こんにちは、黒田明彦です。
今回は、最近始めたばかりの新しい座禅についての体験を紹介します。
宇宙の働きは、人間の知識を超えたところにある、大きな無意味・非意味である。
宇宙の無心。
私としては、そんなものをほんの少しだけ垣間見れるような座禅体験となりました。
しかし、今回の座禅は、南無阿弥陀仏を繰り返し声にしながら座る方法ですので、環境によっては、実践が難しいのが残念なところです。
声に出す。
ただそれだけで、今自分がどこにいるのかがわかる気がしますね。
良くも悪くもね。
まずはこちらの動画をどうぞ
宇宙のようにただ動く【私流禅二の型!念仏座禅をやってみた】
それでは、補足解説をご覧ください。
念仏座禅をやってみた
どうも黒田明彦です。
今回も「禅」体験について語っていこうと思います。
今回は、私が最近試している座禅についてちょっと語ってみますね。
私流座禅を振り返る
私の私流「禅」は、基本的には「禅」に関する本を読んだり、座禅をするっていうことをしています。
私の座禅は、とにかく何もしないで座ってみるという事から始まりました。
時間に空きができると、ゲームや動画鑑賞で時間を埋めていた私にとって、何もしないで座っているという時間を意識的につくるということは、非常に意味のあることでした。
また、少しずつ、禅ならではの座り方である、結跏趺坐をやってみました。
足はとてつもなく痛いですが、身体が真っ直ぐになる心地よい座り方です。
最初は何もしないで座る、がとても新鮮で、それだけでも得るものが多かったのですが、だんだんそれだけでは物足りなくなってきて、その後、しばらくは、数息観をやるようになりました。
数息観
頭の中で、自分の呼吸を数える座禅。
結跏趺坐で座って、姿勢を正す。
1時間はちょっと長いかもしれないので、40分と時間を決めて、吸う息、吐く息それぞれを、
ひとーつ、ふたーつ、みーっつ、よーっつと数えて、とお(10)を数えたら、また、ひとーつに戻る。
数息観は、まさに安息。
実際、心が落ち着く実感がすごくありました。
これはまぁ、一度お試しあれって感じですね。
念仏座禅
数息観は、まだ続けていますが、ここのところ、もう一つ新しい座禅の型を始めてみています。
まだ始めたばっかりなんですけどね。
数息観は、静かな、集中できる環境さえあれば、誰でもやってみることはできると思います。
しかし、今回私が始めた座禅は、ちょっと、環境によっては出来ないかもしれないなぁというのが残念なところです。
私が今新しく始めている座禅は、
座禅をしながら、ずーっと「南無阿弥陀仏」と称えるというものです。
頭の中だけではなくて、実際に声に出します。
南無阿弥陀仏・・・、南無阿弥陀仏・・・、南無阿弥陀仏・・・。
しっかりと結跏趺坐をして、背筋を伸ばして、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と、ずっと声に出していく・・・。
そんな座禅です。
意味のある言葉、意味のない言葉
人間のコミュニケーションは、基本的には意味のやり取りです。
現代社会での言葉というものは、人とのコミュニケーションの道具に使われています。
用事があって、その用事を達成するために言葉が必要である。
仕事で使う言葉なんてほとんどそうだし、人間関係を良くするための言葉なんかもそうです。
先に目的があって、その目的を満たすために言葉がある。
何か目的を満たすために、言葉の意味を使う。
それが現代人と言葉の関係であるように思います。
音と相(すがた)に意味のない言葉
ところで、南無阿弥陀仏という言葉は仏教の浄土系思想で出て来る言葉です。
南無阿弥陀仏を称えれば、死んだ後、極楽浄土に行ける。
大体一般的には、そんなふうに理解されていると思います。
この南無阿弥陀仏によって、人間が救われていくという深い信仰上の理解については、とりあえず今回は置いておきます。
南無阿弥陀仏という言葉は、インドの言葉で無限の光・無限の生命に帰依しますという意味です。
しかし、南無阿弥陀仏は、インドの言葉の発音にそのまま漢字をあてたものです。
したがって、「南」「無」「阿」「弥」「陀」「仏」というそれぞれの漢字の文字、その相(すがた)、その音から、直接意味を取ることができない。
