親鸞に会いに行く道

絶対他力!救われたくても救われたくても救われなかった人が、救われていく道【親鸞に会いに行く道vol.5】の補足解説記事

救われたくて、救われたくて、救われたいのに救われなかった人。

そんな人だからこそ辿り着ける領域がある。

どうにも救われなかった親鸞がたどり着いた、救われぬ自分のままに、救われていく道。

それは、全ての人間を救うための道でもありました。

つたない私の親鸞理解、どうぞ読んでみてください。

まずはこちらの動画をご覧ください

絶対他力!救われたくて救われたくて救われなかった人が、救われていく道【親鸞に会いに行く道vol.5】

それでは、黒田の語りの補足解説をご覧ください

救われたかった親鸞

今日も親鸞に出会う道ということで語っていきたいと思います。

私の親鸞理解は、まだまだ浅いわけですが、私なりに親鸞からいただいているところを語ってみました。

親鸞のとにかくすごいところというか、すごいエネルギーで徹底したところに、絶対他力っていう在り方があるのだと、私はいただいております。

絶対他力。

自力と他力っていうのがあってですね。

自力というのは、そのまま私の力、私のはからい、私の思惑、そのようなところです。

そして他力というのは、私以外の力、私以外のはからい、私以外の思惑です。

とにかく親鸞はその他力を絶対とした。

徹底した。

その徹底ぶりが本当にすごいなぁっていうところなんですよね。

他力本願って人任せってこと?

他力本願っていうと、自分の努力ではなくて、他人に任せて生きていくみたいな意味を思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。

他人の力に上手く乗って、人生を要領良くやっていくみたいな、他人の力を利用して、気楽にやっていこうみたいなね。

そんな意味合いで常識的に伝わってるところもあるような気がします。

しかし、本来の意味と言うか、仏教的な意味での本来の他力でいうと、他力って、仏様の力なんですよね。

そして、他力本願って言うのは、仏様の願いのことなんですよ。

私の願いではなくて、仏様の願い。

この仏様の力と願いに全て任せようというのが絶対他力。

仏様の願いってなに?

それで、仏様の願いっていうのは、なにかというと、

全ての人間を私(仏)が絶対に救うぞ!」っていう超強烈な願いです。

全てですよ。

しかもこれ、人間だけじゃなく、生きとし生けるものをってことらしいです。

全て、必ず全て救うと誓って、願って、仏様になった存在があるわけです。

これをとにかく信じることで救われたのが親鸞ということですね。

他力を信じるのは簡単じゃない

この他力を信じるというのが、実は生半可なことではないのです。

他力を本当に信じられている状態とは、自力を完全に放棄できている状態だと言えます。

自分のはからい、自分がどう思うか、それを全部捨て置いて、仏様のはからい、思いに、とにかく任せますということ。

この自分のはからい、思いを捨てるというのがとてつもなく大変なわけです。

少なくとも頭だけで考えてできることではありません。

親鸞の純粋性

仏教では人間の苦しみの元は、煩悩だと言われています。

煩悩とは、欲望とか人間の生々しいグログロとしたエネルギーのことですね。

親鸞が信じた仏教(浄土真宗)以外の、その他の仏教では、自分のはからい・思いによる修行によって、自分の精進によって、自分の欲望・煩悩を切り捨てると言うか、手放そうとしていることが多いようです。

親鸞も若い頃は、このその他の仏教を信じて修行していました。

しかし、親鸞はどんなに頑張っても自分の煩悩を消すことができませんでした。

親鸞は何がすごいって、自分の欲望とか煩悩を消せないということを偽れなかったことなんですよ。

どんなにやっても、どんなにやってもまるで救われない自分を偽れなかった。

その偽れなかったところが、本当に本当にすごい。

正しいことで救われなかった親鸞

自力の修行では悟りを開けない、自分は救われないってことに、本当に叩きのめされることができちゃったんですよ、親鸞は。

親鸞の時代的には自分の修行によって悟りを開くっていうのが唯一の正義、常識、当たり前になっています。

しかし当時のほとんどの修行者は、自分の救われなさにさほど敏感ではなかったのではないでしょうか。

比叡山(親鸞が修行していた山)では、みんな正しいことをやっています。

正しいことを頑張れていると、気分も良くなってきて、救われなくても(悟れなくても)満足しちゃうこともあるでしょう。

正しい教えに従って修行していれば、組織の中での自分の地位も上がってくるというような満足感もあるでしょう。

だけど、親鸞は満足できなかった。

やってもやっても、救われない自分が浮かび上がってくるだけだった。

親鸞は救われたくて、救われたくて、そして、救われなかった人なんです。

それが、私にはやっぱり、とてつもなく純粋だなぁと感じられるわけです。

絶対他力を徹底できた親鸞

救われたくて、救われたくて、どうにも救われなかった親鸞だったからこそ、仏様の力によって救われていくんだっていうことを徹底できたんだと思うんです。

親鸞は、本当に徹底できたんですよ。

自力(自分のはからい)によって救われようという道を手放しけたわけですよ。

仏様の願いと仏様の力を信じることで、自分のはからいを徹底して手放していくことで、救われないままに、救われていったのが親鸞。

私にはそういただけています。

自力(正しいやり方)で救われない私は、地獄こそが住処であるとまで言ったんです。

そして、ただ仏様の救いを信じて、その地獄で誰よりも優しく微笑んでいるんです。

やべーです。親鸞。

他力と悟り

悟りっていうのは、自己の殻を破り、本当の自分というか、自己を超えた自己というか、宇宙とつながるような自己というか、そういうスケールの、より真なる自己に見開かれていくっていうようなことだと現在の私は理解しています。

