どうも、黒田明彦です。
今回も語っていきますが、今回は(今回も?)クドクドです。
内容の一番大事なところは、
「一」は「二」を否定しなきゃ存在できないし、「二」は「一」を否定しなきゃ存在できない。
同時に「一」は「二」がなきゃ存在できないし、「二」は「一」がなきゃ存在できない。
ゆえに、「一」と「二」はお互いを否定しあう、全く違うものでありながら、同一である。
この絶対矛盾の自己同一というやつです。
相手を否定しなきゃ存在できない。
しかし、相手がいなけりゃ存在できない。
まったく人間って、切ない存在ですよね。
まずはこちらの動画をどうぞ
私はあなたがいなければ存在できない。同時に、私はあなたを否定しなければ存在できない。絶対矛盾の自己同一
それでは、補足解説をしていきます。
久しぶりに会った先生に近況報告をした話
こんにちは黒田明彦です。
今回も「禅」体験について語っていこうと思います。
今回は、先日エンカウンターグループで私が語ったこと、そして一緒に参加していた、私がこれまでずっとお世話になってきている先生の応答と、さらにそれを経て私が学んだことを語ろうと思います。
私がそのエンカウンターグループで、主に先生に向けて語った内容は、ここ最近の近況報告みたいなものです。
先生も忙しかったり、ここのところ某ウイルスの影響でエンカウンターの場も少なく、なかなかお会いできていなかったので、いっぺんに私のこの1年のところを伝えた、という感じになりました。
「死にたい」がやってきて仏教の扉が開いた話
さて、ここから、私が先生に向けて語った内容になります。
雇われ仕事を辞めてから、自分一人で仕事をやるって頑張ってみたんだけど、全然成果が上がらなくて…。
自信もなくなっていくし、不安にもなっていくし、どんどん自分が社会的に価値がなくなっていくんじゃないかみたいな不安に襲われていた。
そして、40歳をむかえたことで「死」というものが、自分にとって迫ってくるような感覚にもなり、この一年「死にたい」っていう言葉が私のもとにやってくるようになった。
その「死にたい」っていう言葉によって、私はどうなってしまったかというと、苦しんだあげく、仏教を学ぶための道が開いた。
これまで、何度となく先生から聞かせてもらっていた、親鸞の思想、言葉にも、あらためて触れる機会をもった。
そして、親鸞、鈴木大拙、禅っていうふうに繋がっていって、今私は、禅にハマっているんです、と。
最近の興味と課題の話
そして、今の私の課題というか、とても関心があるところは…、
禅だけじゃなくて、仏教全般が重きをおいているものに、自我の超越というか、自我との向き合い方というものがあると思う。
この私、自我、自分の意識というもの。
これがあるからこそ、そして、そこに執着してしまうからこそ、この世界、この人生は苦しいのだと。
言い方を変えると、相対的な世界に生きるしかないから、人間は苦しいのだと。
私という自己意識があるっていうことは、相対的な世界を生きるということになる。
「私」と、自分で自分のことを認識できたその瞬間から、もう人間は、相対的な世界を生きるしかない。
相対的世界っていうのは、基本的に比較の世界である。
いつだって、自分と他人を比べて、右往左往。
だから、まぁ、どこで何をやってても、とにかく苦しい思いをすることばかり。
比較することでしか、この私は存在できない。
もうちょっと言うと、何かを否定することでしか、自分の存在を肯定できない。
これが、相対世界における私、である。
その世界が苦しくないわけがないんだ。
相互否定が相対世界の基本原理
私は、自分を肯定するために、他者を否定しなきゃならない。
同じように、他者はこの私を否定することで、他者自身を肯定できるわけだから、とにかく否定のループが生まれてしまうのが、この相対世界の基本原理なんだ。
そう考えると、まぁ、この相対世界が楽なわけがないんだよ。
絶対「一」の世界
否定しないと肯定できない。
それが相対世界。
だけど、この私という自己意識が生まれる前は、全ては一つだった。
最近よく聞く言葉で言うと、ワンネスというものになる。
それは絶対「一」の世界。
「一」なんだ。
そこは、私というものが必要ないというか、生まれない世界。
自我が生まれる前の世界とも言える。
仏教は自我をなくすために頑張る
そここそが、絶対安楽(極楽浄土)で、仏教はそこを目指すために、自己・自我をなくすとか、殺すとかいうような修行を頑張る。
そんな流れがあったんだけど、あるときに、そういう自己・自我をなくす、殺すための修行を繰り返しても、結局「私」ってものはなくならないのではないか?…。
そこに絶望しきったところで生まれたのが、親鸞の絶対他力だったりするんじゃないかなと思ったりもする。
絶対世界にぶつかれないだろうか?
