こんにちは、黒田明彦です。
今回も「禅」体験について語っていこうと思います。
今回の内容は、なぜ私が自分流の「禅」みたいなものを始めたかっていうところから始まって、最終的には「禅」で機械に支配されることから少しだけ抜けてみないか?という提案をいたします。
まぁ、時代的にも、今の社会構造的にも相当難しいだろうなぁとは思いますけどね。
物質的にではなく、精神的に豊かになることを切に求めている人には、大変興味深い話ではないかと思います。
まずはこちらの動画をどうぞ
「禅」で機械に支配されることから少しだけ抜けてみないかという提案
それでは、補足解説をどうぞ
「禅」の動機になった不思議
前回の記事でも書きましたが、私は若い頃からテレビゲームをすることを趣味としてきました。
そして、20代後半からは動画鑑賞が私の余暇の大半を占めるようになりました。
ニコニコ動画から私の動画鑑賞は始まって、いつの間にかyoutubeに移行してましたね。
仕事から疲れて帰ってきたら、もうすぐにパソコンつけて、動画を見たり、ゲームやったりしていた。
とにかく空き時間ができればすぐに動画を見たり、ゲームをやることが当たり前。
それはもう息つく暇もないという感じ。
動画とテレビゲーム(スマホゲー等も含む)さえあれば、余暇を満足して過ごすことができる。
私の人生の半分ぐらいがそんな感じでした。
動画やテレビゲーム、つまり液晶画面に依存してさえいれば、下手な人間関係に依存することもなく、また、その他の趣味と比べても、ほとんどお金を使うこともありませんから、私の余暇は合理的だったと今でも思います。
ゲームと動画鑑賞をやめたくなったきっかけ
しかし、最近になって、不思議だなあと思うことがありまして。
思い返すと、新しい立派なスマホもつようになってから、特にそうなのかなとも思うのですが…。
私は今、親鸞に会う道ということで、浄土真宗の勉強をしたり、親鸞の言葉の勉強をしたりしています。
そして、いろいろ本を読んだりしていると、やっぱり学習の興味は派生していくもので。
仏教や親鸞のことに詳しい人は、「禅」についても詳しい人が多くて、私も「禅」について興味を持ち、自分なりに始めてみることにしました。
私流の禅
私流の「禅」は、「何もしないをする」というところから始まっています。
それはただ、長い時間、何もしないで座っているわけですが、そこからはいろいろな学びが生まれます。
さて、長い間、何もしないで座っていると、未熟な私は、自然とウトウトしてしまうわけです。
まどろみの中にいるというか、完全に寝ているわけでもなく、意識が半分飛んでる感じ。
半分は起きていて、半分は寝ているという不思議な感覚。
誰もが経験したことがある感覚だと思います。
まどろみの中、再生される映像
ただ、その意識が飛んでいる状態のときに、頭の中に繰り返し浮かんできたのが、ゲームの映像だったり、最近見た動画の映像だったのです。
私はその状況に、妙というか、違和感というか、引っ掛かりを感じたんですよね。
意識が飛んでいる状態ってことは、現実感が揺らいでいる世界なわけですが、そういうときって、自分の意思とは関係なく、脳ミソにインプットされている情報が再生されているような感じだと思うわけです。
意識が飛んでるわけですから、それが自分の意思を超えていることは疑いようがない。
そんな状況で、ゲームや動画の映像が繰り返し流れている…。
それはつまり、よっぽど私の脳ミソが、ゲームとか動画の液晶画面に強い影響を受けているからではないかと、思えて仕方がなかったのです。
ちょっとゾクゾクする感じですね。
それって、なんか嫌だなぁ
私はこれまで、当たり前のように、毎日毎日、空き時間ができれば、動画を見たり、ゲームをしたりしていました。
それによって、日々いろいろなことに悩んでいる、この脳ミソの意識のちょっと下には、その日々の悩みとは全く関係のない、液晶の映像の世界がバァーッて広がっちゃってるって思ったときに・・・、
これは、なんか嫌だなぁって思ったんですよね。
私としては、あくまで、空き時間・隙間時間にそういう動画とかゲームをやっているつもりだった。
だけど、脳ミソの多くの部分がゲームとか動画の液晶の映像で埋め尽くされているのかもしれない。
それって、なんか嫌じゃないですか。
私は、それをきっかけに、私の人生の時間は、動画とかゲームとか、液晶画面中心じゃなくて、「禅」中心になったほうが良いような気がして、今、集中的に「禅」をやっているわけです。
液晶画面の影響力
感覚的な話になりますが、私には、ゲームとか動画などの液晶画面を見続けることによって、その画面の奥に感受性をもっていかれていたような感覚があります。
ゲームと動画鑑賞をパッタリとやめて、「禅」(何もしないをする)をしてみたら、今それがわりと鮮やかに戻ってきている感じがしています。
液晶画面に吸い込まれていった感受性が戻ってきている感じ。
より自分という感覚がはっきりしているというか、感情・思考・脳の働き自体がクリアになっている感じ。
人間らしくなっている感じと言いますかね、そんな感じがあるんです。
ただ、一方では、若い頃はむしろそうやって、感受性を持っていかれてたり、脳の働きを鈍くしていたこと自体も望むところだったというところもあるかもしれません。
