私流「禅」

禅問答「犬にも仏性はあるか?」に答える。そもそも犬はいるのか?という話。

厳しい修行を積んでいる禅僧のために、禅問答というテストみたいなものがあります。

今回は、その禅問答の公案の中の1つに、私なりに考えて答えてみました。

さて、「犬にも仏性はあるのでしょうか?」

仏性とは、悟りの種、悟りへの可能性みたいなものと考えればよいと思います。

あなたは、どう考える?

まずはこちらの動画をどうぞ

禅問答「犬にも仏性はあるか?」に素人が答えてみた

それでは補足解説をどうぞ

禅と言えば座禅と禅問答

どうも、黒田明彦です

今回も「禅」体験について語っていこうと思います。

禅と言えば、ひとつは座禅。

そして、もう1つは禅問答というのがあります。

禅問答というと、ちょっと人を食ったような感じというか、聞いたり読んだりしていても、難しすぎてなかなか腑に落ちないような感じがあって、私はあまり好きじゃありませんでした。

ですが、禅に関する本を読んでいると、どうしてもチラチラと禅問答の公案を見かけます。

目に入っているうちに、自分で座禅している最中なんかに、それがふっと浮かんで、なんとなく検討してみたりすることもあるわけです。

答えは一つではない

禅の公案は意地悪と言うか、わりと無体な、答えようのない問題が多いです。

そして、禅問答の公案には、特に決まった一つの答えがあるわけではありません。

禅の修行者が、禅問答を通して、その修業の成果を師匠に見せるような感じですね。

今の自分の仏法の理解、つまりは、自分の悟りの状況を披露するわけです。

公案「犬にも仏法があるか」

今回私が、なんとなくやってみたのは、

「犬にも仏性があるか?」という公案です。

仏性っていうのは、簡単に言えば、悟りの種というか、悟りへの可能性と言えるかもしれません。

要は犬も悟れるのか?という話ですね。

これは、初心者向けの禅問答の公案として有名だそうです。

ちなみに仏教には、一切(いっさい)衆生(しゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)という、生きとし生けるものには、悟りを開く素質があるという言葉もあります。

じゃあ、それが答えじゃないの?って話になりますが、自分で考えるのが禅問答の基本なんですよ。

そもそも犬はいるのか?

さて、それでは、私がこの禅問答の私なりの答えに行きついた道筋を語っていきます。

私はこれを「よし、解いてやるぞ!」みたいな、そんな気持ちで取り組んだわけじゃなくて、何となくこの問題が頭のどこかに残っていて、別のことを考えているときに、その答えに繋がったという感じですね。

痛すぎる結跏趺坐

この前、結跏趺坐について少し触れましたが、座禅のときに、あの座り方をしていると、すごく背筋が真っ直ぐになって、呼吸は楽になるわけです。

だけど、もうとにかく足が痛くてしょうがないんですよね。

現在私は、座禅の時間を1セット40分としています。

結跏趺坐にも少しずつ慣れてきているので、私はその40分間通しで、結跏趺坐のポーズを維持できないだろうか?と、意気揚々とチャレンジしてみたわけです。

しかし、何度やっても無理なんです。

とにかく足が痛すぎる。

あまりにも痛すぎて、途中でポーズを崩さざるを得ない。

どんなに痛くても、足を崩したら数秒で痛みがとれることは、経験済みなんだから、もう少し我慢できればいいのに、後10分が我慢できない。

それが悔しくて、もう余計なことをいろいろ考えだしてしまったわけです。

痛いという言葉がなくても痛がれるのか

そもそも痛みっていうのは、なんなのかと。

身体?この足が痛がっているのか?脳が痛いのか?それとも私が痛いのか?

そんなことを考えながら、同時に、言葉についても考えが始まりました。

はたして、痛いという言葉がなくても、私は痛がれるのだろうか?

痛いっていう言葉がなかったら、痛いを感じられないんじゃないか?

「痛さ」「痛み」「痛い」というような言葉を言い換えると、どんな言葉になるだろうか?

ビリビリとか、ズキズキという言葉には言い換えられる。

ビリビリズキズキも擬音だけど言葉であり、日本語だ。

その、ビリビリズキズキという言葉がなくても、私は痛みを感じることができるだろうか?

言葉がなければ認識ができない

私は言葉がないと認識ができない。

痛いとか、ズキズキって言葉がなければ、じゃあこれは何?っていう話。

「なんかよくわかんないけど、うううううう」と言うにしたって、

「なんかよくわかんないけど、うううううう」という言葉に既になってしまっている。

言葉があるところに私の認識は生まれるわけだ。

犬は痛みを感じているか?

