自分というものは何かということを体験的に振り返った結果、自分というのは空洞なのではないかいう考察に至った。
そんな私ですが、あらためて自分が空洞だとするのであれば、この空洞にどんな刺激を入れるかは、自分で選びたいものだなと考えました。
そして、この空洞にいれるものは、できるだけ私を幸せにしてくれる素敵なものがよいと考えたわけです。
この記事は、黒田明彦の動画、「何を信じたら良いかわからないときは、自分の好きな人が信じたものを信じたらいいよ【親鸞に会いに行く道vol.2】」の補足解説記事です。
どうぞご覧ください。
まずはこちらの動画をどうぞ!
何を信じたら良いかわからないときは、自分の好きな人が信じたものを信じたらいいよ【親鸞に会いに行く道vol.2】
それでは、動画での黒田の語りを補足解説します。
自分は空洞である
前回、本当の自分っていうのは、いないんじゃないかというところを自分の感覚と体験を振り返りながら考えていきました。
自分は空洞なのではないだろうかと。
- 本当の自分というものが先にあって、その自分がいろいろ刺激に対して反応する。
- この「先にある自分」っていうのをはっきりさせて、固めなくてはならない。
- 自分というのが先にあって、私はそれに”はぐれてしまっている”ような感じがする。
- 私は本当の自分を見失っている。
- だから、そんな自分を探して見つけなくてはならない。
- そして、本当の自分を見つけたときに、自信を持てたり、強くなれたりする…。
こんな考え方ってあると思うんです。
私もこれまで、そのような考え方で生きてきたんですが、あらためて自分の体験と感覚を振り返ったときに、あまりにも確かな自分がないなと打ちひしがれてしまいました。
そのときどきに受けた影響によって、自分の考えや、感覚表明の軸がコロコロ変わっていってしまう…。
そんな自分を振り返ってみたときに、まぁ、いろいろあ諸先輩方のアイデアもお借りいたしまして、
本当の自分ってものはいなくて、単純にすべて、色々な刺激に対して反応があるだけだと考えてみたわけです。
私は刺激に対する反応そのもの
私という固定的な何かがあるのではなく、すべては一つ一つの刺激に対する反応に過ぎない。
その反応そのものを私と呼びたい。
そんな感じです。
刺激に対する反応が強かったり、クリアだったりするところが、自我・我が強いという表明になるようなところであり、純粋であるとも言えるところです。
- 自分というのは空洞のようなもので、最初は何もない。
- そこに何か刺激がやってきたときに、私という反応が生まれる。
- 反応は終わるといちいち消えていくから、その度に私は消えていく。
前回はそのようなところを語ってみました。
この空洞に何を入れておくか
さて、今回はその続きなんですが…、
自分が空洞であるという事を自覚し、忘れずにいること。
- 今なにか感情が来ている
- 今なにか考えが来ている
そういうときというのは、何かの刺激によって、まさに今、私が生まれているんだっていう理解が大事なんだと思うのです。
そしてそこまで考えてきた私は、自分というものを安定させるために、なにか頼るものがあったほうが良いなという結論に至りました。
自分は空洞であり、自我というものは、刺激に対する1つ1つの反応にすぎないとするのなら、この空洞には、なにかすごく良いものというか、価値の高いものというか、純粋なもの、真実みたいなもの、信じるに値するものを入れておきたいと思ったわけです。
そうすれば、反応そのものである私は、いつも安全安心というか、元気にやっていけるかもしれないなぁと思ったのです。
信じられるものをもつこと
なにか、自分の信じられるものをもつことって大事なのかもしれないなと、今ひしひしと感じています。
なにせ、自分は空洞ですから。
救い、救われたいという気持ちがあるなら、救い救われるような教えや信仰をもつというのは必要だと思うわけです。
自分の軸は自分では生み出せない
自分は空洞であり、自我は1つ1つの反応でしかないと考えたときに、自分の中に軸をもつとすれば、それは自分以外の何かを頼ることであり、信じることだなと思うのです。
今の私は、自分の軸は自分では生み出せないと割り切って考えています。
そうなってくると、今度は、それじゃあ、何を頼りたいか?って話になってきますよね。
何を頼るのが素敵か?
