救われたくて仏教にふれ、私流の「禅」にいろいろ学ぶ毎日です。
今回は、「禅」の退屈から、自分の意思は「他力」であると確認し、さらに、私とはなにか?ということを、クルクルと考えてみました。
最終的には、心が軽くなるような自分の捉え方にまで、言葉は運ばれていったのでありました。
それは自分ではなく、ただ、言葉である。
言葉によって自分を対象化するのではなく、言葉そのものを対象化するのだ。
難しく感じるかもしれませんが、その方法自体は簡単なので、興味のある方は、読んでみてください。
まずはこちらの動画をどうぞ
自分ではなくて、言葉そのものを対象化して心を軽くする技【私流禅と学び】
それでは、補足解説していきますね。
【私流の禅】と私の学び
どうもこんちには、黒田明彦です。
今回も「禅」体験について語っていこうと思います。
私の「禅」は、何もしないで座っているっていうのが基本です。
ゲームも、動画鑑賞も、読書も、勉強も、仕事も、音楽鑑賞もしないで、ただ座る。
そのかわり、頭の中では何が起こっても自由ということにしています。
何かを自由に考えてもいいし、何も考えなくてもいいし、座っていて、ウトウトしてしまってもいい。
そんな感じです。
何もしないで座っていると、いろんなことが頭の中に浮かんできます。
様々な過去の思い出が浮かび上がってきたり、未来への不安が鋭く襲ってくることもあります。
フワフワと浮かんでくることを眺めていることもあれば、それにガッツリ囚われて嫌な気持ちにもなります。
頭になにも浮かばず、眠ってもいない。
ただ、ただ、心が静かに凪いでいる。
そんな瞬間もたまにあります。
退屈から学んだこと
しかし、ただ、ただ長い時間座って、何もしないをしていると、退屈になってくることがあるんですよね。
頭に何も浮かばず、かといって、静かに心が凪いでるわけでもない。
そういうときは、座っていてしんどいですね。
頭の中は自由なんだから、自分なりに、建設的なことを考えたり、世の中のため、人のため、自分のためになるようなことを考えたらいいのに。
もしくは、絶対の静寂を目指して、退屈なんか感じずに楽しんだらいいのに。
頭では、そう思うのですが、どうしようもなく退屈を感じてしまうようなときもあるわけです。
私は私の意思を操作できない
そういうときに常々私が思うのは、何かをやろう、何かを考えようという、自分の意思も、自力ではどうにも操作できないなぁということなんですよね。
よし、これについて考えようとか、よし、これについて思おうとか、自力で操作できない。
考えちゃうときは、考えちゃってるし、思うときは、思っている。
そして、それを考えようとする意思、思おうとする意志は、自分で生み出せているわけじゃない、そう思うわけです。
だから「何もしないをする」という、自分が自由になんでも頭の中で考えたり、試したりができる時間でさえ、なんにも考えがなかったり、なんにもしようと思えなかったりで、ただ退屈してしまうことがあるのです。
私は、あらためてそれを不思議に感じたんですよね。
自力がなくなったら私って何?
今までのどんな自分の意思や思いや考えも、自分の力で生み出していたわけじゃない。
それらは、なんかのはずみで生まれたり、なんかのはずみで思いついただけであって、自力ではないのだ。
しかし、これまでの自分の行動を決めてきている、自分の意志や思考すら自力のものでないとしたら、
「この私ってなに?」という話になってきます。
私とは何か?という問題
人生において、自力でやってきたと言えるところが何もなくなってしまう。
それが自覚できてしまうと「私ってなに?」ということが、いよいよわからなくなってきました。
その辺りを考えていくと、あるとき聞いた、カウンセリングの先生の言葉を思い出します。
私ってのは、何なのでしょうか?
それに対する先生の答えは、
私とは、言葉の相(すがた)に聞かせていただいているはたらきである。
こうだったんですよね。
この先生の仮説を踏まえながら、私が今、考えているところを語ってみますね。
自分を対象化するということ
対象化っていう言葉が、わりと長年の私の問いとしてあります。
人間は、自分で自分を対象化することができる。
だから、自己否定ができたり、自己肯定ができたり、自己分析ができたりするわけです。
自分で自分を否定したり、肯定したり、分析するっていうことは、自分を見ている自分と、自分に見られている自分が2つに分かれますよね。
この自分に見られている自分の方を対象化した自分というわけです。

