親鸞に会いに行く道ということで、語っておりますが、なかなか親鸞には会うことはできません。
しかし、仏教の深い知恵に触れていくことは、今までの自分の世界がひっくりかえりそうなほどの感銘を受けております。
やっぱり、学習って面白いですね。
今回は、前回に続き、今の私がいただいている仏教の目的について語っております。
仏教の目的の1つは、人間の絶対の孤独を突破すること。
どうぞ読んでみてください。
まずはこちらの動画をどうぞ
人間の絶対の孤独を突破するのに必要なのは、自我の外にあるより真なる世界との交流だ。【親鸞に会いに行く道vol.4】
それでは、動画の補足解説をしていきますね。
仏教は絶対の孤独を突破できるか
それでは、今回も仏教にふれた私のところを語っていこうと思います。
前回私は、仏教の目的の1つは生死の一大事を解決、突破していくというところであると、いただいているということを語っていきました。
生死の一大事とは、人間は、死んだ後どうなってしまうのかっていうことを突き詰めていくというようなことですね。
今回も仏教の1つの目的について、いろいろな人の話を聞いたり、いろんな本を読んだりして、今私がいただいているところを語っていきたいと思います。
仏教の目的のもう1つの大きなものが、生まれてから死ぬまでの、絶対の孤独を突破するっていうことなんですよね。
仏教には、独生独死独去独来という言葉があります。
動画では間違えて、「どっきょ」と発音してしまっていますが、正しくは、「どくしょうどくしどっこどくらい」です。
独り生まれて独り死に、独り去って、独り来る。
全部独りって言葉がついていますね。
たった独りの人間
「独」という文字は、「たった独りの人間」ということで、私もずっとカウンセリングの学習の中で学んできていますので、私にとっては、馴染みある感覚、人間観です。
独去独来のところは、とりあえず置いておいて、独生独死。
独りで生まれて、独りで死んでいくのが人間ですよ、と。
この人間の孤独をいかに突破していくか。
これが、仏教の目指す救いの1つであると思います。
自己・自我・独りの世界を生かされている人間
人間は、心理学で言うところの自己とか自我というような、自分の枠というか殻みたいなものの中で生きています。
それは、全てが自分の価値づけ、意味付けに満たされている世界です。
そして、自分の力ではどうやってもその自我という枠・殻を超えることはできません。
その小さな自己・自我の世界を生かされるしかないというのが、非常に悲しい人間の事実であるという人間観が、仏教の人間観であると、私はいただいております。
独りで生まれて独りで死んでいく
人間は独りで生まれて、独りで死んでいきます。
何のために生まれて、何のために死んでいくかなんてわかりません。
気づいたときにはもう、自分という存在は始まっていた。
そして、どんどんどんどん自分は死に向かっていくということを知ります。
自分の価値も、生きる目的も誰にも教えてもらえないままに、訳もわからず生きて、訳もわからず死んでいくしかありません。
そんな人間(私)は、他の人間との関係の中でしか自分の価値というもの、自分の存在そのものを確認することができません。
なんとも難儀なものです。
人間の悲しき差別(しゃべつ)
私は、たとえば人間関係において、この人は私にとって価値のある人間とか、価値がない人だとか、どんどんどんどん自分で線引きをして、区別していきます。
仏教では差別(しゃべつ)という言葉があるらしいですが、人間は、とにかくとにかくいろんなものを分け隔てていく。
自分の中でいろんなものをランク付けしていく。
自分の位置、価値もその中で決めていくしかない。
それは、誰も入り込むことのできない自分の枠の中で行われる孤独な価値づけです。
その価値づけの世界には誰も入ってこれません。
だけど、それをしなくちゃ生きられないんですよ、人間は。
愛すら差別(しゃべつ)
仏教の中では愛すら差別(しゃべつ)であると説かれているそうです。
愛というのは「私はあなたを愛します」ってことですよね。
しかし、厳密に自分を見つめてみると、私があなたを愛しますと言った瞬間に、線引きは行われます。
愛するという行為は、愛さない人を生み出すということになるわけです。
「私はあなたのことを世界で一番愛しています」
そう言った瞬間、私に世界で一番愛される人が生まれると同時に、私に愛されない人もまた、生まれています。
そこにどんなに素晴らしい感情があったとしてもです。
差別(しゃべつ)なければ愛もなし
人間は、比べて、区別して、差別することでしか人を評価というか、認めることができない。
愛も、その1つに過ぎないと。
誰か一人を選ぶということは、選ばれない人が出てくるということです。
そしてまた、正直に言って、私たちが欲しがっている愛とは、「あなたも愛している」ではなく、「あなた(だけ)を愛している」ではないでしょうか。
そういう差別(しゃべつ)の世界で満たされることを私たちは望んで生きているということです。
自我という小さな殻の中でね。
承認欲求とか、愛情飢餓
承認欲求とか、愛情飢餓は、人間の1つの極端な特徴としてクローズアップされているように思いますが、実際はすべての人間が抱えているものです。
人間は全て、たった独りで自我という小さな殻の中に生きています。
そして、自分の価値や存在を人間関係の中で、他人と比較することでしか見出せないわけですから、ふとした瞬間に孤独や、虚しさ、寂しさを感じることが誰しもあるのは、当たり前のことではないでしょうか。
自分というもの