何か信じられるものを自分の空洞の中に入れて、それを頼りにして生きていく。
やっぱりそれは、超人間的というか、人知を超えたもの、神とか、仏とか、人間を超えた何かであり、信じることで、この人生が本当の意味で豊かになるものが良いと思うのです。
人間はいつかは死んでしまいます。
それに、人間は基本的に不安定なものです。
ですから、人間をしっかりと支えてくれるような、心の軸になるような教えは、人間を超えた何かである必要があるような気がするのです。
私は何を信じるか
私の軸になるような、核となるような教え、信じられる何かを自分で選ぶとしたら…。
私の場合ですと、やっぱり先生が出て来ます。
私がずっとお世話になってきたカウンセリング学習の先生。
その先生が信じていたものを私も信じたい。
人間には真実はわからない
仏教的な思想で言うと、真実というのは仏様にしかわからないそうです。
人間の目には真実は判別できない。
人間は目の前に真実があっても、まるで気が付かないから迷うのですね。
真実がわからないのであれば、何が真実の教えなのかもわからない。
私はせっかく信じるのであれば、より確かで、私を幸せにしてくれる真実の教えを信じたいです。
だけど人間は、何を信じていいかは自分ではわからない。
だから私は、単純に、自分が好きな人、自分に良い影響を与えてくれた人、実際に救ってくれた人、その人が信じているものを信じたいんです。
私にとっては、それが先生なのです。
まぁ、救われきれてはいないので、私は今も迷っていますけどね。
より確かなものを感じさせてくれた人の信じているものを信じる
「この人の言っていることは本当だ」と思わせてくれた人。
私にとってはそれが先生なんです。
だから、その先生が信じたものを私も信じてみようっていう気持ちになれます。
実は以前からそういう気持ちはあったんですが、なかなか気が進まなかったところもあって。
しかし、自分が空洞であるってことを認めたら、自分に強い影響を与えるもの、自分の支えになるようなものは自分で選びたいと思ったのです。
私の先生の愛した教え
私の先生が一番愛してやまない教え。
先生は、本当にいろんなものを学習してきたみたいですが、一番好きなのは、親鸞なんだと思います。
浄土真宗の親鸞ですね。
だから私も、親鸞に会いに行ってみようと思うのです。
もちろん親鸞はもう生きていませんので、親鸞自身が書き残した言葉とか、親鸞について書かれた本をあたってみようと思います。
なんというか、親鸞を頼ってみたいというよりは、親鸞が信じていたものを私も信じてみたい。
カウンセリングの学習の中で、何度となく先生には親鸞の言葉や、思想を聞かせていただいたことはありますが、私はまだ全然親鸞に出会えている気がしていません。
ただ、相当純粋な人だったみたいというのはありありと伝わってきました。
ほんとにもう、愚かなほどに純粋な人だったみたいです。
嘘が付けないと言うか、より確かなものを求め求めてやまないというか、救われたくて、救われたくて、だけどどうしても救われることができなくて。
そんな愚かなほどに、神々しく純粋だった人が、信じ続けられたものを私も信じてみたいと思えているわけなのです。
仏教というか宗教を拒絶してしまう私
親鸞と言えば、浄土真宗であり、浄土真宗と言えば、仏教であり、仏教と言えば、宗教です。
私は、昔から仏教と言うか、宗教を毛嫌いしています。
それこそ先生に出会ったときもすでにそうでした。
先生から、カウンセリングの学習を通し、より確かなものを聞かせていただいて、どんどん自分が救われていくのがわかっていても、仏教の話になると、一気に表情を変えて、プイッとしてしまうような感じでした。
ともかく私は、仏教とかそういう宗教的な話が出てきた瞬間、相当抵抗する身体になっていました。
なんか、教え込まれるというか、信じさせられるみたいな感覚、つきつめていくと、自分を失わされるような感覚と言いましょうか、宗教のそういうイメージに抵抗していたのかもしれません。
あとは単純に、仏教というか宗教をやっている人は、白い目で見られるみたいな、そんな刷り込みみたいなものもあったような気がしますね。
宗教全体のイメージを下げてしまうような新興宗教の影響もあるかもしれませんが、ありもしないものを信じなくてはならない人なんて、弱い人間だ、みたいな、自分はそうなってはならない、みたいな、そんな感覚もあったかもしれません。
とにかく差別的に仏教を見ている感覚が私の中にいつの間にかあって、まぁ日本人的な宗教観は似たりよったりのところがあるのかな、みたいに考えておりました。
今も宗教的なものに対する拒絶感はなくなっていません。
ですが、その拒絶感は、むしろ私が、より深く仏教の教えに迫ることを助けてくれるかもしれないと今は思っています。
何を信じたらいいかわからないときは、好きな人が信じているものを信じよ、まとめ
もし、自分が何を信じたらいいかわからないときは、自分が大好きな人が信じているものを信じたらいいよって思う。
どうせ何が正しいとか、真実とかって、目の前にあっても人間には気づけないんだってさ。
だとすればね、自分の好きだった人、好きな人が、一生懸命信じていたものを信じたらいいよ。
きっとそこから何かが始まるさ。
空淡 黒田明彦