だけど、いわゆる自分の力で、自分の修行で、自分のはからいで、自分の意思で、それをやろうとしても、どうやってもこの自己は貫けないんだ、この自己の殻は突破できないんだって気づいたのが親鸞だと思うのです。

自分のはからいに従っていては、自分自身は破れない。

親鸞はそこに気づいたというか、そこに絶望できたんだと思うんですよ。

厳密に純粋に自分を見つめ見つめ見つめた結果、全て自分の枠内の、自分の意思で何かをやろうとしても自分は超えられないんだと。

何か他の自分を超えた力に出会って、それを信じることでしか、救われることはないと。

つまり人間は、仏様の力によってしか悟れないと。

煩悩を手放そう手放そうと自分のはからいで頑張っているうちは、絶対に救われることはないと。

親鸞は、それを実感したんだろうなと思うんですよね。

半分自分のままで、半分自分を超える

自分を超えた不思議な力、その願いに出会い、信じることによって自分を手放していく。

煩悩・欲望。

人間の苦しみの元であるいろんな欲求というかエネルギー。

それを切り離せないままに、ただ自分のはからいを手放していく。

微妙な表現ですが、半分自分のままで半分自分を超えるみたいな。

そんな精神状態を創ることができるような気がするんですよね。

信じるということは、自分を離れるということ

自分以外の自分を超えた力を徹底的に信じることができると、その分だけ、自己を手放すことができていると言えます。

逆に言うと、そうでもしない限りは、自分というものは片時も離れられません。

自分を超えて来る力を本当に信じられた時に、やっと自分を手放せている。

そんな感じです。

しかし、信じるには、自分以外の力が自分に向けて届けられているってことに、まず気づく必要があるような気がします。

親鸞は、実際により真なる世界から、自分に向かって言葉が届けられている、願いが届いているっていうのを感じることができたからこそ、信じることができたのではないでしょうか。

他力を信じるということは宇宙のはたらきと同化すること

  • 自力
  • 自分のはからい
  • 自分の思考
  • 自分の意思

これらでは、どれだけ研ぎ澄ましたり、練り上げていっても、自己の殻を破ることは難しい。

結局、自分を超えた何か、それを感じるというか、それと一体化するというか、そういう精神に到達できなければ、自己の殻を突破することは出来ないと思うんですよ。

自分の中にはたらくというか、自分に届いてくる宇宙からのはたらきみたいなものと同一化すること

これが、他力の救いなんだと思うのです。

その感覚に出会ってこそ、やっと人間は救いへの一歩が踏み出せるのではないでしょうか。

私の他力との出会い

私は20歳の頃、カウンセリング学習に出会いました。

そして、そこで当時の私は、「本当の自分に出会えた!」みたいな感じがして、すごく救われた感じがあったんです。

自分っていうものをそのまま受け止めてもらえたような感覚があって。

あとは、頑張んなくていいんだなぁと、自分のままでいいんだなぁみたいな感覚をもらって、すごく救われました。

私は、カウンセリングの学習で始めて先生に出会ったときにですね、

あっ私は生まれたな。」

って感じがしてたんです。

そのときは、先生に会って、先生の言葉や動き、波動を感じることで、自分っていう自我が育ったんだなと思ってたんです。

自分っていうのがバーン!とこう前に出て育ったんだなって気がしてたんです。

だからそれは、「私」が生まれたっていう感覚なのだと理解していました。

私は他力(仏)に出会っていたのかもしれない

だけど、あらためて仏教の本や、親鸞の言葉にふれていると、実は先生と出会って「私が生まれた」と感じたのは、他力に出会ったという経験だったのかもしれないなってあらためて思ったのです。

自分を超えた力に出会った瞬間に、自分が生まれたというか、なんか新しいものが生まれたって感覚があったみたいです。

そこに救われたって感じがあったのかもしれない。

今思うとですけどね。

私は、先生と出会ったときに、他力、要は仏と出会っていたのかもしれないなとあらためて思うんですよ。

より真なる自己を求めていく道

より真なる自己というのは、自己を超えた自己。

自己、自分の計らいではどうにもならない世界を知る。

というか、自分のはからいを超えたところで、すでにここまで歩いてきているなと気が付く。

そして、その世界に救われていけるって言う体験。

そんな体験の片鱗を感じて、「私は生まれた!」と感じていたのかもしれないなぁと思うんですよ。

絶対他力で救われる、まとめ

他力だ他力だ言っていても、気が付くと、自力自力自力。

自分が、自分がっていう、自分のはからいの世界を生きている私です。

本当に自分を超えた力を片時も忘れないように念じていない限り、そして、それと一体化しようとしない限りは、常に自己の殻の中にいます。

そして、そのことをすっかり忘れてしまうのです。

自分を超えた力を信じる。

自分を超えた力を頼るというかね、自分を超えた力に願われているというかね、そういう感覚に出会えている時、自分のままで自分を超えられているというかね。

なんかそのような世界がどうもあるようだなって気がしているんですよね

そんな感じ。

空淡 黒田明彦