続けて、安心について語っていきます。
今回は浄土系の思想にふれていきます。地獄行きが決まったその瞬間が、すでに救われた瞬間である。
これが不思議な他力の世界です。
まずはこちらの動画をどうぞ。
他力思想の絶対安心、地獄行き決定の瞬間=救われる瞬間 – YouTube
それでは、こちらは文字で語っていきます。
安心の方法
こんにちは黒田明彦です。
今日も安心について語っていこうと思います。
前回は、第三の目の話をしましたが、いろいろな角度から同じところを指して、安心について語っていこうと思います。
安心についての基本的な考え方としては、「私」という感覚「自我」の感覚の出番がなくなればなくなるほど、安心感は増してくるというところです。
全体で在るところの宇宙に、対してしまっている「自我」が弱まれば、自然と安心になる。
逆から言えば、自分というものが前に出れば出るほど、苦しみや不安は強くなってしまう。
浄土系思想と罪業感
さて、今回は浄土系の思想についてふれていきます。
浄土真宗での教え、親鸞の言葉などにふれて語っていこうと思います。
自己否定のシステム
現代における、社会観・道徳観から強く、自分を否定するような言葉が生まれ、自分に向かってやってくる。
苦労してない人は許されない。
社会は、人生は、苦しいのが当たり前。
苦しんでないやつはダメなやつだ。
みんな苦しいんだから、
みんな頑張ってるんだから、
みんな報われないんだから、
人間は苦しまなくてはならない…、みたいな感じ。
社会で働いていれば、それが当たり前のような気がします。
第三の目で世界を眺めて
仏教に学び、禅に学び、第三の目を開き、それで世界を眺めて見る。
全ては人間の計らいを超えて、完全に整っている。
この世界は人間がどうこうする必要もなく、完璧に整った世界である。
そんな視座に立って、ものが見えた時に、なんかまぁいろんなものが、別にいいのかなぁ…みたいな感じがしてきたんですよね。
他や未来のために自分を責めるんじゃなくて、なんかもうポイッてこう投げてしまうといいますかね。
私がよければ、今がよければ、それでいいやって話なわけではないんですけどね。
他や未来の不安で自分を責め続けるのは、なんか違うのかなって気がしてきちゃったんですよね。
これも不思議なんですけどね。
人間の基本的な罪業感
働いたら働いたで、なんかどこか足りないような気がして。
働かなければ、働かないで、社会的にどうだ、道徳的にどうだっていうことで、自分を責めだして。
そう考えると、どこで何をやっていても満たされないというか。
これは状況にかかわらず、基本的に自分を責める気持ちみたいなものがあるのかもしれない・・・と考えが至ったわけです。
さて、ここで浄土系思想が出て来るんですが、浄土系の思想の非常に根本的な考え方に、罪業感っていうのがあるように思うんですよ。
基本的に人間は罪深いものである。
そしてもう生まれた時から、地獄行きが決定している。
人間とは、そんな生き物であるみたいな感じですね。
罪業感を認識する
強烈にネガティブな思想に思えますよね。
しかし、状況に関わらず否定的な気持ちになってしまうのだから、結局そういう基本的な罪業感が働いているように思えてならないんですよ。
何も悪いことをしていなくても、自分は罪深くて、いつもなにか善いことをしてないと、地獄行きから逃れられない。
そんな感覚が意識のすごく下の方にあるのかもしれないんですよね。
罪業感は全ての人間がもっているのかも?
