どうも黒田明彦です。
今回はザックリ言うと、常識についての話になりました。
考えてみると「禅」っていかに常識をひっくり返せるかという学びのような気がしますね。
だから、単純に言えば、禅は今の常識がしんどい人のための学びだと言えそうです。
しかし、常識というのはヤクザなもので、誰かに少し疑われただけでも、相当のストレスを感じるもののようです。
山はそうそう動かない。
動いてたまるか!
そんな感じですね。
まずはこちらの動画をどうぞ
【常識を疑う禅の心】山は動き、水は流れず橋が流れる。
それでは、補足解説をご覧ください。
常識外れはイライラする
こんにちは黒田明彦です。
「禅」体験について語っていこうと思います。
今回は常識についての話になります。
禅の言葉に「山が動く」とか「水は流れず橋が流れる」とか、このような不思議な言葉があるんですよね。
これって、常識の真逆ですよね。
山は動かないし、水は流れるし、橋が流れるわけがないですものね。
それなのに禅では「山が動く」「水が流れず、橋が流れる」っていうわけです。
禅語はイライラする
禅問答自体もそうですけど、禅には、なんというか人をバカにしたような、訳のわからない言葉が沢山でてきます。
私はなぜか、そういう言葉を見ると、イラッとするんですよね。
なんか、腹が立つんですよね。
そういう感情が起きるのも、面白いなぁと思いながら禅の本を読んでいるわけです。
ありえないことを言われると腹が立つ
当たり前のものをひっくり返すような言葉を見ると、なんかイライラする。
それは不思議な感情です。
「山が動く」というぐらいなら、どこかで聞いたことがあるような表現で、やや抵抗が少ないです。
ありえないことが起きるっていうような比喩として常識的に理解できます。
しかし「水が流れず橋が流れる」とまで無茶苦茶を聞いてしまうと、バカにしてんの?って、イラっとしてしまうんですよね。
ところがですね、私はこの言葉があるとき、スッと腑に落ちてしまったんですね。
まぁ、腑に落ちたからどうだって話でもないのですが、今回はその辺りのところを語っていこうと思います。
山が動くということ
私は今、認知症の父と、変わりものの母と、一緒にひとつ屋根の下で暮らしています。
父はいろんなことを母任せ、母はいろんなことを父任せにして、ここまできていますから、父が認知症になってしまったことで、家族の中の父の役割がこなせなくなってくると、日々の暮らしがままならないような状態になってしまいます。
ということで私は、父を手伝えることは手伝って、放っておけるところは放っておいているという状況です。
お歳暮騒動にて
さて、先日の話になりますが、年末なので父の友達からお歳暮が届きました。
毎年のことなのですが、そのお歳暮のお返しをさせていただこうと、父は、一生懸命調べたり、考えたりしているようなのですが、端で見てると、どうも、今年は一人では完了できそうもない。
これは、手伝った方が良いだろうと判断して、父と話しをして、私がお歳暮を郵送で送ってしまいました。
手伝うタイミングを見計らって、お互いに精神的に負担の少ない方法を考えるのは大変だっていうところはありますが、お歳暮を送ること自体は、さほどの手間でもないわけです。
父も、一人でずっと悩んでいたお歳暮が片付いて、ホッとしていたようだし、その日は丸く収まったわけなんですが・・・。
どうやっても安心出来ない父
まぁ、父は認知症ですから、そのお歳暮を私が郵送で送ったということを記憶できません。
私もそれは理解しておりますので、私が父の友人にお歳暮を送ったということは、メモに書いて残してあります。
しかし、父は、そのメモを見ても、本当にそういう出来事がちゃんと完了したのか、ということを毎日毎日確認しにくるんですよ。
「ちゃんと、お歳暮送ったんだっけか?」
「金はちゃんと払ったんだっけか?」みたいに。
毎日毎日繰り返し、私にこう確認しに来ます。
メモには、読めばわかるように書いてあるのに、父はそのメモを読んでも安心できないようなのです。
だから何度も私に安心を求めて確認をしてくるわけですが、私もう、その度にイライラ、イライラです。
「いや、だからそう書いてあるでしょ」
「読めばわかるようになっているでしょ」と。
忘れてしまうことはしょうがないけど、そのメモを見て安心してくれよ、と。
父の確認行為の度に、毎回腹が立つんですよね。
しかし…、よく考えると、実は父の確認行為は、そんなに何度でもないんですよ。
思えば不思議なイライラだった
毎日は毎日だったんですが、1日1回か多くても2回程度だし、やりとり自体は10秒15秒ぐらいのものなんです。
しかし、思えば私は不思議なほどにイライラしてしまう。
私なりに相手の状態は理解しています。
父は認知症の症状によって、もう、いろんなものをほとんど記憶できない。
また、もしかしたらそのお歳暮の不安っていうのは、メタファーに過ぎず、本当は自分の失った記憶能力に対する不安そのものがオーバーラップしているのかもしれない、などなど。
こっちでいろいろ相手の状況を想像し、理解・配慮の気持ちはあるのです。
しかし、なぜだかわからないけど、1日1回か2回か程度の10秒15秒程度の父とのやり取りが、とにかく、とにかく腹が立つわけです。
どうしても感情的になってしまう。
あるときから、それを不思議だなぁと思うようになったわけです。
ピタッと目にとまった言葉
その日もですね、同じような時間帯に父が確認に来て。
私は邪険な感じでですね、