生きる目的も教えてもらえないし、どこから来て、どこに行かなきゃならないのかもわからない。
たった独りで、小さな小さな自分の自我の世界を生きるしかない。
そんな人間の、絶対の孤独をなんとか突破できないものでしょうか。
そのための知恵を、滅茶苦茶繊細で、ウルトラ純粋な天才たちが紡いできたのが仏教なのだと私はとらえています。
真なる世界の呼び声が、孤独を破る
仏教でいうところの悟りの考え方の1つとして…。
私・自我・自己っていう、自分という枠組み・殻。
その殻を打ち破った、自分の外に、完全なる平等の世界がある。
そんな真実の世界が存在し、その世界と一体化していくのが悟りであると、私はいただいています。
この自分という枠の外には、完全なる平等の光り輝く世界があるのです。
それが真実の世界。
自分という枠の外に、真実の世界はある。
自我という殻の世界は夢の如し
そういう意味では、この自分という枠、この自分、この自我という殻の中の世界っていうのは、夢のようなものです。
夜に寝て見る夢の如しですね。
その夢の世界から覚めるっていうのが、いわゆる悟りと言えます。
夢の世界から、真実の世界に目覚めることができるようになるのが悟り。
完全な平等の世界
光り輝く、完全な平等の世界がこの私、自我の殻の中の世界の外にある。
それに目覚めることができるということは、悟りを開くということになりますので、それができたのはお釈迦様だけです。
お釈迦様以降、それを生きているうちに見ることができた人はいないわけですね。
人間は差別(しゃべつ)の世界、比べることでしか自分の価値を認め、確認できず、自分の存在が定まりません。
そういう悲しい人間の自我の殻の世界。
なんとかしてその自我の殻を突破しなくては、救いはありません。
完全な平等の世界を望めないのが人間
そこを抜け出すことしか苦しみから救われる術はないのに、人間はその差別の世界を抜け出すことを望まないんです。
この私の殻の外に広がっている、完全なる平等な世界。
たとえばその世界では、ゴキブリと自分の価値が同じなんです。
雑草と自分の価値が同じなんですよ。
そもそも区別そのものがないわけですから。
そんな平等な世界、受け入れられますかね。
何人も人を殺した大悪人、あなたの大事な人の生命を奪った大悪人ですら、あなたの価値と等しいんですよ。
本気で本気で考えてみてください。
そんな世界、あなたは望めるでしょうか?
私たちの苦しみの原因は、差別(しゃべつ)であり、私たちは救われたがっているのに、差別(しゃべつ)のない、完全な平等の世界を望むことすらできない。
分け隔てることでしか価値や存在を確認できない、ひとりぼっちの小さな孤独な世界を生きるしかない。
なんとも大変なことです。
この絶対の孤独を打ち破る知恵
完全なる平等の世界を望むことすらできない人間(私)が、どうやって救われていくことができるのでしょうか。
- 孤独
- たった独り
- 分け隔てなしにはやりとりできない
- 自分にとって価値があるかどうかだけでしか、他人を判断できない
- 根っこではいつも比べて疑って
- どんな人間ともわかりあえない
- ずっとひとりぼっちの殻に閉じこもっているような人間
そんな人間は、珍しいでしょうか?
珍しいのは、おそらく、自分がそんな人間であると自覚できている人間です。
実際は、全ての人が、そのような独りの世界を孤独に生きているのではないでしょうか。
さて、どうやって生きているうちにそんな孤独の世界から救われるのか?
どうも、繊細で純粋な天才たちに言わせると、私自身の力で救われていくのは不可能なようです。
真実の世界の呼び声を聞く
私の力で、私の自我の小さな世界、差別(しゃべつ)の世界から救われることはできない。
ですが、天才達は、
私が望もうが、望むまいが…。
私という殻の外から・・・。
私という自己・自我の外に広がっている、完全な平等の光り輝く世界が、実は、ずっと呼び続けてくれているというんです。
私の名前を。
真如の世界
仏教では、真の如き世界って言われていますが、その真如の世界から、ずっと私は、呼ばれ続けている。
その呼び声に気づけるかどうかがまずは肝心です。
この差別(しゃべつ)の世界。
たった独りの孤独の世界。
闇を闇とも気づかずに彷徨っている私。
その私に向かって、より真なるものが、名前をずっと呼び続けてくれているんだっていうことに気が付くこと。
そして、その呼び声に応じること。
そうしていくことで、たった独りの私と、より真なる世界が交流できるようになってくると、自分という打ち破ることができない殻の中にいるまま、たった独りの人間のままで救われていけるようです。
それは、より真なるものに、望まないままに触れていけるという感じでしょうか。
望まないままに触れたあとで、その存在を認めざるを得なくなる感じでしょうか。
そういうことができてくると、生きているままで救われていく可能性が出てくる。
今の私にはそういただけているのです。
絶対の孤独を突破するのに必要なもの、まとめ
より真なるもの
そこからの呼びかけに応じる。
人間は、自我という小さな殻に閉じこもったまま、人間のままで、そういうことができる。
それは、より真なる世界がずっとずっとこちらに呼びかけてくれているからです。
だから人間は、ただその世界からの声に応じることで、その世界と交流することができて、たった独りのどうにもならない孤独、そして、独りではどうしても定まらない自分っていうのが少しだけ安らかになる。
そういうことができるみたいですね。
その、より真なるものからの呼びかけを感性豊かな天才たちは、神や仏と言ってきたのでしょう。
空淡 黒田明彦