親鸞に会いに行く道

自我を否定しきれたら、今度は自我を慈しんでみてはどうだろうか?親鸞の煩悩具足より【親鸞に会いに行く道vol.10】の補足解説

相も変わらず自己否定の言葉にまみれている私ですが、日によって否定の仕方も変わるものです。

今回は、私というものを構成しているものの1つであるとも感じられ、私そのものとも感じられる「自我」の働きについて、否定してみました。

自我の働きを文字にして全力で否定するのは、もしかたしら初めてかもしれません。

しかし、まぁ、なんでもやりきると愛しくなるものですね。

まずはこちらの動画をどうぞ

自我を否定しきれたら、今度は自我を慈しんでみてはどうだろうか?親鸞の煩悩具足より【親鸞に会いに行く道vol.10】

それでは補足の解説を始めます。

親鸞に会いに行く理由

今回もよろしくお願いします。

親鸞に会う道ということで、今私は、仏教に関わる本とか、親鸞の言葉とか、後は親鸞の言葉を読んだ人の解釈を読んだり聞いたりすることを集中的にやっています。

そもそもなんでそんなことをしているかというと、自分が苦しいからなんです。

なんだか自分でもよく分からないですけど「救われたい、救われたいなぁ」という感覚がすごく強いのです。

仏教に共感している

仏教の教えというのは、基本的に生きることは苦しいことであるという考え方がベースにあります。

私はそこに、すごく共感できるところがあって、なんとかこの苦しみを減らすことができないだろうかみたいな感じで仏教関係の本を読んでいます。

仏教をここまで紡いできた人の中には、めちゃくちゃに感性が鋭くて、そしてめちゃくちゃ頭が良い人もいますので、そういう人の智慧を借りることで、なんとかこの今の私の苦しみを乗り越えていきたいという思惑があるわけです。

そして、その仏教の中でも、特に親鸞を選んで読んでいます。

これは、私が長らくお世話になっているカウンセリング学習の先生の影響も大きいですね。

自己否定が強い私

私は、相も変わらず自己否定が強いです。

それは、自分に向かって激しく、否定の言葉を向けるというか、自分に向かって、そういう言葉が繰り返し繰り返しやって来るんですよね。

一般的に言えば、思い浮かぶというような感じですかね。

とにかく、なんかあるともう、自分を攻撃したくて、したくて、しょうがないみたいな。

それが寄せては返す波のように続いています。

自己否定から「私」というものを考えてみた

自己否定になりながら、いろんな言葉が巡ります。

その中で、あらためて、「自分、私ってのは何なのかな?」ってところに考えが及びました。

あらためて考えてみると、私が私と呼んでいるところには、2つの種類があるなということがはっきりしてきました。

もちろん今から語る2種類の私では、説明しきれない私というものもあるのでしょうが、この今は、この2種類の私というものが私にとって鮮明ですので、そこのところを語っていきますね。

私が「自己」と呼ぶもの

1つめの私は、「私は○○。」

「○○という私。」みたいな感じのもの。

たとえば私はこんな食べ物が好きとか、こんなときに悲しいと感じるとか、こんなことが好きで、こんなことが苦手でというような。

これまでの記憶・経験の積み重ねである私みたいなもの。

それが1つめの私。

私はそれを「自己」と呼んでいます。

○○が得意であるとか、不得意であるとか、コンプレックス等も含めて、他人と自分を比べたり、何かと何かを比べることではっきりしてきた、経験・記憶の積み重ねである私。

これは主に過去の私というか、これまでの私ですね。

私は、そういうものを総称して「自己」と呼んでいます。

私が「自我」と呼ぶもの

次に2つめの私。

これが、今回の語りの主役になります。

最近、私のところで、特に強烈に否定されている私というのがもう1種類あるのです。

それが「自我」なんですよね。

「自我」っていうのは、物事を分け隔てて理解していく、人間に備わった機能みたいなものです。

私は、私は、私は、私は、こうだ、こうだ、こうだ、こうだ!みたいに、

いろんなものを私として分けていく。

他と私を分ける機能そのもののこと。

その機能は、まさに現実的に人間という存在を無限に生み出しています。

私の強烈な自我否定

「自我」の働きと言葉によって、私というのが、どんどんどんどん他と分かれて生まれ、存在していく。

私は私を生み出すその「自我」という機能を強烈に否定していました。

「自我」があるから苦しいんだと。

「私」と、自分が自覚できてしまう機能があるから、私は苦しいんだと。

「自我」がなければ、もしくはあっても、とても薄ければですね、虫や動物と一緒で、ただ本能のままに生きることができる。

考え、思い悩むこともない。

ただ生まれ、ただ活動し、ただ生きて、ただ死んでいくことができる。

私にはそんなイメージがあります。

自分が自覚できると宇宙から分離しちゃう

「自我」なんてものがあるから、私は私だって自覚できちゃって、宇宙から分離しちゃう。

そして、自覚できちゃってからは、「私は、私は、私は」ってどんどんどんどん自己中心的になっていってく。

そうなっていかざるを得ないんですよね。

分離しちゃったんだから、生まれちゃったんだから。

なんで「自我」は生まれる必要があったのか?