つまり、南無阿弥陀仏は、そのままの言葉の相(すがた)に意味のない言葉なわけです。
無意味の不思議な不安
私は今、その言葉の相(すがた)に意味のない言葉をずっと繰り返し声にしながら座禅をしています。
これが不思議、なんですよね。
なぜだかわからないですが、意味のない言葉をずっと繰り返し声にしていると、どんどん不安になってくるんですよね。
声に出すということ
家族に、この自分が出してる意味のない音が聞こえるんじゃないかっていう不安もあります。
聞いた人にしてみれば、何意味のわからんこと、不気味なことをやってるんだ…っていう話になりますからね。
言葉を声に出すということは、それだけで、非常にパワーのある出来事です。
頭の中ではどんな言葉がよぎっても、現実には何も起こりませんが、実際、言葉を声に出すとなると、現実が動くんですよね。
音が出て、意味が生まれ、周りに影響が出る。
だから環境によっては、この座禅の実践はできないかもしれません。
周りの人に迷惑がかかるようなら、やれないですからね。
意味のないことをしている不安
もう一つ、南無阿弥陀仏と繰り返し声にして座禅をしているとき、私には、他人への影響以外にも不安な感覚があります。
それは、意味のない言葉を言うこと自体、意味のないことをしていること自体に対する不安なのかもしれません。
このうっすらとした不安が、なんだかすごく面白いんですよね。
声を出すということは、動くということ
意味のない言葉をずっと声に出して、繰り返す。
そのとき、実際声帯が震えているってだけあって、身体が動いているという感覚があります。
何か確かに動いている。
しかし、それは意味のないことである。
意味のないことをやってる意味は?
なんかそれが、面白くてですね。
無意味なのに宇宙に否定されない
こんなに意味のない言葉、意味じゃない言葉をずっと繰り返し言っている。
この無意味で、非意味な動きが、なんだか不思議に感じられます。
そして、ふと思ったわけです。
私自身はこの無意味、非意味な動きに不安を感じているが、その私の無意味・非意味な動きを宇宙は否定していない。
繰り返される私の、無意味・非意味な動きは、宇宙から否定されなかったんですよ。
意味のあることをやるのが常識
普段私は、当たり前のように、意味のあることを意味があるようにやっています。
それをやっていれば、周りから文句は言われません。
要は正しい、というわけです。
私は正しく、意味のあることをやらなければならない。
これが私の常識のようです。
非常識は不安
したがって、全くもって意味のない音、それを延々と出し続けることは、常識的ではなく、不安を感じてしまいます。
しかし、それをやってみているそのとき、私の不安とは関係なく、私は宇宙から否定されない。
こんな意味のない私の音が否定されない。
そんな感覚を感じていると、私の音そのものが、宇宙の音になっていくような感覚にさえなっていきます。
意味のない働きが許される
そんな感じで私は今、無意味な音の意味を味わっています。
意味のない働き。
そんなものが、当たり前のように許されていく。
どこまでもどこまで。
まぁ、あるとき家族に「お前なにやってんだ!」って止められちゃうことはあるかもしれないですが・・・。
おそらく宇宙は私を、
私というか、この働きそのものを、
止めようとしないんじゃないかなと思えるんですよね。
宇宙のようにただ動く
南無阿弥陀仏の座禅は、数息観よりも明らかに疲れるし、心の落ち着きもあまりやってきません。
しかし、なんか不思議があるんですよね。
常識とか当たり前の外に身を置けるような感じというか。
意味のない働きをただ繰り返し、体を疲れさせながら、在る。
そういう感覚が、私にとってはとても新鮮だなぁと思えるんですよね。
よく私のカウンセリングの先生が言っていたのは、思う世界と声に出す世界は違うということ。
声に出すと、それそのものになる。
南無阿弥陀仏と声にすると、南無阿弥陀仏そのものになっちゃうんだよ。
無意味・非意味、そのものになる。
そして、その無意味・非意味の感覚は、なんか宇宙そのものに近い。
宇宙と自分が区別されなくなっていくというか。
なんかそんな感覚はあるような気がしますね。
動いている感じがするんだ。
宇宙のように、ただ動いているような感覚がある。
そんなところです。
空淡、黒田明彦