親鸞に会いに行く道ということで、仏教に関する本を読んでいると、いろいろ発見があります。
今回は、親鸞~禅~池田晶子という感じで影響を受けた私の語りになります。
宇宙には働きがある。
その働き、あなたも感じていますか?
まずはこちらの動画をどうぞ
人生は無意味なのではない「非」意味なのだ【親鸞に会いにいく道vol.16】
それでは補足解説をしていきます。
宇宙には働きがある
親鸞に会いに行く道ということで、語っていこうと思います。
今回は、宇宙の働きっていうところを語っていこうと思います。
親鸞は仏を表す言葉として、法性法身と方便法身という難しい言葉を使います。
法性法身というのは、色も形もないもの。
だから人間には認識できないというか、言い表せない働き。
その法性法身という、色も形もない認識できないような人間を超えた働きから、人間が感じられるような形で届けられるものを方便法身という。
つまり、法性法身とは宇宙の働きそのものであり、方便法身とは、宇宙の働きから私たちに届けられる言葉の相(すがた)そのものです。
この宇宙の働きという言葉がどのように感じられるかというところなんです。
全ての空間、物は宇宙
私にとってはこの宇宙の働きという言葉は、感じるところがあり、わりとピンと来るんですよね。
宇宙というのは、地球の外に広がっている空間のことだけではなく、私を包み込んでいる全てということです。
全ての空間、物は宇宙だと言えるし、私の身体も宇宙の一部ですね。
そんな感覚があります。
その宇宙というものには、一定の方向を持った働きがあるのです。
それは、宇宙は膨張しているという科学の言葉が示すように、とにかく拡大膨張、していくという方向性。
それは、生き物であれば、成長や発展の方向への働きです。
「宇宙は生きとし生けるものを育んでいく、それは宇宙の意思だ!」
という言葉もどこかで聞いたことがあるような気がしますが、意志というと、宇宙に人格があるような感じですね。
一方ではそのように捉えるのも面白いかもしれませんが、やはり私には働きという言葉のほうが感覚的にぴったり来ますね。
宇宙は働き続けている
色もない形もない宇宙の働き。
それは、人間には言葉の相(すがた)となって届けられて来る。
もともと私は、カウンセリングの学習の中で、その辺りの言葉を聞かせてもらっていたのですが、当時から違和感なく、理解することができていました。
宇宙っていうのは止まっていない。
働いている。
宇宙には働きがある。
動いている。
常に動いている。
その働きが私の身にも届いてくる。
そういう感覚があります。
というか、成長、発展の方向に急かされていると感じるときすらありますね。
座禅による迷いと気づき
上記の話を前提に、今回また1つ気づきがありましたので、そのあたりを話していこうと思います。
親鸞に会いに行く道の中で、仏教の本を読んでいると、禅という言葉と遭遇することが多いです。
禅と言えば、禅問答と座禅かなと思うわけです。
私は、これまで瞑想って取り組みは得意じゃなかったんですけど、仏教の学習を進めていくにつれ、座禅に興味が湧いてきてしまいました。
なんか、座禅っていう言葉の響きがいいですね。
というわけで、ちょっと試しにやってみるかみたいな感じで座禅を始めてみました。
試しにと言いながら、今はわりとガッツリやってみてますね。
まだ始めたばっかりですので、とても新鮮で、いろいろ発見があったりもします。
なにもしないをやってみる
座禅。
ただ座って、「なにもしない」をやってみる。
ずっとやり続けていると、
「私は何をやっているんだろう…」
「私はなんでこんな無意味なことをやっているんだろう…」
そんな言葉がやって来ます。
私には特に「無意味」という言葉が沢山来ました。
長めに座禅をやっていると、わざわざ「何もしない」ということをやっていることが馬鹿らしくなってきます。
とても無意味に感じられます。
しかし、それでは座禅の代わりになにか他のことをやるか?
ゲーム?動画鑑賞?漫画を読む?