私の場合、強すぎるというか、暴れまわる感受性・感性をいかにおさめるかというのは、1つの大きなテーマだった。
ゲームや動画は、私の感受性・感性を安全に鈍らしてくれるものであったような気はするんですよね。
機械の支配からの解放・離脱
動画とかゲームとかの液晶画面、もしかしたらインターネット全般に言えることかもしれませんが、当たり前のようにそれを常用することによって、脳ミソは大きな影響を受けているのは間違いなさそうです。
私の感覚では、考える力と感じる力そして、受けとる力が弱まってしまう、もしくは育ちにくいという感じです。
それは、状況によっては一長一短と言えなくもないのかもしれませんが、人間生活的には、よろしくないとあらためて思うんですよね。
とはいえ、今の現状、社会常識的にも、スマホを見ないで、パソコン見ないで生活するなんて、若くなれば、若くなるほど、考えられないだろうとも思います。
私なんかも、パソコンの仕事の合間に、パソコンで動画を見て休憩したりしてましたからね。
極端に言えば、ゲームの休憩は、他のゲームをすることでする、みたいな。
脳も目もいつ休まるんだ?って感じです。
もう、完全に液晶の世界に支配されてしまっていたような感じです。
機械に支配されている現代人
しかし、こんな私の液晶中心生活は、今の現代を生きる人間にとって極端なものなのだったのでしょうか。
電車の中を見ても、スマホ見てない人の方が少ないぐらいです。
現代人がどれだけあの液晶画面を見てるのかって話になってくるわけです。
人間が考えなくなったのは、テレビが普及してから?
偉い哲学者の話を本とかで読んでいると…、
「人間はいろいろ変わってきてしまった。」
「考えるということをしなくなった。」
「非常によろしくない方向に進んでいる。」
と、嘆いている人がいるわけです。
そのような文章を読むと、私は毎回嫌な気持ちになるのですが、はたして、一体その人間のよろしくない変化は、どこから始まったのかな?と、考えてはみるわけです。
そして、私には一つの仮説が生まれます。
人間の考える力が低下したのは、毎日毎日テレビを見るのが当たり前の暮らしをするようになってからではないだろうか?と。
私が生れたころにはもうテレビはありました。
小さな頃から私は、何か、息抜きをするときはテレビを見るみたいなことが非常に多かった。
それが今はさらに進化して、パソコンの映像、そしてスマホ時代になってきている。
当たり前のように受動的に映像を見て、そこから大量の情報・刺激を得るという習慣。
これが、脳ミソによろしくない影響を与えているような気がするんですよね。
液晶機械の依存性
テレビもそうでしたが、現代を支配しているスマホ、その依存性は凄まじいです。
動画やSNS、そしてゲームも、世界の天才たちがいかに依存させるかってことを考えて作った機械です。
そこから抜け出すのは相当のことだと思います。
それはもう、物理的に使えなくなるか、相当に自分で懲りることがない限りは、抜け出すことは不可能だと思えるほどです。
機械に人間が支配されるという話を物語で見かけますが、それは別に、もう少し未来に、AIが暴走して…とか、そういうことではありません。
もうだいぶ前から、すでに、人間は機械に支配されてしまっている。
人間が機械を使っているのではなく、機械が人間を使っていると、偉い哲学者は言います。
そんな難しいことを抜きにしても、たとえば既に、スマホを見ない生活なんて考えられないのではないですか?
液晶画面を見ることが報酬になってしまっている
動画もゲームもそうなんですが、それが自分の脳への報酬になってしまっています。
だから、疲れたり頑張ったりした日は、動画を見て、ゲームをして楽しもうとか、なんか辛いこと、悲しいことがあったときは、動画を見て、ゲームをして乗り越えようとか、そういうことになってしまう。
動画やゲームが自分にとってご褒美になっているわけです。
もうこうなると、本当に抜けられないだろうなぁと思うわけです。
脳への報酬へ「禅」を提案
この脳に対する報酬という考え方ですが、実は、「何もしないをする」っていうことも、脳に対する報酬になりえます。
「何もしないをする」ってことが、脳の報酬になったら、ものすごいシンプルな生活が出来るようになりますよ。
そして「何もしないをする」が報酬になったら、もうそれからは、何をやっても報酬となってしまうような日々が待っているかもしれません。
そうなったら、スマホの電池が切れても、世界が崩壊することなどなく、幸せに生きられる人間になれるかもしれません。
とにかく「禅」をはじめてみる
趣味として、空き時間に、「何もしないをする」をやってみる。
そこから始まって、頑張った日には、辛かった日には、ご褒美として「何もしないをしよう」と考えられるようになる。
そんな精神を作っていけると、機械に支配されていくってことはなくなっていくかなと思うんですよね。
「何もしないをする」ことで機械からの支配を抜けよう。
そうすると、新しい自分の脳ミソに出会えますよ。
今回はその辺りを提案するという形になりました。
この世界を変えたいと心底思っている人、是非、やってみてください。
空淡、黒田明彦