私流「禅」

自己否定について考えていたら私が悪魔になったんだけど、その後、風にもなった話。

どうも黒田明彦です。

今回は、自己否定について考えていたら、私が悪魔になってしまい、そして風にもなってしまいました。

「禅」もそうなんですが、より深い人間的体験は、論理的よりも、詩的になるみたいですね。

昔、先生が人間は自分に添ったところが言えているときは、詩人になると言っていたのを思い出します。

論理が飛んで、詩人になってしまった語り、なんの結論も出ていませんが、どうぞご覧ください。

まずはこちらの動画をどうぞ

自己否定について考えていたら悪魔になった。そして風にもなった。

それでは、補足解説をどうぞ。

語り、広がり、詠う

こんにちは黒田明彦です。

「禅」体験について語っていこうと思います。

今回はまだ結論に達していないというか、語っているうちに、広がって訳がわからなくなってしまったという感じのところです。

何かがわかったような気になる。

そして、また何もわからなくなる。

ここを行き来するのがやっぱり自然なんだろうなとあらためて思いますね。

自己否定について考えてたら悪魔になった

何かを肯定しているということは、何かを否定していて、何かを否定しているということは、何かを肯定していることになる。

こういうふうに物事を考えていくと面白いなぁと思ったんですよね。

私が他の誰かを否定したい時は、私自身の何かを肯定したいときであるし、他の誰かが私を否定するときは、その誰かが自身の何かを肯定したいときである。

否定が起こったそのときに、同時に何を肯定しているのかに注目するのは興味深いことだなと思ったわけです。

自己否定が肯定しているものは?

さて、今日クネクネと考えていくテーマは自己否定です。

自己否定ということはですよ。

自己を否定しているということですから、その時だってなにか肯定されているものがあるはずです。

私は私というものを否定するときに、何を肯定しているんだろうか?

たとえば物事が思い通りにいかなかった時や、誰かと競って負けたときなんかは、

「自分はなんてダメなやつだ・・・。」

みたいな感じで、自己を否定するような言葉がたくさんくるわけです。

さて、そのとき、その裏で何が肯定されているんだろうか?

このあたりを考えてみたわけです。

物事を思い通りに動かそうとする働き

自己否定が起きているときに肯定されているもの。

それを考えていて、まず思いついたのが、「物事を思い通りに動かそうとする働き」です。

  • AをB地点に動かす。
  • BをA地点に動かす。

私にはそれが出来て当たり前。

だから、何かが自分の思い通りにいかないときに、自己否定が起きる。

自己否定が起きているときは、物事は自分の思い通りに動かせるものであるという思考が肯定されている、と思えたわけです。

できるはずのものができないから自己を否定する

自己が否定されているときは、物事は自分の思い通りに動かせるという思考が肯定されている。

思い出してみれば、他の誰かを否定したいときというのは、その誰かが自分の思い通りにならないときなんだよなぁと。

同じように、自分を否定するときというのは、この自分自身が自分の思い通りに動いてくれないときなんだよなぁと。

自己否定の根底にあった悪魔みたいなもの

だから、自己が否定されているときに、その裏で肯定されているものは、物事は自分の思い通りに動かせるという思考であると、なんか納得してしまったわけです。

しかし、なんというか・・・、物事を思い通りにしたい思考、もうちょっと言うと、物事は思い通りに動かせて当たり前というコントロール思考

これってよくよく考えてみると、悪魔みたいなもんだなぁと思えたんですよね。

自我・自己という悪魔

自然、宇宙というのは、まさにそのまま、ありのままです。

その、そのまま、ありのままに対立するような形で自己・自我という「私」が生まれてしまった。

そしてその「私」は、自我中心・自己中心に物事を思い通りに動かせるのが当たり前だと思っている。

悪魔みたいじゃないですか。

コントロール思考は至るところに蔓延る

物事を思い通りにすると言ったって、他の誰かを自分の思い通りに動かそうと積極的に画策するとか、とにかく自分勝手に我儘に振舞うというレベルの話ではなくて、ただ計画を立てて、それに伴って動いていくという行動だって自分を自分の思い通りに動かそうとすることです。

単純に言えば、明日の朝七時に起きようと思って、目覚まし時計をセットするのだって、自分を思い通りに動かそうとしてるということです。

コントロール思考は、私の日常の隅々にいきわたっています。

基本的に、この世界(科学主義の世界)は、自分をコントロール、思い通りに動かすのが当たり前、前提になっているわけです。

そう考えると、大変だなと思うわけですよね。

悪魔をやっつけるには?