浄土系思想の罪業感、親鸞の罪業感の自覚なんて、強烈なわけです。
あまりに強烈過ぎて、これまでは、そんなネガティブすぎる思想は嫌だなぁみたいに思っていたんです。
しかし、どの人間にも、実は知らず知らず、いつの間にかというか、生まれたときからすでに持っている罪業感というものがあるのかもしれない。
そう思えたわけです。
人間はその存在だけで罪深い
人間は罪深い。
その存在だけで罪深い。
たとえば生きていくには、他の生命を奪わなきゃ生きていけない。
動物の肉を食べることもそうだし、野菜とか植物を食べることもそう。
みんな、みんな生きているんだ。
だけど、自分の生命を維持していくためには、他のものの生命を奪わなきゃいけない。
生命を生かすために、生命を奪わなくてはならない。
なんとも矛盾した存在だ。
だけど、そんなことは当たり前だから、誰も普通は反省しない。考えもしない。
だけど、意識していなくても、なんかどこかで引っかかってるような・・・。
なんかそういう罪の意識みたいのが基本的にあるのかもしれない。
罪業感は人間だけが認識できるもの
何も悪いことをしてなくても、自分は善くない存在だと思ってしまうような働きが、本来的に人間には備わっている。
それは、生命を奪わなきゃ生命を維持できないっていう、生命の矛盾を自覚できてしまう人間だけにできる反省なわけです。
他の動物は自分の生命を持続するために、他の生命を奪ってしまっても、そこに罪業感なんて感じない。
そういう認識がありませんからね。
ただ本能のままに生きている。
人間は、本能に任せて生きずに、認識とか自覚ができるようになってしまった。
それによって、自分の存在に罪を感じることができてしまう生物になってしまった。
意識の底にある罪の意識の作用
意識の底では、自分に罪の意識を抱えている。
そのベースにある罪の意識が、普段の現実の経験のいろんなものと組み合わさって、自分を必要以上に責めるようになってしまう。
宗教的感性で見ると、自己否定ってこんなメカニズムなのかもしれませんね。
地獄行きが決まった瞬間救われる
生きてるだけで罪深い。
自分は生きてるだけで他を傷つけ、自分を傷つけ、もう地獄行きが決定な存在なんだと薄々感じている。
だけどそれをそうそう認めるわけにはいかない。
だから、うっすらといつも、自分を含めたすべてを責めている。
そんな感覚って、実は結構大事な感覚なんじゃないかなと思うんですよね。
それは、ほとんどの人がはっきりとは意識できない、非常に繊細で宗教的な感覚だと思います。
浄土系思想の救い
この罪業感っていうものが、ある時からうっすらと自覚できるようになってしまったとき、浄土系思想っていうのが、ありがたくなってくるんですよ。
もう自分っていうのは地獄行きが決定なんだ。
どうやったって自分は地獄に行くしかない。
それをしっかりと認識できれば、開き直れるようになる。
阿弥陀様に救ってもらうしかない
浄土系思想は、阿弥陀様っていう仏様に、一方的に救ってもらうっていう思想です。
もう自分の力じゃどうにもならない、完全に地獄行き決定なんだっていうところに腹がすわるからこそ、仏様に救ってもらうことができるわけです。
いや、仏様は、こちらが何と言おうと、最初から、ずっと「救う、救う」と言い続けてくれているわけです。
こちらとしては、地獄行き決定が決まって、そこで初めて仏様を信じることができる(仏様の呼び声が聞こえる)ということになるわけですね。
そこにくると、救われていくしか道が残っていない。
地獄行き決定が本当に腹の底から決まった瞬間に、仏様に救われることは決まってしまう。
完全に仏様にお任せするとそれしかないとなったその瞬間に、実はもう救われている。
そんな不思議です。
地獄がそのまま浄土になる
自分が苦しければ苦しいほどに、救われる力が強まるような感じになってきます。
自分が苦しければ苦しいほどに仏様の救いの力が増していくんです。
地獄がそのまま、浄土、救いの世界になってしまう。
そんな感じです。
地獄行きが決まったら、今を幸せに生きろ
だから、地獄行き決定の自分に、もう腹が決まってしまえば、あらためて自分を責める必要などありません。
だってもう地獄しか行き場のない、どうしようもない自分に決まったんですから。
そこに諦めがつくと、まぁあとは仏様に一方的に救ってもらいましょうと。
最初から地獄行きが決まっている。
そして、そんな自覚が生まれたその瞬間に、救われることが決まってしまう。
というか、今ここで、すでに救われてしまう。
これが他力の世界です。
これは安心ですよね。
全ての人間に用意されている安心の道
他力の絶対安心に到達するには、自分が地獄行き決定だということに、疑いようがなくなるようなところまで追い詰められる必要があるかもしれません。
だけど、地獄行き決定の自分は、全ての人間が最初から薄々と感じていることなんだと思います。
もし、それをはっきり認識できるのだとしたら、それはとても人間らしい、素晴らしいことなのではないでしょうか。
やっぱり罪業とか、救いとか、宗教くさい言葉は、抵抗ある人は抵抗あると思います。
しかし、「自分は地獄行き決定である。」
この自覚は、人間という脈の純粋な反省の極致です。
これは、全ての人間がうっすらと感じてる罪業感。
そしてこの罪悪感こそが、救いへの道しるべとなっていると私には思えたのでした。
安心は安心に非ず故に安心である。
不安は不安に非ず故に不安である。
黒田明彦でした。