自分を対象化することで、人は自分と他人を比べることが可能になるわけです。
だから、この自分の対象化というやつは、様々な苦しみのもとになっています。
自分の対象化も自力によるものではない
そういうわけで私は、自分を対象化するということは、良くないことであるというように、捉えてきました。
自己を対象化するから苦しいんだ。
自己を対象化しないようにしなくてはならない…と。
だけど、どうやっても、自分で自分を対象化してしまう…。
それだって、自分の意思でそうしようとしているものではないのです。
たとえ、自分の意思でそうしようとしていることがある、と感じることはあったとしても、その自分の意思自体を自分の力で生み出してるわけではありません。
自己の対象化も自力ではなく、他力によるものと言えるのです。
言葉を対象化するという技
さて、ここまで語っていたら、もう1つ、先生が言っていたことを思い出しました。
先生曰く、
○○という言葉が聞こえてきている私なんだ、っていうふうに自覚できると楽になるよ。
ふむ。
たとえば、
「私はバカである」
「私は愚かである」
って言葉があります。
その言葉にふれて、
私はバカである、私は愚かであるってなっちゃうと、苦しい私になります。
その言葉にふれて、
私はバカである、私は愚かであるっていう言葉が聞こえてきている私なんだってなると、楽になるよっていうのが先生の教えです。
言葉を対象化するという発想
さて、この先生の教えをあらためて、私なりに練ってみたわけですが…。
結局、これも対象化なのだ、と考えてみることにしました。
この辺の言葉の運びは、私のオリジナルなので、先生に言ったら「違う!」と叱れるかもしれませんが。
これまでの私の自然な、はたらきとしては、聞こえてくる言葉を受けて、自分・私として対象化していたわけです。
そして、その後、対象化された私に対し、自己否定、自己肯定、自己分析などをしていた。
しかし、そうではなくて、
聞こえた言葉のままに、そのまま、言葉の相(すがた)を対象化すると考えればよいのではないかと考えたわけです。
言葉には意味だけではなく、相(すがた)がある。
これは、別に難しいお話ではなくて、たとえば「私はバカ」という言葉であれば、
「私」「は」「バ」「カ」
「私はバカ」
この言葉の形、並びそのものを言葉の相(すがた)と言います。
「私はバカ」という言葉の意味は、人それぞれ受け取りようがあるでしょうが、
「私はバカ」の言葉の相(すがた)つまり姿形は、「私はバカ」これ1つです。
自分の対象化と言葉の対象化
「私はバカ」という言葉を聞いて、
私はバカなんだ…
ってなっている状態は、言葉にふれて、私(自分)を対象化している状態ですね。

そうではなくて、
「私はバカ」という言葉を聞いて、
ただ「私はバカ」という言葉の相(すがた)が聞こえてきている、
ということになると、言葉を対象化することができているというわけです。

丁寧に対象化された言葉は、私とは別の何かになります。
言葉が対象化すると、私が減って楽になる
言葉が1つずつ丁寧に対象化されていけば、世界は言葉だけになっていきます。
私と言えるものはどんどんなくなっていき、最後には私は、言葉をただ聞いているだけのはたらきになることができる。
結局、私と言える部分がなくなればなくなるほど、人間楽になるんですよね。
感情や、感覚であっても、言葉の相(すがた)として、対象化することはできます。
言葉が生まれたその瞬間は、グッと苦しくなったりするかもしれませんが、言葉の対象化が上手くいけば、辛い気持ち、悲しい気持ちは、すぐに私ではなくなり、消えていってくれるでしょう。
言葉の対象化の1つの方法
言葉の対象化の訓練の方法として、1つの作法を紹介します。
嫌な気持ちになったときとか、イライラしちゃったときなど、不快な気持ちの時には、
頭に浮かんできている言葉を全て、○○は言葉なんだよなぁって、1個ずつ丁寧に置いてみてください。
たとえば、むかつくという言葉が頭の中で喚いていたら、
「むかつく」は言葉なんだよな…
って置いてみる。
これが、言葉を対象化するということの具体的な1つのやり方です。
上手く対象化出来た言葉は、自分じゃなくなります。
私という対象になってしまっていた言葉を、言葉の相(すがた)という対象にする。
それは、私というものを言葉というものにできてしまうということです。
そうすると、心が軽くなるんですよ。
感情も、感覚も、体感すら、言葉という対象にしてしまうことができる。
「悲しい」も言葉だよなぁ
「ああ、もう失敗した」も言葉だよなぁ
「明日嫌だなぁ」も言葉だよなぁ
1個ずつ丁寧に言葉を対象化していく。
私が言葉になって、減ってくれる。
私が減った分だけ、私の心が軽くなる。
どうぞ「禅」がごとく、わかることよりもまず先に、やってみてください。
あなたの世界が言葉で溢れてしまいますように。
空淡、黒田明彦