そんなふうに考えてきたので、自己否定が肯定している、思い通りに動かそうとする思考、このコントロール思考・願望、この悪魔をいかにやっつけたらいいだろうか?と思考は進みます。

何事も自分の思い通りにしたいという気持ちが、苦しみを生んでいる。

そういうコントロール思考、自分の計らいをもし捨てることができれば

ありのまま

なすがまま

なるようになる

みたいな生き方が自然にできるようになる。

そうしたら、別に何が起こっても、ただ静かに受け入れるだけになれる。

そんなふうに考えたわけです。

悪魔をやっつけるのは無理かも

しかし、そこまで考えたところで・・・ちょっと待てよと。

この悪魔はそもそもやっつけることはできないのではないか?というふうに思えました。

仏教では「四苦八苦」などという考え方がありますが、そもそも苦しみというのは、自分の思い通りにならないということである、と教えてくれます。

また、仏教では、苦しみの元は煩悩であるとも教えてくれます。

  1. 思い通りにならないということが苦しみである。
  2. 煩悩が苦しみの元である。
  3. 思い通りに物事を動かしたい働き・衝動=煩悩では?

つまり、先ほどから私が悪魔と呼んでいたものは、煩悩のことではないか?と。

煩悩の根っこ

私は、これまで煩悩を人間の強い欲望とか、執着のことなんだろうなぁと、わりとフワフワと捉えていました。

しかし煩悩は、より具体的というか、より根っこのところでは「物事を自分の思い通りに動かしたいというコントロール思考・願望」のことなのかもなぁと思えたわけです。

そう考えると、私が悪魔と呼んだものは、結局は私から切り離せないということになりそうです。

悪魔は私だった

仏教は長い歴史の中で、煩悩は人間から切り離すことができないというように、発展・展開してきたわけです。

たとえば浄土真宗の親鸞で言えば、「煩悩具足」。

煩悩の塊こそ自分であるみたいなことを言ってるわけです。

そうなってくると、思い通りにいかない自分を否定していた悪魔こそ自分である、となる。

この悪魔は私なんだと。

悪魔のままで救われていくには

煩悩具足。

悪魔な私。

さて、悪魔のままでどう救われていくか?という話になっていきます。

思い通りに物事を動かしたいという私をなくそうとするのではなくて、この悪魔こそ私と受け入れて・・・。

大体、この悪魔をやっつけたいということだって、自分の思い通りにしたい悪魔の仕業なんですから。

うん。

で、どうするんだっけ?

この辺りで思考は、大きく震えながら展開していくのでありました。

風にもなっていく私

そもそも物事を思い通りに動かしたいっていうのも1つの働きにすぎないよな…。

物事を思い通りに動かしたい。

物事を自分の好きなように、願ったように動かしたい。

自然も宇宙も関係ない、自己・自我中心。

そういう強い思考、願望を悪魔みたいにイメージしたんだけど…。

実際、それは1つの衝動・働きでしかない。

そう考えたら、このそもそも私と呼んでいたものだって、働きでしかない・・・。

ここで、ここまでの考えの筋道がガラガラと崩れていくわけです。

ただ風のように

私は働きでしかない。

私という何か精神的な塊が存在してるわけではない。

それこそ悪魔のような、物事を思い通りに動かしたい私という固定的なものがあるわけでもない。

ただスッと、その時々に現れる、風のように。

現れては、消えていく働きが、ただあるだけ。

残らない。

悪魔も来るけど、それも去っていく。

優しさとか、真面目さとか、そういうのもやってきては消える。

これが私である、それが私であるっていう、固定的なものになるのではなく、消えていく。

働き

私は働きでしかない。

働きとは作用のこと。

何かに対する作用のこと。

固定的な私はない。

今まで私が私だと思っていたものが、震えて、消えて、なくなる。

どれもこれも私じゃなくなっていく。

私が、残らなくなっていく。

全ての私は一つの働きにすぎない。

私が私と言う前の私。

何者でもない何者か。

言葉になった途端に対象化してしまう。

私という言葉は私を指差してしまう。

そのときには、既に二つに分かれてしまう。

私は色も形もない働き。

働き。

働きねぇ。

いつしか何も計らえなくなる

結局よくわからないままですが、これが私ですっていうものが、どんどん言えなくなっていくというのは大事なプロセスのように思えています。

  • こういう反応の特徴が私
  • こういう傾向が私
  • こういう歴史が私
  • これこそ私!

そういうものが消えていってくれる。

黒田明彦としての、社会的な歴史や責任があることはわかっているんです。

それはそうなんだけど、本当のところでは、固定的な私っていうものが、どんどん言えなくなっていく。

なんかそんな感覚になっていけると、いいなぁとか思うんですよね。

考えて立ち止まることがなくなっていく。

ただ動いている。

ただ生きているみたいな。

そういうふうになっていけるといいのかな。

わかっているもの。

よめていくもの。

そういうものが一つずつ崩れていって。

何もわからなくなる。

何もよめなくなる。

いつしか何も計らえなくなる。

それなのに、なぜか安心している。

それが、悪魔のままの私が救われるというときなのかしらん。

空淡、黒田明彦