの前提になるお話があります。

まずはそれについて話していきますね。

親鸞の因果説法

まず1つの前提となる話がですね、仏教の因果の考え方であり、親鸞の言葉であり、親鸞の思想なんですけどね。

私は、親鸞のこの話を初めて聞いたとき「なんか救われたなぁ」っていう気がしたんですよね。

親鸞は、弟子を1人も持たないというのは、有名な話ですが、親鸞を慕い、付き従って学んでいた人は沢山いたようです。

親鸞が弟子だと思っていなくても、親鸞のことを師匠と思っていた人は沢山いたわけですね。

その親鸞に付き従って学んでいた人に、親鸞が、

これから私の言う通りにしてくれないか。

っていきなり言うわけです。

で、そのお弟子さんのような人は、

「それはもう、親鸞さんが言うのであれば、私はなんでもお応えしたい次第であります、言う通りにいたします。」

と、2つ返事で言うわけです。

尊敬しているし、信頼している親鸞さんの頼みですから、是非応じさせていただきたいという心境でしょう。

「うむ、そうかそうか」と親鸞。

そして、親鸞はこんなお願いをします。

じゃあ、これから人を1000人だか、2000人だか、殺してきてくれ。

それを聞いたそのお弟子さんのような人は、

「いやぁ、親鸞さん、私は1人すら殺すことはできませんよ」と。

で、親鸞はさらに言います。

今、お前は私の言うことを聞くと言ったじゃないか、なぜ殺すことができないんだ?

お弟子さんのような人は、当然困ってしまいますよね。

そして、最後に親鸞が言うわけです。

人間が人間を殺さないですむのは、その人が別に善人であるからではない。

因と縁が揃えば、誰でも人を殺すことができるのだよ。

それこそ1000人2000人…。

そういう規模でさえ人を殺すことができてしまう。

それは、その人が悪人であるとか、善人であるとかではなくて、因と縁がそろって、それが結果になったというだけなんだよ。

私はこの話を聞いて、自分がやってしまうこと、できてしまうことが、自分の力で起こっていることではないんだよっていうところを教えてもらった感じです。

そして、こういう他力感って、やっぱり救われるなぁって思うのですよね。

たまたま私という人間の因と業があって、それに外からの縁が合わさって、結果が生まれている。

別に今の私が今の私であることって、私の力でそうなっているわけじゃないんだよっていうところ。

これって、究極の赦しでもあるような気がするんです。

善人だから人を殺さないわけじゃないんだよ。

そして、悪人だから人を殺すわけではないんだよ。

この親鸞の声は、私にとても優しく響きます。

そこにあるのは、ただ、因と縁。

そしてそれによって結果が生まれているだけなんだ。

この辺り、思い通りにいかない苦しみの日々に生きる私には、非常に慈悲深いなぁと思えるわけです。

鈴木大拙の有限即無限

今回、私が語りたい中身に影響を与えている、もう1つの前提が、鈴木大拙が語ってくれた内容です。

これは、論理的な話で、現在の私がはっきり実感できているわけではないのですが、なんか、気になった、目に、耳に止まった話です。

鈴木大拙の言葉から、私がいただいたところを紹介しますと…、

人間の死の苦しみ、恐怖は、結局自分という存在、自分という生命が有限であるっていうことから来ている。

怪我したり病気をしたり、あとは年を取ったりしても、人間の生命は終わって、死んでしまう。

なくなってしまう。

有限である。

生命はずっと続くものではない、終わってしまうものだから、苦しく、こわい。

だけど、実は…。

その有限という感覚に苦しんだり、恐怖したり、絶望したり、時には喜んだりすることができるのは…。

つまり、有限を感じ、右往左往できるということは、その背後に、同時に、無限っていうものを感じていなければおかしい。

有限を感じているということは、すなわち、無限を感じているってことなんだよ。

人間はすでに、その身、心に、無限を宿しているんだよ。

そうじゃなきゃ、有限である生命の死に、おそれることはできないんだよ。

なんかこういただいて私、非常に妙を感じましてね。

有限を苦しむ、有限の自分に怯えるっていうことは、すでに無限を知っているからできることなんだ…。

有限には無限が必要。

無限には有限が必要。

表裏一体。

有限即ち、無限。

無限即ち、有限。

わからない、だけど、なんか、なんか、感じるものがあったんですよね。

生かされるということは、同時に殺されるということ

この2つの前提の話を聞いた私のところで、なんというかですね…。

ここから、強い言葉が出て来るわけですが…。

宇宙の働きに生かされている私っていうのは、同時に宇宙の働きに殺されている私っていうことがないと成り立たないんじゃないだろうかと。

生かされるってことを感じるということは、殺されるということが感じられなければ成立しないんじゃないか。

感覚的に、いや、半歩だけ霊的にそう感じたわけです。

私は生かされている?