そこまでフワフワ考えたところ、ふと思ったわけです。

「じゃあ言葉を持っていない犬は、痛みを感じないのか?」

そんなわけないよな…と。

たとえば犬が、たまたま自分の前足を誰かに踏まれちゃったりしたら、

「ワァァァァ―ッ」ってきっと、吠えるだろう、呻るだろうと思うのです。

そしてそれは痛いからだと。

しかし、ここでグッと思考は深まります。

犬は吠えない

「あ、その犬は吠えていない…。」

現実として、犬は何かしらの動きをするのだろう。

それは、日本語で聞き取るなら、「ウゥー」とか「ワン!」とかそういう音を出すことかもしれない。

しかし、それはこちらが言葉として聞いて認識したから、犬が吠えた、犬が痛がってるってなっているだけで、実際犬は、「ウゥー」とも言ってないし、呻ってもいないんだ。

だって犬は「ウゥー」という言葉も、吠えるという言葉も、呻るという言葉を持ってないのだから。

犬的には犬はいない

犬は犬として、ただ、そのまま在っただけなんだ。

それをこちらが、足を踏んだとかね、痛いだろう、呻っている、怒っているっていうふうに、こちらの言葉で認識している。

そもそも犬って言うのもこちらの言葉だ。

だから、犬的には犬はいない。

言葉が絶えた世界

そのようなことを考えていたら、唐突ですが、浄土真宗で言うところの浄土、キリスト教で言えば、天国について考えが及んだわけです。

真実の世界ってやつは、要は言葉が絶えた世界なんだ、と。

浄土でも、天国でも、いわゆる極楽の世界っていうのは、言葉が絶えた世界なんだ。

その言葉が絶えた世界っていうのは、人間にとっての浄土、天国であって、人間にとってのみ、極楽なんです。

というのも、言葉を持ってない動物や、植物たち、その他全てのものたちは、既にその言葉の絶えた世界にいるんだから。

人間だけが、言葉が絶えた世界(真実の世界)からやってきて、言葉に生かされる世界に存在するものになってしまっている。

言葉がなければ人間は生きられない

人間は、言葉がなければ、生きられない。

言葉によって喜び、苦しみ、生きている。

言葉がなくなれば、人間という存在はなくなる。

あるんだけどない、ないんだけどある

言葉がなくなれば、全て何も指し示せなくなる。

それは、何もかも認識できなくなってしまうということで、世界から何もなくなっちゃうということ。

いや、あるんだけど、ないってことになってしまう。

というか、あるもないもなくなって1つになる感じ

しかし、言葉の世界に生かされている人間は、ないものがあるっていうふうになってしまう。

ここなんですよ。

言葉が絶える世界がある

犬は、ないんだけどある。

だけど、あるとしても、それは本当は犬ではない。

「本当は犬ではない」も言葉だから、それも言えない。

そういうふうに言葉が絶える世界がある。

そこがまぁ悟りの世界であり、極楽浄土であると。

ここを基本と考えたわけです。

犬には仏性があるのか?

さて、これを踏まえた上で、犬には仏性があるのでしょうか?

これに対する、今の時点の私の答えとしては…

「犬には仏性はあるのか?」

空淡、答えて曰く、

「私には仏性があるのか?」

質問に質問で答えるところが禅問答っぽいでしょ?

答えの説明

少し説明してみると、「犬にも仏性はあるのか?」という問題ですが、仏性も、もちろん言葉ですが、まず犬が言葉なわけです。

犬は言葉でしかないので、犬は存在しません。

犬という言葉がなくなってしまえば、犬は存在できません。

つまり犬という実体はない。

犬という言葉で何かを認識している、人間(私)の方にしか犬はいないわけです。

ただ、犬はいるんです。

現実として、私はその何かを犬として認識しているからです。

犬はいる。犬はいない。

この両方があるわけです。

そうなってくると、犬はいるとしたときは、それは犬=私の認識、つまり、犬=私です

私が犬であるならば、私に仏性があるのであれば、犬にも仏性はあります。

当然人間には仏性はある、つまり私には仏性があるということになれば、犬にも仏性がある。

しかし、たとえ人間には仏性があると言われていても、この私に本当に仏性があるのかと言われればわからない。

だから私は「私には仏性があるのでしょうか?」ということで答えたわけです。

犬は私であり、私でしかありえない

ここのところを言っているわけですね。

この「私」というところを外してしまえば、つまり言葉を外してしまえば、犬はいなくなる。

問答の終わりに

私は言葉がなければ、全てを認識できない。

あるものをあると認識できない。

そして逆に、言葉のお陰で、ないものをあると認識してしまってばかりである。

人間の悩みや苦悩の類は、全てそういうものなわけです。

だから言葉の絶えたる世界こそが、人間にとって極楽浄土、天国であるのだというのが、今の時点の私の理解、私の悟り具合ですね。

私は、現時点では、神や仏が言葉を超えた存在でなければ、神や仏を肯定できないという感覚があります。

言い換えれば、宇宙の働きが言葉を超えていなければ、私は宇宙を肯定できないということ。

それはつまり、神や仏や宇宙が私を超えた存在でなければ、私は神や仏や宇宙を肯定できないということです。

ふむ。

やっぱ私を超えた力、他力。

それを感じたときが、浄土にいるときなのでしょうな。

相当わかりにくかったと思いますが、禅問答自体、そういうものです。

現在の私のところでは、

「犬にも仏性はあるのでしょうか?」の答えは、

「私には仏性はあるのでしょうか?」でした。

明日はどうなるかわかりませんが。

さて、あなたに何か問いは生まれたでしょうか。

空淡 黒田明彦