とにかく私は、禅に興味を持ちだしてから、その絶対世界、「一」。
「二」が生まれる前の「一」の世界にすごく興味をもった。
私はこの相対世界がとにかくしんどいということで、七転八倒してるわけだ。
だから、その相対世界を超えている、絶対世界「一」の世界ってやつに、なんとかしてさわれないだろうか?なんとかしてぶつかれないだろうか?と思うのだ。
その絶対世界、「一」の世界と接触できたときこそが、私が救われるときじゃないか…と。
と・・・いうようなことを考えています、と先生に伝えたわけです。
まぁ、ここまでの学びのまとめを一気に伝えたわけですね。
先生の応答
先生は「ほうほう」と聞いていて。
「面白いね」、「鈴木大拙もいいよね」などという言葉もいただいて。
そしてまぁ、お土産というかですね。
このご時世、またいつ会えるかもわからないということで、先生がお土産として言葉をおくってくださいました。
絶対無とか、無我とか、無心とか、それと同一線上の言葉に、無私というものがあります。
無い私、と書いて「無私」
この「無私」というところに触れて、先生は言葉をくれました。
もう一人の人が必要
「無私になるには、絶対にもう一人の人が必要ですよ。これは仏教が行き着いたところでもあるんだよ。」
これが先生が私におくってくれた言葉です。
私が最初にその言葉を聞いて感じたのは「都合が悪いなぁ・・・」ということです。
もう一人の誰か、つまり誰かとの関係においてにしか、「無私」自分を無くすってことはできない。
そこは、一人では行けない境地である、というのは、非常に私にとって都合が悪いな、と。
だって、他の誰かとの関係が苦しいからこそ、救われたいと言っているのに、救われるには、他の誰かとの関係が絶対に必要なんだ、となると、めんどくさいなぁっていうか…。
どうやっても、逃げられないのかなぁって。
なんか、しんどいなぁと思ったわけです。
絶対矛盾の自己同一
エンカウンターグループは、そこで終わりました。
そして、まぁいつもの通り、その日が終わって、その日はよく寝て、起きた次の朝にいろいろと考えが浮かんできたわけです。
無私になるには、自分を無くすためには、誰かとの直接的なコミュニケーションが必要である。
つまり、コミュニケーションの中でしか、人は無私になれない。
私はそういうふうに先生の言葉を受け取ったわけです。
しかしその時、あらためて、「禅」で学んだことが思い起こされました。
私が今読んでいる禅の本は、鈴木大拙のものばかりです。
鈴木大拙が書いていることは、すごく難しいのですが「ここまではわかるなぁ」って思ったところがあるんですね。
それが、絶対矛盾の自己同一というものです。
西田幾多郎と鈴木大拙
絶対矛盾的自己同一という言葉は、鈴木大拙の言葉ではなくて、鈴木大拙の親友の哲学者、西田幾多郎の言葉です。
ただ、私は西田幾多郎の本は読んでいないので、これから私が語るのは、鈴木大拙が語った絶対矛盾の自己同一に対する私の理解ということになりますね。
絶対矛盾の自己同一体験
以前も少しふれたことがあるかもしれませんが、
この絶対矛盾の自己同一を苦しいということと、楽っていうことで考えてみると・・・。
苦しいという気持ちは、楽という気持ちがない限りは存在しない。
逆に、楽っていう気持ちは、苦しいって気持ちが存在しないと存在できない。
楽と苦しいは、お互い絶対に違うものである。
正反対なものである。
楽は楽だし、苦しいは苦しい。
この二つは完全に別のもので、お互いがお互いを否定しあっているのにも関わらず、どちらかが存在するには、どちらかが絶対に必要である。
