私流「禅」

自己をならうというは、自己をわするるなり。死ぬっていうことは忘れるということなのかもしれない、という話。

こんにちは、黒田明彦です。

禅の境地の1つに、生きながら死ぬというものがあるようです。

私はこの境地がずっと気になっていました。

今回は「忘れる」という言葉をキーワードに、この境地にアプローチしていきたいと思います。

何者でもない「私」が生き、黒田明彦が死ぬ。

何者でもない「私」には、今しかない。

まずはこちらの動画をご覧ください。

【禅】忘れるということの不思議。何者でもない私が生き、黒田明彦が死ぬということ

それでは補足解説をどうぞ。

生きながら死ぬということ

どうも、黒田明彦です。

今回も「禅」体験について語っていこうと思います。

私は今、座禅の合間に、禅に関する本を読んだりもしているんですが、そこでいろいろな言葉に出会います。

その中で、

「禅」を生きるということは、生きながら死ぬということだ

みたいな言葉を見つけて、それがずっと気になっていたんですよね。

生きながら死ぬってどういう感じなんだろう…と。

禅宗のお坊さんは、それはそれは辛い修行を毎日毎日しているわけです。

そんな毎日の中で「本当に死にそうだ…」みたいな感じで、追い詰められて追い詰められていく。

その辛い修行の体験の蓄積のことを生きながら死ぬようなものだ…とするのであれば、私一人ではたどり着けそうもない境地だなぁと思っていたんですよね。

死ぬということは忘れるということかもしれない

ところで、この前私は、非常にわけのわからない、不思議な状態になりました。

いきなり朝の5時ごろにパッと目が覚めて、以前の職場で一緒に働いていた女性の名前が思い出せない…と、とてもソワソワになってしまったのです。

たかが5年前のことなのに思い出せない。

顔は思い出せるのに、名前が思い出せない。

朝の5時にですよ。

まぁ、異常と言えば異常、不思議と言えば不思議ですよね。

忘れるということはヤバいこと…?

今、私は認知症の父親と一緒に生活しています。

ですから、物忘れということは非常に身近なわけです。

思い出せない、記憶ができないということは大変だなぁと。

単純に記憶がなくなるというよりも、認知そのものがどんどん失われていくみたいな迫力の父親を間近で見ているわけです。

そんなこともあってか、私も人の名前を思い出せないということは、結構、脳ミソ的にはやばい状態なのではないかと…とてもソワソワしてしまったわけです。

記憶を失うということ

その日も朝から座禅をしました。

そこで、フワフワと頭の中で考えていたんですがね・・・。

記憶を失うということ。

40歳にもなってくると、今までの人生の中で、思い出しようのないものなんて、もういくらでもあります。

なにかのきっかけで、ふっと思い出すことはあっても「よし、あれを思い出そう!これを思い出そう!」ということなんてないですよね。

いつの間にか、いろんなことが思い出せなくなっている。

日々、当たり前のように忘れていく。

そして、忘れていること、思い出せないことをたまに自覚する。

「ああ、失ってしまった…。」

実は、忘却には結構な喪失感があるんですよね。

忘れること、死ぬこと

ここで思考が、パンッ!と飛んだんですよね。

死。

私は自分の死には立ち会えません。

ですから私は、死と言えば、他人の死しか見られないわけです。

今まで生きてた人が、亡くなる。

死んでしまう。

それってやっぱり、喪失の体験なわけです。

そして、あらためて忘却というものが、生きている自分自身にとっての大きな喪失であるということを考えると…、

死というのは、実は忘却に近いのかもしれないという感覚がやってきたわけです。

私を作っていたものすら忘れてしまう

たとえばですよ。

思春期の頃とか、幼い頃でもそうですが、とても辛い思いをすることがあります。

そして、それによって自分の人格が形成されてしまう。

なんでちっちゃい頃、もしくは思春期の数年の出来事によって、この自分の人生が大きな影響を受けなきゃならないのかと。

そのわずかな期間で人生が決まるなんて、なんて理不尽なんだ!

みたいなことを考えてたことが私にはあるんです。

だけどですね、それすらも全て忘れていくんですよね。

長らくこの自分を作っていた、自分に大きな影響を与えてたものすら、思い出せなくなっていく

完全に忘却、喪失していく。

なんかそう考えると、記憶の喪失って、それはそのまま、死に近い感じがするんですよね。

死ぬと無になる?