「もう終わったんだって、大丈夫だって」と、断ち切るように伝えます。
それで父はまぁ、安心してというよりも、言い聞かされて部屋に帰っていったわけです。
その時です。
ちょうど鈴木大拙の禅の本を読んでいたときでしたから、その文字にパッと目がとまったんですよね。
「山は動く。」「水は流れず、橋が流れる。」
あっそういうことか、と。
お歳暮を送ったが、山だった
「山が動かない」ということは、私にとっては…、
もうお歳暮は送った。
記憶は鮮明に残っているし、ちゃんと証拠も残してある。
郵送したことを証明できるものもあるし、レシートだってある。
日付も書いてあるし、どこに何を送ったかまで書いてある。
私がある日、お歳暮を送ったっていうことは、完全な事実である。
これです。
これが「山は動かない」ということ。
逆に「山が動く」ということはどういうことかというと、
完全に送ったと思ってるお歳暮を、実はまだ送ってないかもしれないと思えること。
これが事実がひっくり返るということ、山が動くってことだなと思ったわけです。
常識を疑えないとき人は苦しむ
お歳暮を送ったということは、私にとっては、山は動かないのと同じくらい確かなこと。
それはもう、事実なんですよ。
だけど「禅」で言っている「山が動く」ってのは、この動きようのない事実がひっくり返るってことなんですよね。
私が父の、1回多くても2回の、10秒15秒程度の確認行為になんでそんなに腹が立つかというと、こちらの常識がグラグラさせられるからなんでしょうね。
私には父が「明らかにわかりきった、もう間違いのないことを不安がってる」っていうこと自体が許せない。
それつまり、私にとっての動かない山を、動かそうとしている行為だから。
まぁ動かそうとまではしてないにしても、私の山(常識)に、ちょっかいを出されてる感じはするわけです。
それが、ものすごくストレスなんですね。
常識を疑えないから苦しい
私は、禅の言葉、ただ常識の反対のことを言ってるような言葉を見ただけでもイライラしたわけです。
自分の持ってる常識をひっくり返されるというか。
思い込んでいることに気がつかないということを刺激されるというか。
私が常識として疑えていないことを疑われている気になるというか。
そこで、グッと深く洞察してみると、どうやら私は、誰かに常識を疑われるから苦しいのではなく、自分で自分の常識を疑えないから苦しくなるようですね。
事実を疑えるかどうか
お歳暮を送ったことは、私にしてみれば、完全な事実なんですけどね。
証拠だってあるわけですし。
だけど、それが実はそうじゃないかもしれないと思えるかどうかというところが山が動くところだったわけです。
これは、大変なところだったんだなぁと、あらためて痛感しましたね。
山が動いてたまるか
山は動かないよ。
絶対。
だって事実なんだもん。
こんな感じの強烈な、常識感というか、現実感というか、事実感というか。
これですね。
これを疑えと。
常識が変わればイライラも変わる
実際はわからないですよ。
私の記憶だっておかしくなってる可能性はゼロではない。
実は、お歳暮を送っていないって可能性もあるわけなんです。
証拠があったって、なんかの間違いでその証拠通りに送れていないことだってありうる。
そんなふうに、今、当たり前の現実・事実がひっくり返る余地があるかどうか。
その現実・事実がひっくり返る余地があれば、このお歳暮の件の、父の確認行為に対する私のイライラが変わってくる。
なるほど、と。
「お歳暮を送ってないかもしれない。」
半分冗談でも、そんなふうに、私が信じ込んでる現実と、少し隙間が持つことができれば、父のどうしようもない行動・行為に対する、こちらの感じ方が変わるだろうな、と思ったわけです。
山が動かないから苦しいということもある
山は動かない。
橋は流れないし、水は流れる。
当たり前のことだ。
これは、もうどうしようもない。
どうしようもないんだけど、それだからこそ苦しいってことがある。
そこでね、山は動かないし、水は流れるし、橋は流れない。
そう、わかっていながらも、同時に、
山は動く。
水は流れず、橋が流れる。
そう思えるかどうか。
事実としか思えない、強烈な現実体験を疑う、少しの隙間をもてるかどうか。
ありのままの現実がステキになるように
禅の絶対「一」の世界も、今、私が事実だと感じてるものがひっくり返らないと、なかなか感じられない世界なんだろうなと思っているわけです。
私は何度かこれまで、現実がひっくり返ったことがあるわけですが、どこかでまた、ひっくり返って欲しいなあと思うばっかりです。
少しでも、このありのままの現実が、私にとってステキになるように。
思い込んだら生命がけ
私のカウンセリングの先生が、
「思い込んだら生命(いのち)がけだ」って言っておりました。
事実として思い込んでいる強烈な現実感。
その実在を疑うってことは、基本的には難しい。
何かきっかけは必要です。
そして気づく。
気づきは、向こうからやってくるものなんです。
ハッ!と。
あっ・・・そうか、と。
山が動くためには
これは逆説的になりますが、山が動くためには、
「山は動かねぇー!」って、めちゃくちゃに叫べるかどうかっていうのも、大事な気がするんですよね。
山は動かないから山なんですよ。
それが現実。
それが実在。
そういう実在の世界を私達は生かされてるんだ。
そこを忘れちゃいけません。
そうそう山は動かないですよ。
山は山ゆえに動かない。
だから山は動く。
両方必要なんだよ。
片方じゃ、ダメなんだ。
空淡、黒田明彦