私はすべてのものに生かされている存在であるっていうのは、よく聞く話です。

動物を殺してその肉を食べている、だから私は動物に生かされている。

植物を殺して食べている、だから私は植物に生かされている。

いろんな人間に助けられながら、私は生かされている。

そして、そもそも私は、宇宙に生かされている、というように。

これを言うとき、実はその逆も言えなきゃおかしいんじゃないかなっていう気がしたんです。

私は動物に殺されている。

私は植物に殺されている。

私はその他の人間に殺されている。

そして、そもそも私は宇宙に殺されている。

ここの「私」は、うっすら時空を超えた人間というような感覚もあります。

なんかこれが言えなければ、生かされているも言えないんじゃないかなって気がするんですよね。

生かされている人は、殺されている人でもある

ここの表裏一体が言えないと、「生かされている」って言葉がとても安っぽくなるんじゃないかなって気がしたんですよ。

「殺される」っていうのは、こわい言葉ですが、実際の人間の「生」の現実には、それほどの迫力あることが起きているような気がするんです。

生かされるも殺されるも、こういうことである!と、現段階で私に、そこがバッチリわかっているわけではないのですが、生かされるは、同時に殺されるがなければ成立しない

なんか、そんな感覚が、しきりにやって来ているのでした。

宇宙の働きは生かし、また殺すもの

全ては絶対他力。

私の力ではどうにもなりません。

死にたくない人が死んでしまうのも宇宙の働きです。

そして、私は因と縁が揃ってしまえば、私の力を超えて、いろんなものを殺してしまう。

私は宇宙の働きに生かし、生かされていくだけではなく、宇宙の働きに殺し、殺されていく存在。

その「殺」には、道徳やら、法律やらでは、絶対許されてはならないことも含まれ得る。

だけど、その道徳・法律を超えたところで働いている仏の大慈悲っていうのがある。

仏の大慈悲は「殺」にも、光を当ててくれている。

そうじゃなきゃ、私は救われないんです。

宇宙の働きは成長・拡大の意思

あらためて、宇宙の働きっていうものを考えてみると、それは、ただなにかを生み出す方向・発展の方向、成長の意思そのものというか、とにかく拡大拡張の方向性に働いていく力、そのものであるようにも思えます。

私はそれに見事に生かされ、そして見事に殺されていく。

ただそれだけだった…。

だけど、だけど、そこに仏が生まれた。

そこに、大慈悲が生まれたんです。

私に向かって強烈な慈悲を向けてくれている存在というものが仏。

宇宙の働きそのものには、慈悲も無慈悲もない。

なのに、そんな宇宙の働きが、私の為に、慈悲の権化である仏を生んでくれた。

そうであるならば、宇宙の働きもまた、そのまま慈悲の権化と言ってもよいのでしょう。

仏即ち慈悲。

宇宙即ち慈悲。

仏即ち宇宙。

仏の慈悲は広大無辺

仏の慈悲はもう、広大無辺というか。

全てのものを救うものでなくてはなりません。

そうでなくては、この私が救われない。

だから生かされていくもの、殺されていくもの。

生きているもの、殺していくもの。

全てに全てに慈悲の光を当ててくれるのが仏です。

宇宙の働きが私(全ての人間)のために生み出してくれた、仏。

それに出会っていけるかどうかが、私(人間)、人生の救いなのだろうなぁと今は思えています。

無限の大慈悲はあるんです。

道徳なんか飛び越えて、

法律なんて飛び越えて、

殺すものも殺されるものも、同時に救ってくれる。

無限の大慈悲は、ただ私(あなた)の為に生まれたんだ。

私は、そう思うんですよ。

空淡 黒田明彦