人間は、死ぬと無になる…というのが、現代の死に関する理解の常識であると思うわけです。

私もそういう感覚は馴染み深かったわけですが、私にとって自分の死のイメージって、夢を見ずに寝てる時の延長線上だったわけです。

気が付いたときには朝になっていた!みたいに、グッスリ寝れた日というのは、誰しも一度はあると思うのですが、それで、そのまま目覚めないというのが死じゃないかと。

だけど、今回、もしかしたら死というのは、眠っているという感覚よりも、忘れてしまうっていう感覚の方が近いんじゃないかと思ったんですよね。

「私」が「私」というもの、黒田明彦というものを完全に忘れてしまう状態が死じゃないかと。

他の誰かじゃなくて、この私自身が、ことごとく全てを忘れてしまっている状態っていうのが、死。

なんかそんな感じがしたわけです。

「私」が生き、黒田明彦が死ぬということ

さて、また別の話になっていきます。

これもその日のことだったと思うのですが、あまり日中、思い通りに、自分が計画した通りに、物事が進まなかったんです。

これとこれをやれば建設的だなぁっていうようなことをやらずに、だらだらグータラしちゃった。

私は何をやってるんだ、と…。

そして、まぁお得意の自己否定が始まりそうになったわけです。

やるべきこと、やったほうがいいことをやらずに、なぜグータラ過ごしたのか、と。

なんて愚かなんだ!って自己否定が始まりそうになったんです。

いつものように。

だけど、その日はあまりうまくいかなかった。

私は1つだよなぁ

その日はなんか余裕があったんですよね。

自己否定と言ってもなぁ…。

「何が何を否定するんだっけ?」

その辺が曖昧になってしまって、なんか「まぁいっか」みたいな気分になってきちゃいまして、そのままお風呂に入ったんですけどね。

そして湯舟の中で、「私は1つだよなぁ」みたいな感覚が来たわけです。

その瞬間、ガチッ!といろいろとつながりました。

黒田明彦を忘れるということ

  • 朝の5時、バチっと目が覚めて、昔の職場の女性の名前が思い出せずに、不思議な程ソワソワしてしまって、自分の記憶が確かじゃなくなっていく喪失感を味わった。
  • 「禅」っていうのは、生きながらに死ぬ体験をするようなものだ、みたいな言葉がずっと気になっていた。
  • 死は、眠るよりも、忘れるの方が近いのではないだろうか…?

そして、この言葉がやって来ました。

「生きながら死ぬってことは、私が、黒田明彦を忘れるってことなのかもなぁ。」

黒田明彦には歴史がある

黒田明彦っていうのは、私が生まれたときに、親につけてもらった名前です。

私はその名前でずっと今まで生きてきました。

ですから、黒田明彦には歴史があります。

全て黒田明彦って名前で行動してきたからこそ、黒田明彦としての今があるわけです。

そして未来も、その今まで行動してきた黒田明彦の軌跡から、想像することが可能です。

何者でもない「私」

しかしこの「私」というのがいるわけです。

それは、黒田明彦と名付けられる前の「私」。

この「私」。

何者でもない「私」というのが確かにいる。

「禅」のすごく偉い人に、道元という人がいます。

この人は、めちゃくちゃ難しい文章を書いている人なんですが、私の読む本には何度もその人の文章が紹介されています。

その中の1つに有名な一節があります。

仏道をならうというは、自己をならうなり

自己をならうというは、自己をわするるなり

自己をわするるというは、万法に証せらるるなり

悟りの道っていうのは、自分を知ることであると。

そして、自分を知ることとは、自分を忘れることである。

そして、自分を忘れるってことは…と続くわけです。

黒田明彦を忘れると今しかない「私」

自分、自己を忘れるってことは、この私で言うと、「私」がなくなることではなくて、黒田明彦を忘れることなんだろうなぁと思えたわけです。

そして、黒田明彦を忘れてしまったら、実は、この「私」には今しかなくなるんですよ

「私」としか言いようがない、この何者でもない何者かには今しかない。

黒田明彦には過去があって、歴史があって、そして未来も想像できる。

しかし、黒田明彦を忘れてしまったこの「私」には今しかないんですよ。

「私」には軌跡が残らない

これも禅関係の本を見たときに、気になっていた言葉ですが、

「剣をいくら振っても、その軌跡は残らない」

という言葉があります。

剣はシュンシュンシュン!って、動くんだけど、その軌跡は全く残らない。

意味深な言葉だなぁと思っていたわけです。

それと一緒なんです。

黒田明彦として行動したものはすべて残っていって、軌跡ができて、それによって未来すら想像できてしまう。

だけど、その黒田明彦を忘れてしまったとき、ただの「私」、何者でもない「私」となったときは、軌跡が残らない

何者でもないから、誰も追えない。

完全な自由

もちろん、黒田明彦の動きとして、世間の人には見られるし、軌跡としてはこれまで通り黒田明彦の軌跡が残っていきます。

しかし、この「私」自体が、黒田明彦を忘れてしまえれば、その軌跡は「私」のものではなくなるんです。

そう思えたとき、なんて自由なんだ!完全な自由だな!と感じたわけです。

それは、「私」が生きながら、黒田明彦が死ぬということ。

これが、私の中で、とても新しく感じられたんですよね。

軌跡がなくなるっていうこと

軌跡がなくなるっていうのは伝わりにくいかもしれませんが、「私」は、黒田明彦としてしか軌跡を残せないわけです。

だから、「私」が黒田明彦を忘れてしまえば、「私」がどんなに自由に動いても、その軌跡は残らない。

軌跡によってできた歴史がないと、未来は見えてきませんので、この「私」には今しかないんですよ。

「今を生きろ!」とはよく聞く言葉ですが、その境地は、黒田明彦を忘れたところにある、というわけですね。

忘れるということのパワー

あらためて、忘れるというのは、すごいパワーのある出来事なんだなぁと感じました。

今回、もう忘れるということは、死そのものなんだ!みたいに、大分感ずるところがあったんですよ。

私が今ハマっている、池田晶子の言葉に

「池田晶子が死んでも、私は死なない」

って言葉があるんですが、それもかなり印象的ですよね。

「私」は黒田明彦を忘れてしまうことが、できるんだ。

そして黒田明彦を忘れてしまった「私」は、どこまでも自由。

どこまでも「今」しかない、何者でもない「私」。

面白い、面白いな。

空淡、黒田明彦