私、たまにふと、思ってたんですよね。

人間にとって、なんで、自我は生まれる必要があったのか?と。

生き物の進化って必要があってするものではないのでしょうか?

それでは自我という機能の本来の意味、目的はなんなのだろうか?と。

なんのために自我は生まれたのだろうか?と。

だけど、考えてもわからないんです。

なんでこんな苦しい「自我」なんて機能を私は持っているんだ?と。

この「私は」と言っている、この自己認識自体がもうすでに立派な「自我」の働きです。

自我さえなければ!自我さえなければ!

いつも私思うのですよ。

こんなものがなければね、生きるのも死ぬのも、苦しくないんじゃないかって。

そもそも、自我がなければ、生きるも死ぬもなかった!

だからもう、本っっっ当に嫌なんですよね。

語っていて、よりはっきりしてきます。

私は、本当に「自我」という機能を強く強く否定していました。

自我には意味も目的もない

思うんですよ。

結局、自然に負けないように、他の動物たちに負けないようにと、人間が本能のままに、種として生き残ろうとした結果、脳ミソがどんどん進化していった。

その脳の進化の過程で、たまたまポンッと生まれてしまったのが自我なのではないかと。

別に種の保存にそれがどうしても必要だったわけではありません。

意味もなく、ただ、脳の進化の過程の副産物として、自我は生まれてしまった。

自我の働きは発展をもたらす

だけど、生まれたからには、自我は一生懸命働きます。

自我そのものの存在理由を求めるかのように、遮二無二働きます。

その自我の働きは、どんどんどんどん、人間に発展をもたらします。

だけどその発展は、私の感覚ではとても余計なものであり、余分なものに感じられるのです。

自我の働きによって、人間は、物質文明やら精神文明を発展させてきましたけれど、そもそもその発展には必要性もなく、特に意味もないのではないか?

私にはそう思えるのです。

生まれちゃったから、私として生きるしかない。

人間の発展は、そういうところで、足掻いて足掻いて足掻いた結果に過ぎないと思うわけです。

「自我」は苦しみから逃れるために発展を生む

「自我」が働き、私が私であるということは、苦しいことです。

この苦しみから逃れるために、人間はどんどんどんどん発展してきたのだと思うわけです。

そして、発展の方向次第では滅亡とかもしていくわけです。

人間がなんのために、滅亡すら恐れずに発展していくかというと、それはただ、ひとりひとりの人間が、自分が自分であるためというか、「自我」が「自我」であるためでしかないような気がするのです。

より「自我」が「自我」であろうとする働き。

その働きによって、発展していこう、変わっていこう、成長していこうってなっていく。

安息なき発展を生み続ける悲しき自我

「自我」の働きがなければ今の人間の発展はなかったでしょう。

しかし、「自我」がなければそもそも発展の必要もなく、もっと静かに、ただ生き、ただ死ぬことができたのではないかと思うわけです。

それこそ仏教的に言うと、絶対平等の世界に。

私が宇宙そのものと分かれないままの、1つのままの世界。

私もなく、宇宙もなく、生きるも死ぬもないような、そんな世界。

私は、「自我」があるから、その絶対平等の世界から切り離されちゃって苦しんでいるのだと思うわけです。

自我が生まれて、大いなる宇宙と離れ離れになっちゃって、不安で仕方ないものだから、もっと、もっと、もっとと、求めて、求めて、求めて、他人と比べて差別して、正しく努力して、物質的にも精神的にも発展していって、結果的に滅亡していくようなね。

そういう人間の悲しい姿っていうのは、「自我」から生まれていると思えてしょうがない。

だから私は、自我を強烈に否定しました。

私は「自我」なんて要らない。

だけど、それは気づいたらすでにあったものであって、決して投げ捨てることもできない。

まったくもって、まったくもって難儀なものです。

「死にたい」は自我否定から来ているのかも

あまり、人に言って良い話かどうかはわかりませんが、私には特に40代になってから、「死にたい」って言葉がよく来るようになりました。

この死にたいって言葉がどこに向かっているのか?