苦しみが存在するには楽が必要で、楽が存在するには、苦しみが絶対に必要。
だから、苦しみと悲しみは、お互い否定しあう全く別のものでありながら、一つのものなんだ。
これが絶対矛盾の自己同一。
全く違う否定し合う「二」つのものが「一」つなんだ。
AはBではないが、AがAであるためには、Bが絶対必要。
BはAではないが、BがBであるためには、Aが絶対必要。
ゆえに、AとBは全く違うにも関わらず、一つである。
絶対世界には相対世界が必要
先生の、「無私になるにはどうしても、もう一人の人が必要ですよ。」という言葉を聞いたときには、都合が悪い感じがしましたが…。
相対世界。
自分以外の何かを否定することでしか、自分が存在できないっていう、その苦しみの世界である。
私は安楽の世界、絶対世界にあこがれながら、この相対世界を生きている。
だけど、絶対世界は、相対世界がなきゃ、存在できない。
そして、相対世界も、絶対世界がなきゃ、存在できない。
この二つの世界も一つなんだ。
だから…
「無私」の絶対世界があるのは、「私」がいる相対世界があるからなんだ。
そこならわかる。
「一」と「二」
絶対世界の存在そのものが、この相対世界によって生まれている。
また、相対世界は、絶対世界によって生まれている。
ここのイコールなんだよね。
「一」と「二」。
「一」は「二」を否定しなきゃ存在できないし、「二」は「一」を否定しなきゃ存在できない。
同時に「一」は「二」がなきゃ存在できないし、「二」は「一」がなきゃ存在できない。
ゆえに、「一」と「二」はお互いを否定しあう全く違うものでありながら、同一である。
なんかこの辺りの理解が、先生の言葉、
「無私になるには、もう一人の人が絶対に必要である」
ここに繋がっていく感じがしたのでした。
否定を思う
絶対矛盾の自己同一。
「一」は「二」を否定しなきゃ存在できないし、「二」は「一」を否定しなきゃ存在できない。
この否定しなきゃ存在できないってところが、非常に奥深くて、切ないですよね。
自己否定とか、他者否定。
この否定というものは、実は、存在レベルで深い、深い出来事だったんだと、あらためて感じております。
私の中では、今まで否定=悪でしたが、
否定は、否定されたほうではなくて、否定しているほうの存在に関わるっていうところまでいったら、なんかちょっと捉え方が変わるような気がします。
人のことを否定しまくる人なんて、超嫌だったわけです。
今だって、超嫌なんですが、否定する人は、そうすることで、なんとか自分を存在させている。
実はあれは、非常に切実な行動であり、働きであると思うことができたなら。
なんか、それはそれで大事なことのように思えるわけです。
ひるがえって、自分が誰かを否定したくなるあの強烈な動きも実は、私にとって、なくてなはならない大事なものだったと。
自己否定の深み
また自己否定っていうのにも、より深みが出てきますね。
なにかを否定しているってことは、なにかを必死に肯定しているとうことですから。
自己を否定するってことは、自己以外の何の存在を肯定してるんだろう?ってなってきますよね。
非常に興味深いなと思いますね。
終わりに
まぁ、なんでしょうね。
大分わかりにくかったでしょうが、私は、要は、この世界をもう少し、楽に生きたいだけなんですよ。
たとえば、今回の語りの結果、思いがけず否定するということの色合いが変わったりなんだりしたわけです。
大事なのはそこなんだよ。
まぁ、そんなところでした。
久しぶりに先生とやり取りができて、懐かしい感じがしました。
お互い、生きてお会いできるでしょうか。
また、どこかで。
空淡 黒田明彦