今まで私がずっとやってきた余暇の過ごし方…。
それも、そもそも無意味じゃないかと思えてきます。
それだったら、これまでとは違い「なにもしない」をやっているこの座禅の方が有益ではないか?と。
しかし、そんなことを考えていたら、どんどんこの人生そのものが無意味なような感じがしてきました。
生きていることの意味
生きていること自体無意味なのでは…。
無意味。
意味わからん。
無駄、無駄、無駄。
そんな言葉がしきりにやって来るわけですが、それでも負けじとただただ、座っていたわけです。
とつぜんやってくる言葉
ところで、最近私は、池田晶子さんの本にハマっています。
若くして亡くなられた哲学者ですが、わかりやすい言葉で人間の深いところを書いてくれているので、非常に参考になります。
迷いの中、座禅をやっていたら、その池田晶子さんの書かれていた文章が、突然フッと思い出されたわけです。
生きることは無意味ではない。「非」意味だ。
無意味じゃなくて、「非」意味。
意味が無いんじゃなくて、意味ではない。
この辺りの言葉がふいにやってきて、「ハッ」としたわけです。
存在にぶつかる
この座禅には意味があるかどうか。
人生には意味があるかどうか。
究極的なところでは、この私には意味があるかどうか。
私は、そこに意味があるかどうか?っていうような探し方をしていて、見つからない見つからないと嘆いていたわけです。
だけど、もう一歩踏み込んだところに、存在という感覚があった。
存在。
私に意味があるかどうかはわかりませんが、私という存在は確かにあるんですよね。
それはもう、疑いようがない。
私という存在は確かにある。
そしてそこで「この存在の意味は?」って考えるのではない。
意味ではない、意味ではないんだ、と考えたときに、働きって言葉がやってきたわけです。
働きのない存在はない
言葉は語り続けます。
続けて私には、昔、私のカウンセリングの先生に聞かせてもらった言葉が思い出されました。
物が存在するってことは、働きがあるってことだよ。
働きのない物なんて、働きのない存在なんて、ないんだよ
存在しているってことは、働きがあるってこと。
なんかその辺りの言葉が、ガチッとつながったんですよね。
存在そのものを感じたときに、そこに必ず働きはある
私の生きる意味、人生の意味、存在の意味ではなくて、存在そのもの。
存在そのものを感じたときに、そこに必ず働きはある。
人生の意味とか、生きる意味とか、私の意味なんかを考えるまでもなく、存在しているのであれば、その存在には必ず働きがあるという事実を知る。
物の意味ではなく、物の存在・働きのレベルで、自分っていうものを捉えてみる。
そうすると、なんか少し救われるところがあるなぁと思うのです。
働きには疑いようがない
私が存在しているってことは、既に、必ず働きがあるんだよ。
存在しているんであれば、働きは必ずあるんだよ。
あらためて、働きのレベルで考えてみると、確かに私がここに存在しているだけで様々な働きはあると言わざるを得ないなと。
私が頭で考えて存在に意味などないとか、あーだこーだ嘆いたところで、私が存在している事実は変わらない、そしてそこには必ず働きがある。
あらためてそこをこう、思わせてもらった感じです。
こんな毎日に意味などあるのかな?と、絶望しがちだけれど、働きはある、働きはあるなと。
それはもう疑いようがないなと。
私の存在と働き
たとえば、私が存在しているだけで、少なくとも1つ屋根の下に住んでいる父や母に必ず影響を与えています。
この働きは疑いようがありません。
こうやって動画を撮影して、youtubeに投稿するという存在の仕方をしているだけでも、必ず働きはある。
どんな意味が?と考えだすとわからないが、働きというレベルで考えれば、それは必ずある。
そしてまた、私と関係する全ての人とのやり取りによって生まれている私の存在もある。
その存在にも必ず働きはある。
存在、そして、働きっていうレベルで、人間、人生、生きる、死ぬってことを考えていくと、なんか一歩、私を超えているところがあるというか、どうにもできないが、確かにそこにあるというものを感じられて、少し安心できるというか。
なんかそんなものがある気がするんですよね。
存在、働き、宇宙の働き。
今回はその辺りで、言葉がどんどんと語ってくれたのでありました。
空淡 黒田明彦