今思うと、やっぱりそれは、「自我」そのものを否定しているような感じなんですよね。

私という存在・自覚を生み出してしまう元。

そして、それを強烈に維持し続けている働き。

それは苦しみの元であり、喜びの元でもあります。

自我のはたらきによって、生み出され続け、死に続けている私。

「私があるってことは、そもそもそれだけで苦しいことなんだ。」

私には、なんかそういう方向が1つ見えるわけです。

煩悩具足と言った親鸞

ところで、ここで親鸞が出て来るのです。

親鸞は、煩悩具足って言ったんです。

煩悩ってのは、欲望とか執着とか、そういう人間のね、喜びとか興奮とか、良い方のものも含めてなんでしょうけど、とにかくドロドロとしたエネルギーであると私は捉えています。

欲望の源というか、人間らしさの源というかそういうものですね。

私は、この煩悩と呼ばれているものと、私が「自我」と呼んでいるものの働きは近い気がするんですよね。

親鸞は、自分自身が煩悩に散々苦しめられた結果、当時の正統派であった、煩悩をぶった切っていくような仏教を否定したんですよね。

親鸞は、「煩悩を切り離せない自分なんだ!」っていうところにガンッ!と立った人なんです。

自己否定も悪くない

毎度毎度良よくやるなと自分でも思いますが、昨日も私には強く強く自己否定の言葉がやって来ていたんですね。

だけど昨日は途中から、自己否定も別に悪いことじゃないなぁと、しみじみと感じてしまいました。

死にたいなぁというような言葉も来てましたけどね、それも別に恐れるべきことでもないのかなと。

なんか、そんな気分に変わったら、またいろいろと言葉が到来したわけです。

仏教の大智と大悲

仏教は、仏の大智と仏の大悲で構成されていると今のところ私は受け取っています。

仏の大智はいかに自我を薄くしていくか、断っていくか、なんかそんなような修業だったり、智慧のことを指していると理解しています。

そして、大悲というのは、仏の大いなる憐れみです。

否定の言葉にまみれていた私は、ふと、この仏の大悲というのは、自我にこそ向かうべきものではないかな?と思えたわけです。

悲しき自我にこそ大いなる憐れみを

「自我」というその機能によって、訳も分からず生まれ続けていく私。

望む望まないも関係なく、特に意味も目的もなく、生まれ続け、苦しみの中で発展していくしかない存在。

「なんか、それってもう、すげぇかわいそうじゃん。」

やっぱり、そんな自我にこそ、大悲って向けられるべきですよね。

無駄で無意味なだけでなく、苦しみを生み続ける。

そして、その苦しみから逃げるように過剰な発展をし続けざるを得ない憐れな存在。

それが自我をもってしまった人間の姿だと思うんですよね。

もう生まれてしまったからには、その自我の機能に溺れながら、苦しみながら、ちょっとでも楽になりたい、幸せになりたいって言いながら、自己中心的に、傷つき、傷つけながら、生きるしかないと。

存在意味のない「自我」

存在意味を作りたくてしょうがないというか、もう作らざるを得ない。

無いものを求め求めていくしかないという、悲しい「自我」をもってしまった人間。

そこにこそ宇宙の大きな慈悲が向けられている。

もうそんなものさ、慈しんでやるしかないじゃないか。

愛してやるしかないじゃないかと。

なんともかわいそうだ。

なんとも愛されるべき存在ではないか。

自我への愛こそが人間に対する愛、人間という存在に対する愛であり、宇宙から降り注がれる大慈悲の向かうところなんじゃないかって気がするんですよ。

多分人間だけですからね、自我を持ち、自我に苦しむことができる生き物って。

今度は自我を慈しんでやるというのはどうだろうか?まとめ

最近は生きる目的みたいなことを考えます。

少なくとも今の気分で言うと、

「自我」ってやつをいかに供養していってあげられるかが、人間としての生きる目的なのかもしれないですね。

いかにしてこの「自我」ってやつを供養してってやれるか、慈しんでやれるか。

  • 意味も存在理由もないどころか、苦しみを生み続ける
  • 生まれたからには生き続けなくてはならない
  • 生きる苦しみを逃れるために発展し続けなくてはならない

こんな悲しい自我をなんとか供養してあげたいという心境になると、少し変わるかなぁって、今、そんな気分になっています。

空淡 黒田明彦